世界一周中断のおしらせ〜旅には2つがある

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世界一周中断します!

世界一周中断のおしらせ〜旅には2つがある

・外界への旅
・内面への旅
・真理の国
・世界一周中断の理由

・外界への旅

旅にはふたつがあるように思う。それは外界のはるか遠くへとこの肉体を連れてさまよう旅、そして自らの内面に奥深く潜り込んで追求する旅とである。

外界への旅というのは極めてわかりやすいものだろう。たとえばこのシベリア鉄道から始まった旅も、日本という祖国を抜け出した異国、外界への旅だ。どこまで行けるかわからないがはるか異国をさまよい歩き、あらゆる異物と接触し、異国の性質だけではなく祖国の輪郭さえ知ることを可能とする。外界への旅というものは、異国を知るものであると同時に、それを鏡面として祖国を巡る旅でもあるのだ。

異国と祖国というのは、あなたとわたしという構図によく似ている。あなたという、わたしとは異なる存在がいるからこそ、その違いから相対性を生み出し、わたしという存在をも認識することができるのだ。あなたとわたしは時にすれ違い、共にいれば摩擦熱を生み出すだろうが、それは当然のことである。異なるということが、あなたを生み出し、わたしを生み出しているからだ。異なるということがなければ、たとえば鏡の中のわたしを見るように、同一の人間となりひとつの存在へと溶けてしまうだろう。

人間が共に暮らし、ぶつかり合うことはちっとも不自然なことではない。むしろ正常なことだ。あなたとわたしという異なる人がいて、それがわたしをも映し出してくれているのだから、ぶつかり合うことですら生きる喜びである。よく社会にはぶつかったり争ったりするのがいやで、またはこの東北アジアの儒教の力に屈して、自分自身に嘘をついたり意見を捻じ曲げる人間が見受けられるが、それでは生命の自然な摩擦熱を感受する力を失ってしまうだろう。ぶつかることや争うことが存在すら生み出し、生きる感覚を自然と与えてくれることを思えば、人間の世界の中ですれ違ってしまう自分自身を嫌いになる必要もないのではないだろうか。

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外界への旅立ちというのは思うよりも簡単だ。まずは自らの中に旅立つ運命であるという炎が燃え盛ること。その条件が整いさえすれば、もはや旅立ちは遠くない。ひとりで異国をさまようことに対する多少のおそれはあるだろうが、あなたが真に旅の炎の燃えている運命にあるというのならば、そのおそれさえ焼却しおそれは惨めな灰と化すだろう。あとは少しのお金さえあれば祖国を旅立つことができる。

外界への旅立ちは日本人の場合は、大抵航空券から始まる。航空券を購入しあるいは宿を予約する。異国での街同士の移動も、バスや鉄道の乗車券を購入することで可能だ。肉体の外界への旅立ちは、おおよそ自らの炎とお金があれば成し遂げることが可能だろう。それゆえこちらの方は、お金をためさえすれば誰にでも可能なものであると言える。

その人の状況や仕事内容にもよるだろうが、他国に比べれば日本人は割とお金を貯めやすい境遇にあるのではないだろうか。世界を旅していて思うのは、やはり日本人はお金持ちなのだ。よくそんなにお金持ちではない国々を訪れると、自分もあなたのように旅がしたいけれどお金がそんなのもらえないので不可能だという人々に出会う。その度に、旅が可能な自分と不可能な彼らの違いはなんだろうと思案するが、やはり生まれ着いた国、すなわち運が違っただけではないかと思われる。たまたまぼくはお金持ちの国に生まれたから、お金を貯めて旅立つことができたけれど、彼らはそんなにお金持ちの国に生まれたわけじゃなかったので、国際的に比較してお金をあまり稼げないのかもしれない。それゆえにこの運を無駄にしてはいけないとも思う。次生まれた時にはもはやお金持ちの国じゃないかもしれないからだ。人間でもないかもしれないが。

 

 

・内面への旅

外界への旅立ちは肉体的で比較的単純であるのに対して、自己の内面への旅というのはあまり意識しない事柄かもしれない。しかしまぁこの自分というものは、よく考えてみれば異国よりもはるかに不思議な存在だ。異国というものは、あるいはもっと遠くの宇宙だって、お金さえ出してしまえば旅することが可能だが、自己の内面の宇宙というものはそんな単純な換算で旅できるものではない。

自己の宇宙というものは、いったいどこまで深いのだろうか。それとももしかしてすごく浅かったりするのだろうか。しかしこの肉体の目を用いて覗いてみることができないので計り知れない。心の目で見たとことで、心の目が自己の内面の光を的確に捉えることができるのだろうか。もしくは自己の内面の世界というものは、果たして光を放っているのだろうか。

そもそも自分というこの存在や意識だって、どのように生まれているのか定かではないし、それは他人が持っている自己というものに関しても同じである。わからないものがわからない同士で関わり合い存在し合い、人間社会というものは営まれているのだ。まさに不可思議、不可思議と言った心境である。そして果たして自分というものの奥底には何があるのか、自らの核や根源の正体は何か、そしてそれは死ねば消えるものなのだろうか。

この肉体が死ねば消えることは火を見るよりも明らかであるからどうでもいいが、この肉体に伴っているかもしれない心や魂はいったいどうなるのか。インド原産の思想のように生まれ変わるのだろうか、支那出身の思想のようにそのままの形であの世へ飛ぶのだろうか、それとも科学者の述べるように無へ帰るのだろうか。もしもなにもかもなくなるとして、それでも消えずに残っていくものは何だろう。時間を超えても、空間を超えても、変わらず保たれ引き継がれ、残存するものは何だろう。それを見出さずにあなたは死ぬことができるだろうか。ぼくは、できない。

 

 

・真理の国

どんなに勉強をしたとて、どんなに知識を蓄えたとて、そしてその結果としてどんなにお金を蓄えたとて、決してたどり着けない国がある。その真理の国は、どんなにお金を貢いだからとて、誰ひとり連れて行ってはくれない。誰もそこへの行き方を知らない。誰もそこまでの航空券を持たない。誰かに頼っていては、たどり着くことはできない。

もしかしたら逆に、手放すことが必要なのかもしれない。浮世で学んだ意味のない常識を手放して、書物で蓄えた無様な記憶を手放して、これだけが頼りと見境なしに稼いだ金銭を手放して、もしかしたらその先に、真理の国への通路は開かれるかもしれない。

聡明なものは、既に渡り終わっている。唯一の手がかりは、自らの中に燃え盛る炎。美しい炎の色が見えずに、浮世の誰もがさまよい惑っている。その秘密をどのように解するかがわからない。その因縁をどのようにほどくのかがわからない。けれど聡明なものは、既に渡り終わっている。

旅人の炎

ぼくの中には海がある。それを誰かが呼んでいる。あなたの中には海がある。それを誰かがたどってゆく。ぼくの海に起きた波が、あなたの海とは関係がないとは限らない。あなたの中に響く海鳴りが、ぼくの中の海へと伝い渡る日もある。共鳴する振動。あるともないとも言えぬ風の姿。受け取ることのない闇。時を超えて受け取られる光。直感からまっすぐに訪れる原始の熱が、この胸にも波及する。ぼくの中に疼く直感の泉源。熱量は決して消えない幽霊。永遠の海を漂うもの。

 

・世界一周中断の理由

外界への旅はいつでもできるけれど、内面への旅には、ふさわしい日があります。ふさわしい場所があります。ぼくはそれを見逃すことができません。外界への旅よりも、内面への旅の方が、大切なときがあるのです。

3ヶ月に及ぶこの長い旅は、シベリア鉄道の旅から始まりました。ロシア、フィンランド、バルト三国、チェコ、ポーランド、ハンガリー、オーストリア、スイス、フランスを経て今はベルギーにいます。これから1週間後に世界一周を中断します。

中島みゆきの夜会VOL.20「リトル・トーキョー」を見るために、日本へ帰ります!!!!!

日本に帰ってからも旅を続けるよ!

 

 

 

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