吉田松陰の一生って波乱万丈で面白い!!!!!
辞世の句は?死因は?山口県萩市の「吉田松陰歴史館」で松陰の生涯を体系的に学んだ
・ぼくの「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅
・「吉田松陰歴史館」は吉田松陰の生涯をわかりやすく学べる博物館だった
・松陰は杉百合之助の次男として生まれる
・4歳で叔父の吉田大助の養子になる
・11歳の御前講義でその才能が認められる
・19歳の時、平戸で葉山左内につき猛烈な勉強を開始
・20歳で東北諸国を遊歴
・佐久間象山からの西洋学の学び
・23歳でアメリカ軍艦の密航に失敗し、逮捕される
・密航の罰として萩の野山獄に幽閉される
・26歳で、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を引き継ぐ
・儒教の気風を嫌った松下村塾
・27歳で倒幕に向けて動き出し、再び野山獄に投じられる
・死刑の判決を下されて辞世の句を詠む
・わずか29歳で死刑となった
目次
- ・ぼくの「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅
- ・「吉田松陰歴史館」は吉田松陰の生涯をわかりやすく学べる博物館だった
- ・松陰は杉百合之助の次男として生まれる
- ・4歳で叔父の吉田大助の養子になる
- ・11歳の御前講義でその才能が認められる
- ・19歳の時、平戸で葉山左内につき猛烈な勉強を開始
- ・20歳で東北諸国を遊歴
- ・佐久間象山からの西洋学の学び
- ・23歳でアメリカ軍艦の密航に失敗し、逮捕される
- ・密航の罰として萩の野山獄に幽閉される
- ・26歳で、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を引き継ぐ
- ・儒教の気風を嫌った松下村塾
- ・27歳で倒幕に向けて動き出し、再び野山獄に投じられる
- ・死刑の判決を下されて辞世の句を詠む
- ・わずか29歳で死刑となった
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・ぼくの「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅
こんにちは!世界一周+日本一周の旅を続けている水色です。
ぼくは今までの人生で日本海沿いの地域をほとんど旅したことがなかったので、新型コロナウイルス感染拡大の影響で外国にも行けず旅人としてはこのまま日本を深めるしかないという絶好の機会に、日本海沿いを北上する車中泊の旅を決行した!
岡山県、広島県、山口県、佐賀県、長崎県、福岡県、大分県、熊本県、島根県、鳥取県、兵庫県、京都府、福井県、石川県、富山県、新潟県、山形県、秋田県、青森県、フェリーに車ごと乗り込んで北海道函館まで渡り、そのまま北海道の最北の離島、礼文島の澄海岬を「日本海沿いを北上する旅」の最終目的地とした。
そのまま北海道をぐるっと一周し、再びフェリーに乗って青森県へ!青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、長野県、岐阜県、山梨県、静岡県と「太平洋沿いを南下する旅」を完遂した。
結果的にぼくは7月〜11月までの間ほぼ4ヶ月かけて「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅を達成したことになる。この旅ブログ「ミズイロノタビ」では、あまりに感動的で素晴らしすぎた日本一周の旅の一部始終を公開しようと思う。
・「吉田松陰歴史館」は吉田松陰の生涯をわかりやすく学べる博物館だった
「日本海沿いを北上する旅」で九州をめぐる旅を終え、関門橋を通って山口県の萩市までやって来た!山口県萩市は吉田松陰の故郷として有名らしく、松陰神社や松下村塾など、吉田松陰に関する施設がいっぱいあった!ぼくはこれまで吉田松陰という人について全く関心のない人生を送って来たので、これを機会に吉田松陰について詳しくなろうと思い立ち、「吉田松陰歴史館」で吉田松陰の一生を学び直すことにした。
「吉田松陰歴史館」は松陰神社の目の前にあった。駐車場は無料。入場料は500円だった。日本の歴史を変えたと言われる吉田松陰の人生が、時系列で、リアルなろう人形によって展示されていたので、実にイメージが湧きやすくわかりやすい博物館だった。吉田松陰の生涯を体系的に学び直すにはピッタリの場所だと思われた。ここではぼくが「吉田松陰歴史館」で学んだ吉田松陰の一生について紹介しようと思う。
・松陰は杉百合之助の次男として生まれる
長州萩城下松本村(今の山口県萩市)で長州藩士だった杉百合之助は、妻たきとの間に三男四女を恵まれ、家庭は神を敬い、祖先を崇め、倹約を尊び一家団欒の家風があった。松陰はその次男だった。侍の非番の時には一家で田畑を耕したり山に薪を採りに行って家計の助けとして、その勤労の間にも子供達に学問を授けた。
・4歳で叔父の吉田大助の養子になる
松陰は4歳の時に叔父・吉田大助の養子になった。その翌年に吉田大助が病気で亡くなったので、松陰は5歳で家督を継ぎ、兄梅太郎と共に近所に住んでいた叔父・玉木文之進が開いた松下村塾に通って厳格な教育を受けた。
・11歳の御前講義でその才能が認められる
松陰は吉田家の当主になってからは叔父・玉木文之進をはじめ、様々な家学の教授代理から学び、9歳の時に初めて明倫館に出勤して家学を教えた。11歳のとき藩主・毛利敬親への御前講義の出来栄えが見事だったので、その才能が認められた。
・19歳の時、平戸で葉山左内につき猛烈な勉強を開始
松陰15歳は、山田亦介に西欧諸国が盛んに東洋諸国を侵略して植民地としている状況を聞き大いに驚いた。アヘン戦争の結果、日本が老大国と信じ文化の拠り所としていた清国が英国に敗れたことは衝撃だった。
19歳の頃、唯一外国に向かって開いている長崎港、そして平戸に遊学し北九州各地を歴訪した。特に平戸では葉山左内につき猛烈な勉強を開始する。平戸藩士・葉山左内は陽明学者だった。松陰は数多い左内の蔵書を借り受け、読破すると同時に筆写を始めた。彼の勉強のやり方は、読書しつつ、要点を一々抄録することだった。彼は門弟に、書物は読みっぱなしにするものではない、必ず要点を書き取ることが不可欠の勉強法であると教え、自らも実行した。
・20歳で東北諸国を遊歴
松陰20歳は東北諸国の遊歴を藩から許可されたが、約束があったため藩からの通行証明書を待ちきれず出発。東北地方を巡って帰ると脱藩の罪を問われ、士籍を削られてしまった。
・佐久間象山からの西洋学の学び
信州松代の藩士・佐久間象山は江戸にて儒学を学び、その学殖は当代随一と称せられていた。彼は今や日本に必要なのは西洋学であるとして儒学を捨て、海外授業の研究に没頭していた。松陰はそこへ入門し、師の教えに開眼した。さらに師は海外に脱出して、その文明の知識を得よとの使命を松陰に課したのである。
・23歳でアメリカ軍艦の密航に失敗し、逮捕される
松陰はその指示に従って海外視察を計画したが、当時は鎖国制度が厳しく密航する以外には方法がなかった。23歳の頃、長崎にロシア艦隊が入港したと聞き、急いで西下したが出航後で密航は失敗に終わった。ついで伊豆下田港でアメリカの軍艦に密航、上艦はできたが追い出されて失敗、自首して伝馬町獄に送られた。ペリー遠征記では、この若者の向学心に燃えた精神を賛美している。この密航という事件は実は後世に偉大な影響をもたらした。徳川幕府の封建制度を明治維新への革命に直接に変えて行く端緒となった。
・密航の罰として萩の野山獄に幽閉される
幕府は密航の罰を決定し、松陰を藩に幽閉することにした。松陰は江戸の伝馬町獄から萩に送り返されて野山獄に入る。松陰はそこで猛烈な勉学を開始した。自由に新しい方針を立て、経学と史学の2つに全霊を打ち込んだ。その間に松陰は囚人教育を自発的に始めた。それは奇妙な教育だったが偉大な成果を生身、松下村塾への基礎となっていった。
・26歳で、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を引き継ぐ
26歳で、叔父・玉木文之進が開いた松下村塾を引き継いだ。藩校の明倫館は全国にも見られた有名校であったが門閥の風が強く、身分の低い者は入学が許されなかった。
一方松下村塾に集った軽輩の子弟は俊才が多く、封建的な身分制度に批判的で、大丈夫の実践的学問を教える松陰に尊敬が集まり、入門する子弟も次第に多くなった。そこで庭内の古い小屋を増改築して講義室にあてることになった。その増改築の工事はほとんどが、門弟たちの手によるものだった。松陰神社内に現存する松下村塾がそれである。
・儒教の気風を嫌った松下村塾
松下村塾には「三尺離れて師の影を踏まず」というような儒教的風潮は全くなかった。師弟共に同行し、共に学ぶというのがその基本的方針だった。
松陰によると「村塾が礼儀作法を簡略にして規則もやかましく言わないのは、そのような形式的なものより、もっと誠朴忠実な人間関係を作り出したかったからである。新塾が初めて設けられて以来、諸君はこの方針の従って相交り、病気のものがいれば互いに助け合い、力仕事の必要の場合はみんなが力を合わせた。塾の増改築の時に大工も頼まず完成させたのも、その表れである。」とのこと。
・27歳で倒幕に向けて動き出し、再び野山獄に投じられる
27歳の頃、幕府が天皇の許可なしに日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、倒幕以外日本を救う道はなしと決意した松陰は、老中間部下総守を討ち取るために弾薬の借用を藩に申し出るも、無謀な計画だと同調されず断られる。「寅次は学術純ならず、人心動揺す」と見なされ、松陰は再び野山獄に投じられた。
その後安政の大獄の嵐は吹きすさび、遂に松陰を江戸護送するよう命令が下された。死を免れないと知った松陰は遺書とも言うべき「留魂録」の冒頭に、有名な「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という和歌を弟子たちに向けて書き残した。
また家族に宛てては「親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音づれ 何ときくらん」と別れの句を「永訣の書」の中に書き残している。
・死刑の判決を下されて辞世の句を詠む
松陰は判決申し渡しの為、判定所に呼び出された。その声を聞いて松陰は辞世の句を書いた。
「このほどに 思い定めし 出立は きょうきくこそ うれしかりける」
・わずか29歳で死刑となった
判定は予想通り死刑だった。松陰はすでに覚悟していることだとして役人に挨拶した。そして引き立てられてくぐり戸を出ると次の詩を高らかに吟じた。
「吾、今国のために死す、死して君親にそむかず、ゆうゆうたり天地のこと、鑑照明神にあり」
松陰が死刑になったのはわずか29歳のことった。首斬り役人は「これほど最後の立派な人はなかった」と語ったという。
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