10年越しの野望!ウィーン・ベルヴェデール宮殿でクリムトの「接吻」を鑑賞してきた

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10年前のウィーン旅行でどうしても心残りだったのはクリムトの「接吻」を見逃したことだった。

10年越しの野望!ウィーン・ベルヴェデール宮殿でクリムトの「接吻」を鑑賞してきた

・見逃したクリムトの「接吻」
・10年越しの野望
・ベルヴェデール宮殿
・音読みと訓読みの妙
・クリムトの「接吻」

・見逃したクリムトの「接吻」

今回ウィーンを訪れた際にどうしてもやり遂げなければいけないと思っていたことは、クリムトの「接吻を」鑑賞することだ。他の何をし残してもいいがこれだけは達成しようと心に決めていた。

10年前にも美術館に訪れる時間はあった。膨大な量の美術品を所蔵するウィーンの美術史美術館を十分な時間をかけて回ったのだ。ここにはおそらく最も有名なブリューゲルの「バベルの塔」や「農家の婚礼」などをはじめとした数々の作品たちが取り揃えられており、じっくりと見ていたのでは1日あっても足りないのではないかと思われるほどの作品たちを鑑賞することができる。

10年前のぼくはてっきりすべての有名なウィーンの絵画はこの美術史美術館にあるのだろうとよく調べもせずに思い込み、結局クリムトの「接吻」をはじめとする作品は見当たらず、そのまま絶対見に行かなければならないという思いも起こさないまま2泊3日をウィーンで徒然と過ごし、結局見ないままに終わってしまった。その時はなんとも思わなかったが、時が経つごとにせっかくウィーンに行ったのだからぜひ見ておきたかったという思いが強くなっていた。

今度訪れた時には必ず見に行こうと心に誓っていたのだが、そうは言ってもウィーンをもう一度訪れる機会なんてなかなか来るものではない。旅行の予定を立てる際だって、一度行ったことのある街は避けてできるなら行ったことのない街に行きたいという思いもあり、その願いは叶わないままに久しくなっていた。

 

 

・10年越しの野望

そして今回やっと念願叶ってウィーンに訪れる機会を得た。今回こそクリムトの「接吻」を見ようときちんと調べてから街へと繰り出した。

クリムトの「接吻」は街の中心からちょっと離れた不便なところにあるという。ベルヴェデール宮殿(schloss Belvedere)という宮殿が、クリムトの「接吻」を所有している施設の名前だ。ベルヴェデール宮殿は上宮と下宮にわかれており、クリムトの「接吻」があるのは上宮だという。入場料も上宮と下宮で別々になっていた。

ぼくは別にベルヴェデール宮殿を見たいのではなく、クリムトの「接吻」を見たいだけなので上宮のチケットだけを購入する。値段はなんと16ユーロだった!高い!なんだかインターネットで調べた値段よりも高くなっているのは気のせいだろうか。しかし文句を言う筋合いはない。ぼくはクリムトの「接吻」を見たいのだから何円だろうが入場料を支払わなければならないのだ。泣く泣く1枚の絵を鑑賞するために16ユーロを支払って中へ入る。これで意外としょうもない絵だったら悲しい限りであるが、それは実際に見てみるまでわからない。

 

・ベルヴェデール宮殿

クリムトの「接吻」を見るためだけにベルヴェデール宮殿を訪れたぼくであるが、この宮殿の外見もなかなか素晴らしく見とれてしまった。屋根のミントグリーンの優しい色彩と豪華で白い壁面がオーストリアの優雅な城という雰囲気を醸し出している。外見も華やかで美しかったが内装も外見に劣らず素晴らしかった。他の芸術作品もたくさん鑑賞することができるし、これで「接吻」まで見られるのなら適切な値段ではないかと思い始めていた。

クリムトの作品はベルヴェデール宮殿の上宮の2階に存在しているようだ。看板の案内を頼りに足を進めていく。誰もがここに「接吻」を見に来るらしく、看板にはわざわざ「The Kiss」の文字が掲げられている。この1作品のためだけに案内があるなんてもはやその時点でその他を大きく凌ぐ存在感を見せつけているのに等しい。そんなにすごい作品はどのようなものなのだろうか。

 

・音読みと訓読みの妙

しかし「接吻」を「The Kiss」と書くとなんだかものすごく気の抜けた軽薄な感じがするのは気のせいだろうか。なんだか漢字の音読みで「接吻」と書くからこそものものしい威厳のある感じが醸し出されている気がする。和訳が「キス」などにされなくて本当によかったと思う瞬間である。「接吻」という題名だってきっと昔の日本人が、軽薄な印象にならないように名付けたのだろうと思われた。しかし本来の名前はドイツ語で「Der Kuss」と書くらしく「The Kiss」の方が作者のイメージに近いのだろう。

この「接吻」の例に限らず日常生活における、訓読みの大和言葉よりも輸入した中国語の音読みで読んだり話したりした方が重々しく威厳のある感じを醸し出せるという日本語の文化の特徴は非常に興味深いものがある。きっと偉大な中国大陸に憧れ続ける昔からの気持ちがまだまだ抜けないのだろう。それほどに中国の文明がぼくたちに与えた影響力は強かったということだろうか。「たべもの」というよりも「食物(しょくもつ)」、「書く」というよりも「記述する」と言った方が確実に固くてちょっと賢い印象を残せるのは決して気のせいではないだろう。日本の言葉を操る人々はこのような日本人の感覚に気づき非常に敏感になりながら文章や詩を編んでいるに違いない。音読みであればかたく男性的で厳かで賢い印象に、訓読みを組み立てれば女性的で優しく故郷に帰るような心の柔らかさを得ることができよう。

ということはクリムトの「接吻」という和訳を残した昔の日本人は、クリムトの絵になにか重々しく神聖な印象を残したかったのだろうか。そのような印象を残したのは、クリムトという作者本人ではなく創造に関与しない日本人の他人であるという事実が面白い。翻訳ということを通して変えられるイメージや印象は、創造主の思いすら超えて勝手に進行していくものなのだろう。重要なのは絵そのものだから別にいいと言えるだろうか。いやおそらく題名も絵そのものと同じくらい重要な可能性もあるかもしれない。題名が「接吻」か「キス」かで、おそらく受け取り手の日本人のその絵に対する印象はだいぶと変わってしまうはずだ。

 

 

・クリムトの「ユディト」

しかしぼくはそんな話をしたかったのではなくクリムトの「接吻」を見てきたという思い出を話したいだけなので話を戻そう。「接吻」が現れる前にもうひとつのクリムトの代表作が突如姿を現した。「ユディト(Judith)」の絵である。クリムトに興味がなくてもこの絵を見たことがある人は多いのではないだろうか。

クリムトは細部を眺めるのが楽しいと、この絵を見ながら感じた。そして何より金色の色使いが巧みである。使いすぎず少なすぎずその絵の魅力を最大限に引き立たせるような割合で金色が用いられているように感じられる。「接吻」の絵も実際に見ると金色に輝いているのだろうか。

 

 

・クリムトの「接吻」

「接吻」を見てまずその大きさに驚いた。印刷やインターネットで見たものではその絵画の大きさがまったくわからない。実査に見てものすごく小さかった例もあるし、「接吻」はどのような大きさなのだろうと思いを巡らせていた。そして実際に目の前に現れた「接吻」は思ったよりもずっと大きかった。

そしてやはり細部のこだわりが美しい。長方形や円形などの幾何学模様が美しくお洒落に配分されておりデザイン的にも見ることが楽しめる。そのような無機質な幾何学模様があるからこそ「接吻」という生物的な有機的行為もさらに際立つという印象がある。細かな花から春らしいあたたかな感じが伝わってくる。「接吻」という頂点に精神が赴く際の幸福のこの上ないあたたかさが表現されているのだろうか。

そして金色の配分や使い方がやはり巧妙で美しいと感じる。ぼくは器を集めるのが好きでよく世界の器を眺めているが、金色が器の縁にちょっとだけ円形に塗られていたりするのが非常に好きである。少しだけ金色が施されることで見違えるように豊かな作品に変貌するのだ。これが金色だらけだと下品でいけない。ちょっとだけだからお洒落で粋なのだ。ぼくは「接吻」金色を眺めながら金色の縁の美しい器のことを思い出していた。

そして春の中で崖の果てに佇んでいる姿も美しい。「接吻」という精神の快楽はちょうどこの崖から落ちてしまうか落ちないかの瀬戸際のような、男性でいうと射精間近のような快楽の感覚に似ているのだろうか。本当に快楽なのかわからない、ともすれば不快とも取れるような得体の知れない古代から受け継がれた感触。それを快楽と誰もが名付けるから快楽と言わざると得ない、けれどひと時も忘れることのない、自らの生命を最も思い起こさせてくれる感触。あらゆる優れた芸術は、深く人間という枠を飛翔して、動物的、生命的、根源的な感触へと回帰していくものだろう。

 

 

 

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