繰り返しの日々が続くという点では、巡礼でも日常でも変わらない。
スペイン巡礼10日目!日常化していく巡礼と杖の喪失
・木の杖との別れ
・スペイン巡礼はまるで日常の労働に似ている
・寄付制のアルベルゲの尊さ
・スペイン巡礼10日目記録
・木の杖との別れ
サン・ドミンゴからベロラードへと出発する日の朝、運動靴に続いてさらなる別れがぼくを待っていた。それは杖との別れだ。2日目に道端で拾ってずっと共に巡礼の旅をしてきた木の枝の杖が、起きたら宿で行方不明になっていた。出会っては別れ、別れては出会うことが巡礼の人々の定めであるように、まさにそのようにして、杖との別れも悲しいものではなくなっていた。いつかまた出会おう、これから続く永劫の旅のどこかでという心境である。
しかし、いざ杖を手放してみると、意外なことに気がついた。なんと杖がない方が歩くのが格段に楽だったのだ。杖があると上肢に荷物の重みを分散できて、なんだか歩くのが楽になるような論理的予測を抱いていたが、実際に日常生活で杖を持って歩く機会などまったくなく、慣れずに右手にずっと杖を持って歩いていると、歩くことに払うべき注意が分散されて、しっかりと歩くことができずにいたのかもしれない。ほとんどの若い人々がそうであるように、ぼくにとっても歩くということは両足に注意を集中させて歩くことが普通であり、その他の雑念を取り入れることは少しばかり不快なものだった。自分の両足だけで確かに巡礼の大地を歩く。これが人間の歩行の原点にして頂点なのかもしれない。
・スペイン巡礼はまるで日常の労働に似ている
巡礼も10日目になってくると、1日のパターンがだんだん決まってくる。早朝6時半にアルベルゲを出発して、途中で朝ごはんを食べる。スペインの生搾りのオレンジジュースを飲んだり、スペインのオムレツを食べたり、パンを食べたり、食べるもののパターンも同じになってくる。1日に見えてくる景色もだいたい予想がつくようになってくる。麦畑を見て、葡萄畑を見て、影のささない炎天下の北スペインの1本道を進んで行く。途中で小さな村が出てきたと思ったら、水を補給して、木漏れ日で休憩して、また村を出発して、日の照りつける北スペインの田舎道を進んで行く。これを何度か繰り返すと目的の町に到着する。アルベルゲを探し出して、10ユーロ以下の安い宿代を支払い、宿のベッドで疲労のあまりの昼寝。そこから起き出すと、町巡りをしつつ昼食をとって、後は洗濯をしたり、ブログを書いたりして余暇を過ごす。たまに教会のミサにお邪魔したりして、カミーノの巡礼者へのお祈りを受けたりもする。それから10時には就寝。巡礼者にとって、朝は早く、夜も早いので、アルベルゲでも早い就寝が義務付けられていることが多い。そして次の朝にはまた6時半に次の町へと出発する。
これを繰り返す日々を送ると、スペイン巡礼という日常からかけ離れた出来事も、ものすごく日常的に感じてしまうから不思議なものだ。まるで6時半出勤のサラリーマンになったような気分になる。6時半に出勤して、同じような日常の仕事をこなし、同じような時間に眠る生活は、まるで労働や学生生活にも似ているように感じられる。
こんなにも重い荷物を背負いながら、長距離を自分自身の足で歩いて、労働よりも大変な思いをしているのだから、誰かお給料でもくれればいいのにと思ってしまうが、誰もお給料なんてくれないところがまた面白い。ぼくにとっては、スペイン巡礼も労働も同じくらい大変な日常の繰り返しであり、いやむしろ肉体的にはスペイン巡礼の方がはるかに厳しい所業であるにもかかわらず、労働であれば賃金が支払われ、巡礼であればただ消費するのみであるという現象は不可思議だ。多くのカロリーを消費すれば、その分のお給料が支払われるわけではなく、そのカロリーが誰かのために使われなければ、お金というものは交換され循環されない仕組みらしい。
もしもぼくが運んでいるものが、他人の荷物であったならば、ぼくは他人の荷物をわざわざ運んだためのお給料を支払われるのだろう。しかし、ぼくが自分の荷物を運ぼうが、他人の荷物を運ぼうが、ぼくの重き荷を背負うという事実やその苦しみの大きさは変わらないはずなのに、片方は自分のためだからと無料で抑えられ、片方は他人のためだからと給料が支払われることには違和感を感じざるを得ない。本当にお金というものは、真実を映し出す鏡となるのだろうか。
・寄付制のアルベルゲの尊さ
ベロラードは静かで素朴な、とても好きな町だった。ぼくたちはここで、寄付制のアルベルゲPilgrims Hostelに泊まった。
アルベルゲというのはだいたい何円と値段が決められているものだが、その中にも寄付制のアルベルゲも存在し、自分の好きなだけのお金を支払うことができるのだ。このような寄付制のアルベルゲは、教会に併設されていることが多い。時には夕食や朝食が無料でついてくるというなんともありがたいパターンの寄付制アルベルゲもある。
ぼくは強く感じることは、寄付制のアルベルゲの方が定額制のアルベルゲよりも、サービスがあたたかさにあふれた人間らしいとても素敵なものが多いということだ。普通に考えれば、お金をこの分だけ支払えと言われている方が、サービスも丁寧で充実してそうなものなのに、10セントか20セントしか支払わないかもしれない。ともすれば無料で泊まられるかもしれないアルベルゲの方が、素晴らしいサービスを提供してくれるというのは、いったいどのような機微によるものだろうか。これがトルストイも人生論の中で主張した、キリストの与えるという精神だろうか。お金なんてなにひとつ、人の心を映し出さないのかもしれない。
・スペイン巡礼10日目記録
出発6時半 到着13時20分
消費カロリー871kcal 歩数41493歩
移動距26km
健康状態:両足の小指のマメは角化、両足底のマメは安定