自我を打ち砕かれる聖域!イランのイスラム教モスクの内部は人を映し出さない鏡面の宇宙だった【2/2】

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わたしは鏡をさがし出す。

自我を打ち砕かれる聖域!イランのイスラム教モスクの内部は人を映し出さない鏡面の宇宙だった【2/2】

・無意識のうちに自ら書き上げた旅立ちの文章
・麗しきイランは詩的な国
・「詩と光」
・イランのモスクは幾何学模様が美しい
・イランのモスクの鏡の伝説
・無意味な鏡
・自分がここにいるという果てしない苦しみ
・砕かれた鏡と自己の解脱
・預言:わたしは鏡をさがし出す

・無意識のうちに自ら書き上げた旅立ちの文章

イランの美しき鏡の予言!無意識下の創造はやがて来る未来を暗示する【1/2】

ペルシアの鏡【1.5/2】

ぼくはタイのパタヤで家庭医療学会の出張があったついでに、夏休みをとってそのままバンコクからイランへと旅立った。タイまでの出張費を出す代わりに海外主張する意気込みを書いて提出するように急遽院長に言い渡されたが、日々の多忙に追われる中で無意識のうちに書き上げた文章は、自分の精神の無意識領域を掬い取ったような自分自身にとっても不思議な文章だった。

 

”和辻哲郎の「風土」を読んで新鮮な感動を覚えてからもう5年の月日が経つというのに、それはついこのあいだのことのように思われる。時代を超えて人々に感動や気づきを与える書物は、ひとりの読者の人生の中でさえ、時間を感じさせない力があるようだ。

その本によると、風土とは単にわたしたちを取り巻く自然環境を示すわけではなく、その中を生き抜いているわたしたちの肉体、その精神にさえ風土は深く刻まれており、自らの存在を了解するためには、自分の中に知らず知らずのうちに内在し、同一化している風土の正体を突き止めることが重要であるという。風土は、わたしたちであり、わたしたちは、風土である。

さらに著者は、この世界の風土は主に3つに分けられるという。すなわち、モンスーン型、沙漠型、牧場型であるという。その中でモンスーン型とは、主にアジア地域のことを指す。欧州の精神の根源であるギリシアでは、美しく晴れた日が多く、常に見晴らしがよかったという。「見る」という行為が、困難なく可能なその風土の中で、人々は観察という行為を育んだ。またその土地では、雑草というものが育たなかったことから、自然というものが押し寄せてくるという経験がなく、自然を支配できるという能動的な思考が生まれた。この観察する習慣と、能動的な思考が相まって、現代の科学技術は欧州で生まれることが可能になったのだと、著者は推測している。

それに対して湿潤なアジア地域では、雑草というものがよく育った。人々がどんなに努めて雑草を取り払おうとしても、雑草は後から後から土から生まれ出た。その結果として、アジアの人々は、自然を支配するという考えを微塵も持つことはなく、むしろ無造作に生い茂る雑草をあきらめて、迫り来る雑草も、またそれを育む大量の雨も、そのまま受け入れて生きていこうという受容的な精神構造が生まれた。その精神構造の中に、わたしたちも存在している。

異国を旅することは楽しい。遥か彼方の異国を旅するとき、わたしは濃厚な異物となって世界と対峙し、その相違に驚嘆し、また悲しむこともできる。自らが異物であると感じることができるとき、わたしは自分自身に帰り着く思いがする。どのような大地に生きようとも、たとえそれが故郷であっても、わたしはいつも異物だった。

しかしまた、近隣の諸国を旅するとき、わたしはその繋がりに心揺さぶられる。髪の色や、文字の形や、仏の教え。日々の仕草や、衣の色彩や、儒のしりたり。同じであればあるほどに、人は違いを求め出す。似ている色の雨に打たれて、どのような色に人々の心は染まるだろう。わたしは鏡を待っている。わたしは鏡をさがし出す。”

 

 

・麗しきイランは詩的な国

イランはぼくがこれまで旅してきた中で、最も美しい国のひとつだ。緻密な幾何学模様のモスク、詩的で麗しい街並み、清らかで心優しき人々、そのすべてがぼくを魅了して、異国情緒あふれるイランを旅する日々は、まるで夢の中にいるように通り過ぎていった。

異国のことを”詩的だ”などと、どうして言葉もわからない外国人のぼくが感じることができるだろうか。しかし自然と純粋にそう感じられてしまうほど、イランのすべては”詩的”だった。遠い昔から続いてきた文化や、ここで育ち培われてきた美的な感性、それらと共に護られ引き継がれてきた祈りの姿が、ぼくにイランを詩的だと感じさせるのだろうか。

言葉もわからない異国を”詩的”だと感じたことは、世界広しと言えどもイランが最初で最後である。世界の中でも特別に、詩的で、麗しく、美しい稀有な国、それがイランだった。

 

・「詩と光」

旅立ちは転生への道
美しい風にあおられながら
「どこから来てどこへ行くのか」
誰もがその答えを待っている

答えは乾いた砂漠の風の中
答えは碧い海原の行方
ぼくたちは瞳を閉じる
そして果てしなく耳を澄ます

幾何学模様が心を象る
砕けた鏡が真理を司る
あてどない歌を歌ってくれ
どこにも届かない遥かなる旅歌

どうしてぼくは創られたのか
どうしてぼくは天に手をのばすのか
貫かれる意思の声を聞き
安らかな創造は開かれる

大いなる意味は異国の言葉
訳するための人はない
それでもぼくは泣きながら
孤独なる天の歌声を聴く

 

・イランのモスクは幾何学模様が美しい

イランの旅の中で最も印象的だったのはイスラム教のモスクだった。イスラム教のモスクには、イスラム教徒以外は入れないという排他的な場所も世界にが多いが、イランのモスクはたとえ異教徒であろうと入れてくれるという寛容さが特徴的だと感じた。

イスラム教では偶像崇拝が禁止されているので、キリスト像や仏像などの像が安置されることもも、そのような人間や物質が描かれた具体的な絵画が飾られることもない。古代のイスラム教徒の人々はいかにして民衆をモスクへ訪れたい気持ちにさせるかを思案し、その結果として美しい幾何学的なモザイク模様が施されるようになったと言われている。ぼくはイスラム教のモスクの建築物に施された色とりどりで幻想的な幾何学模様が、直感的に大好きだった。

イランのモスクには青色のものが多く、巨大な幾何学模様の芸術に圧倒され、感動し、心からイランを美しいと思った。そして思い切って未知なる国、イランを訪れることを決めてよかったと感じた。

 

・イランのモスクの鏡の伝説

イランのイスラム教モスクは外から見た幾何学模様も壮麗で美しいが、内部もまた幻想的な世界が広がっている。なんと砕かれた鏡が内部の壁全体に渡って張り巡らされているのだ!ぼくは今までマレーシアやモロッコやスペインのアンダルシア地方などで、イスラム教のモスクを見学してきたが、このような内装になっているのを見るのは初めてだったので、深く感動したと同時に不思議な気分に陥った。

イランのモスクでは係りの人が親切にも旅人のために内部を無料で案内してくれる。彼が教えてくれた物語では、イランは100年ほど前にイラクから大量の鏡を輸入していた。しかし輸送方法が発達しておらず、運ばれてきた鏡は皆粉々に砕け散っていた。仕方なくその砕かれた鏡たちでモスクの内装を施したということだった。奇妙で幻想的な物語だ。

ひとつのモスクだけでなく、イランでは多くのモスクがこの砕かれた鏡で内部を装飾する形をとっていることをぼくはこの目で目撃した。壮大にそして幻想的に広がるイランの鏡の世界。ぼくはその圧倒的な世界に肉体も精神も飲み込まれ、詩的で美しいイランにおいて、さらにもっと特別で超越的な世界を訪れたような妙な感覚に陥った。

 

・無意味な鏡

モスクの内部は砕かれた鏡で満たされているとは言っても、いざ自分が砕かれた鏡の前に立っても、自分自身の姿は映し出されない。ぼくはそれに衝撃を受けると同時に、これはイスラムの神からの啓示ではないかと受け取った。

人は鏡の前に立てば、当然自分の姿が映し出されると思い込んでいる。もしも自分の姿が映し出されないのであれば、それが鏡である意味がないからだ。人は鏡を覗き込んでは、お化粧をしたり髪を整えたり服装を確認したりしながら、自らの外見を整えていく。それができない鏡に、自分自身を映し出してくれない鏡に、何の意味があるのだろうか。

しかしそんな無意味な鏡が、今ここに、詩的で麗しいペルシアの国の中の、荘厳な神の聖域の中に設置されているのだ。なんと圧倒的な無意味さ!なんと深遠な鏡の無意味さだろうか!そしてぼくは砕かれた無意味な鏡からのメッセージを、瞬時に直感的に読み取るに至った。

 

 

・自分がここにいるという果てしない苦しみ

ぼくたちは、自分がここに生きていると思い込んでいる。世界は自分と他人とでわかれ、自分ではない他人という生物と、他人ではないという否定から発生する唯一の自分という存在とで、分裂させられたままで孤独に浮世を渡っていく。自分が存在しているのだということを、何の根拠もなく信仰する日々。自分と他人とが分裂している世界を前提に、あらゆる冷たい苦しみが降り注ぐ時間。

ぼくたちは、自分が、ここに、いるということを信じざるを得ない。自分が、ここに、いるということが、あらゆる生きる上での苦しみの根源であることを知りながら、自分という感覚を、手放すことはできない。なぜならば、鏡を見れば、そこにいるからだ。鏡の中には、他の誰でも決してない、他人とは異なる、”自分”という人間がいるからだ。

鏡が教えてくれる”自分”を、ぼくたちは信じざるを得ずに、自己を信仰せざるを得ずに、自分と他人とで明らかに分裂された孤独な時代の中を、青い氷の大地を裸足で歩くかのように、痛みながら惨めに生き抜いてゆく。誰かこの呪いを解いてはくれないだろうか。自分なんていないのだと、他人と自分はひとつなのだと、誰か語ってはくれないだろうか。

 

 

・砕かれた鏡と自己の解脱

ペルシアの鏡たちはぼくに語りかける。鏡として無意味であることにより人を解脱させる。

”自分”なんて、ここにはいないのだよと。”自己”なんて今ここで、打ち砕かれたのだよと、人を映し出さない鏡面は、ぼくの心に向けて真理を注ぎ込む。荘厳な美しさの中に、真理が宿っている。これこそが聖域だと、ぼくは思った。

自分として、ここに生きる苦しみ。あなたではないのだと、ひたすらにすべての世界を否定した果てに立ち現れてくるところの自分。自分という穢れは、このペルシアの国において解き放たれた。自己という魔物は、詩的なペルシアの大地によって打ち砕かれたのだ。

ぼくはペルシアの鏡を忘れない。何も映し出さないことでぼくのすべてを映し出した、あの鏡を忘れない。

 

・預言:わたしは鏡をさがし出す

ぼくはイランの旅を終えて、宮古島の自宅にたどり着いてやっと思い出した。ぼくはこの旅の直前に、無意識の創造のうちに、聖なる鏡との邂逅を、まさに自ら予言していたのだった。

”わたしは鏡を待っている。わたしは鏡をさがし出す。”

 

 

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