ぼくが旅に出る理由1:旅だけが時間の逆行を可能にする

 

時間というものは一般的に過去から未来へと流れる法則があるらしい。

旅だけが時間の逆行を可能にする

・誰もが生老病死の苦の中に
・老いの苦しみを身にまとい
・時の逆行/生命の遡上
・旅という反乱
・時の操縦/命のはからい
・彼岸も此岸も見知らぬ異郷

・誰もが生老病死の苦の中に

ぼくたちはだんだんと年老いていく。生まれ、老い、病んで死んでいくのが、人間および動物の運命であるようだ。それゆえ人生は生老病死の苦しみの中にあるものだと、仏教では説かれている。もちろんこれは真実である。自分のまわりを見渡してみても誰ひとりとして、老いない人、病まない人、死なない人は認められない。人間は皆このパターンを取りながらやがてはその人生の幕を閉じる。

たとえば沢山の人の命を救ったどんな善人であろうとも、何人もの人を殺した悪人であろうとも、どちらも等しく生老病死の波に呑み込まれるしかないということは、興味深い事実である。著しい善人なら何千年も幸福に生きながらえて、極めて悪人ならば苦しみの中1秒で死んでしまうというのならば、人間も善行を果たそうと試みるだろうが、まったくそうではなく、逆に善人の方が苦しみ早く死んでしまう場合だって十分にありえることは、人生とは何かそして善悪とはと、ぼくたちを思案せざるを得ない気持ちにさせる。

 

 

・老いの苦しみを身にまとい

生老病死の苦しみの中でも、特に老いるということは身近な苦しみであろうと思われる。どんなに美しく生まれようとも時の流れには逆らえずすっかり老いさらばえてしまうという情緒は、日本を代表する美人の小野小町からも和歌を通して受け取ることができよう。

“花のいろは 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに”

老いるということは、ぼくたちに常にまとわりつきそして決して離れることはない。幼い頃などは「老いる」ということを「成長」という非常にポジティブな名称で呼ばれることもある。これは子供の頃の老化は、能力や肉体の発展を伴うことから来る明るいイメージのおかげだろう。大人になれば、肉体は老いて徐々に滅びへと向かう一方だろうが、精神や能力の面では「成長」と呼べないこともないだろうし、そう呼んだ方が気休めにもなるというものだ。老いれば老いるほどにできることだって増える場合もあるし、常に成長しようと努力して世の中をとらえているような人々は特にその素質があると言えよう。逆にただ受け身で何も考えずなんとなくぼーっとしながら眠るように人生を生きてきたという人は、老化という言葉にふさわしい存在かもしれない。

 

・時の逆行/生命の遡上

時間は過去から未来へと流れる、そしてそれに伴いぼくたちは老いることを避けられない。それは実に明らかな真実のように思われるが、果たして本当だろうか。本当にぼくたちは老いるという苦しみしか、生きる道が残されていないのだろうか。たとえば時計を鏡面に写し出したならば、時計は逆回りを始めて時の流れは逆行を開始したように見える。まさにそのようにして、ぼくたちは過去へと遡上することができないだろうか。まるで知床半島の冷たい川の中を命を継ぐために必死に駆け上がる鮭のようにして、ぼくたちの命は生きることが不可能だろうか。

時の流れの川に従うしかないというのはなんともやりきれない。もちろんそのような苦しみを受け入れた時点から本当の人生が始めるということは、仏教でも説かれている通りだが、ぼくたちは本当にその運命に従う他ないのだろか。必死に遡上するように、駆けのぼるように、この精神を傷だらけにしながらも、運命の川の流れに逆らって生きることはできないだろうか。

 

・旅という反乱

ぼくはこの人生の中で、遡上する方法をひとつ見つけた。それは“旅すること”である。旅をすればぼくたちは、不可能かと思われた時の川の流れおよび運命の川の流れに反抗する手応えを、少なからず感じることができるのだ。

ぼくたちは異国を旅する。すると途端にぼくたちは赤子のようになる。言葉を知らなかったsの時代のことを思い出す。今まで祖国では操ることができていた“言葉”という道具をまったく使いこなすことができない。ロシア人のロシア語がわからない。フィンランド人のフィンランド語がわからない。これでは世の中のことが何もわからない。当たり前のようなことだが、これは旅の中の自分自身の姿である。まだロシアの赤ちゃんの方が、ぼくよりも流暢にロシア語を話している。ロシアの大地の中では、ぼくはあかちゃんよりも言語上幼く無力な存在なのだ。これは驚くべき事実である。

せっかく今まで生きてきて、小学校・中学校・高校・大学だって無事に卒業して、仕事だってしてきて、世の中のことなんてわかりきっていると思い込んでいた傲慢な心が、ここで一気に打ち砕かれる。ぼくは赤ちゃんよりも無力で無知な存在だ。しかし旅人は、無力となった自分自身を精一杯感じようとすることができる存在である。

考えてみればこれは非常に珍しい経験だ。ぼくたちは時間が未来へと流れていくことしか知らなかったが、こんなにも簡単に過去の感覚に戻ることができるのだ。まったく言葉を知らなかったあの頃へ、自分自身を具体的に伝えることができなかったあの頃へ、世の中のことなんてまったく知らなかったあの頃へ、異国はぼくたちを導いてくれる。そして旅は教えてくれる。時の操縦は可能なのだと。

 

 

・時の操縦/命のはからい

異国の中を生きると時間がゆっくりと流れる。経験したことがないことに直面しそれに対応していると、時間はゆっくりと流れるらしい。決して大げさに言うわけではなく、ぼくは旅のさなかで、3日間を半年くらいと感じたりするのだ。そしてそのような経験は幾度も幾度も訪れる。ぼくたちは聞いたこともない言葉たちに触れる。時間がゆっくり流れる。見たこともない美しい景色を眺める。時間は減速を始める。スーパーマーケットでの野菜の買い方がわからない。時間が止まったように戸惑う。

物理や数学では、時間は均等で整然とした一方通航の存在だ。そんな直線的、ベクトル的な時間的概念を旅という行為が打ち破る。時間はバラバラだし、まばらだし、ちぐはぐだし、そして逆行だってし得る不可思議な存在だ。時間は決して理想上の綺麗で規則正しく整っていた都会のビルのような存在ではなく、むしろ誰も寄り付かない紀伊山脈の奥深くの神社で信仰されている歪んだ形の巨大な岩石のような存在である。そのような時間の正体を見破った上で、ぼくたちは旅を継いでいくことができる。

 

 

・彼岸も此岸も見知らぬ異郷

ぼくは今でも異国の旅のさなか。ぼくは赤子よりも無知で無力な存在だ。むしろ赤子よりも前の時代を生きているような感覚。赤子より前とはどのような時代だろうか。胎内だろうか、精巣内だろうか、減数分裂以前だろうか、いやむしろもっと以前、もしかしたら生まれる前の姿へと帰り着いているのかもしれない。

彼岸も此岸も見知らぬ異郷。ぼくら旅人は時間の感覚を狂わせて、さらには時間を逆行させただけでは飽き足らず、命さえ通り越して、この一生さえ超え果てて、前生と今生の境界線さえかき消して、旅を継いでゆくのかもしれない。しかしそれでいいのだ。旅することは誰でもない人になるということ。どこの国の人かを忘れ果て、いつの時代の人かも忘れ果て、あらゆる所属を脱ぎ捨てて、その先にたどり着く境地はただひとつ。

“イマ ボクハ ココニイル”

 

 

 

中島みゆきの夜会「24時着0時発」に導かれ秋の北海道・知床半島へ鮭の遡上を見に行ってきた

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