ロシア人チベット仏教徒から教えられた「受け取ること」の本質

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ぼくはロシア北極圏の街・ムルマンスクの宿で不思議なチベット仏教徒に出会った。

ロシア人チベット仏教徒から教えられた「受け取ること」の本質

・ロシア人チベット仏教徒との出会い
・与え続けるロシア人チベット仏教徒
・与えること受けとること
・受け取るというささやかな与え
・ルンビニの恵み

・ロシア人チベット仏教徒との出会い

ぼくはロシア北極圏の街・ムルマンスクの宿で不思議なチベット仏教徒に出会った。彼は見た目も生まれも完全なロシア人だった。彼は他のロシア人よりも少しだけ英語を話したので、ぼくたちは少ない英語で多くのコミュニケーションを交わした。

彼は高校の先生であると言い、protection(国の防衛?)を教えていると言っていた。彼はなんと仏教徒であると言い、完全なチベット仏教徒であるとぼくに告げた。それはぼくにとって驚くべきことだった。ロシアにもチベット仏教徒がいたとは!ロシアの中でもシベリアの方で、アジア系の人々ならばその可能性もありそうだが、彼はサンクトペテルブルクに住んでおり、顔立ちだって西洋風だ。どう頑張ってみてもあなたはチベット仏教徒でしょうと言い当てられるような風貌ではない。

そんな彼は、サンクトペテルブルクにあるチベット仏教徒の教会(そんなものがあるとは!)に通っていると言っていた。彼は3年前にチベット仏教徒になったと言い、そのきっかけは人生の問題がすべて仏教の教えによって解決されたことだったようだ。インドで生まれた仏教の教えも、今となってはロシアの果ての地において、誰かの心を救っているらしい。

そして彼は“彼の友人”を助けるために多くのものやお金を助けていると語っていた。彼からはまさに“与える”という精神が感じられ、ぼくはまたトルストイの「人生論」を思い出していた。

シベリア鉄道に乗る人々から教えられた「与えること」の本質

損得勘定で見返りを求めずただ「与える」という行為が人間の幸福に結びつくと、シベリア鉄道の旅は教えてくれた

 

・与え続けるロシア人チベット仏教徒

数年前に1度読み非常に感動したトルストイ「人生論」を、シベリア鉄道の中でぼくは再度ひたすらに読んでいた。その中には、人間が幸福を手に入れるためにはただ“与える”しかないことが書かれていた。ただ“与える”ということを行う以外に人間が幸福になる道はないし、それを行えばあらゆる人間の苦悩や、死さえも取り除くことが可能だろうと言うのであった。ぼくはそれを読みながら、多くを与えてくれるシベリア鉄道に乗り合わせた乗客に感動し、ロシアというものをこの生命全体で感じていたのだが、ぼくのロシアの旅の最終目的地、北極圏の街ムルマンスクでも、ただひたすらに与えるロシア人の姿を見ることができた。

ぼくが仕事を辞めて世界一周の途中だと言うと、彼は自分も旅に出たいがまだロシアから出たことがない。彼は自分の友人を金銭的にも支えているため、そのようなお金はないと言うのだ。彼は人々に“与える”という行為を行うあまりに、自分が自由に使えるお金を持ち合わせていないようだった。それでも悔やむこともなく人々に“与え”続ける姿に、何かしら感銘を受けずにいられない。彼はまさにトルストイの中の幸福に近づいている人だと思い「人生論」の本を彼に見せると彼は喜び、トルストイは仏教的な人だと述べていた。また彼は、歴史というものは常に政治的なものであるとし、ブッダは本当はウクライナ出身であるという説を述べていたがこれは確かではない。歴史的にはブッダの生誕地はネパールのルンビニであり、ぼくもそこを訪れた。しかし別にどちらでもいいだろう。

ブッダとトルストイを比較!西洋は「繋がりの幸福」を、東洋は「孤独な悟り」を求めている

彼は今回もムルマンスクに、彼の友人に“贈り物”を届けに来たということだった。それは仏教的な本だということだ。彼は本当に偽りなく“与え”続けているようだった。これほどに“与える”という行為は、なんだかぼくたち日本人には馴染みなく理解しにくいかもしれない。日本は儒教的な「家」という観念を大切にしており、その家の中もしくは血縁の中に繁栄や蓄えることを重視するため、このように他人に非常に流動的に“与える”という行為はあまり見かけないように思われる。彼のような“与え”はどちらかというと西洋的なものだろうか。

そしてなんと彼の“与える”という行為はぼくにまで及び、多くを語り合った後におもむろに自分の首から木製のネックレスを取り外しぼくに与えてくれた。ぼくは戸惑った。それは彼が常に身につけていたものであり、仏教的な空気もあり、彼にとってとても大切なものだと思ったからだ。しかし彼はやると言って変わらなかったので、ぼくは感謝の中それを受け取った。

 

 

・与えること受けとること

正直言って、ぼくはこれを受け取りたくなかった。彼の大切なものをもらうのは気が引けるし、それに旅に荷物は増やしたくない、そしてあまり外見的に好きなものではないためこれから先これを身につけることはないだろうという気持ちが正直なところであった。しかしこれを受け取らなかったら、彼はどうなるだろう。きっと悲しい気持ちになるのではないかと思ったのだ。

“与える”という行為は常に“受け取る”という行為をはらんでいる。相手が受け取らなければ“与える”という行為は成立しないからだ。相手が受け取らなくて、それを道端に捨ててしまったならば、それは“与える”ことが完了したことになるだろうか。おそらくならないだろう。そう考えてみれば、トルストイの言う“与える”という行為も決して簡単ではなくなってくる。ただ自分自身で“与えよう”という心持ちを保ち、与えるだけならば自分だけの意思で可能だが、それを相手に“受け取って”もらえなければ、“与える”ことが完了しないのは気がかりだ。

たとえばシベリア鉄道の中で、おばあさんが鶏肉をくれた。ぼくがありがとうと言って受け取れば、おばあさんは自分が与えられたように嬉しいし、ぼくが要らないと断ったならば少しだけでも悲しい気持ちがあふれるだろう。ありがちな話であれば、これは恋心にも例えられるかもしれない。自分の好きだという気持ちを与える。ありがとうと言って受け取ってくれたならば幸福な気持ちになるし、要らないと切り捨てられてしまえばそれで終わりだ。

 

 

・受け取るというささやかな与え

木製のネックレスをロシア人がぼくに与える。ぼくがありがとうと言って笑顔で受け取れば、彼は自分も与えられたように満たされるだろう。ぼくが正直に要らないと言ったならば、きっと悲しい気持ちに沈んでしまうだろう。

ぼくは受け取る方を選んだ。それが本心ではなかったとしても、ぼくはそれが正しいと思ったのだ。ぼくが“受け取る”ことで、ぼくは彼に“与える”ことができる。それが“与え”てくれた彼に対するぼくができる唯一真実の“与える”ということだった。もちろんぼくが何か別のもので“お返し”することは可能である。しかし物質よりも何よりも本当の“与え返し”となるのは“受け取る”という行為そのものに他ならないのではないだろうか。“受け取る”という行為は、きっと“与える”という行為ほど尊いものなのだ。

ぼくたちはせめて受け取ろう。与えるという行為に報いるために。与えらえたのならば与え返したいという思いは自然なことだ。そしてそれは受け取るという行為で最もふさわしく完遂される。本当に必要のないものならば、きっと受け取った後で、捨ててしまっていいのだ。心苦しいけれどきっとそうなのだ。すべての与えられた物質を持ちながら、人生の旅を継ぐことはできない。どこかで落としたり、捨て去らなければならない日が来るだろう。ぼくたちは何も持たずにこの世に生まれ着いて、何も持たずにこの世を去っていくのだから。

受け取ったよと目の前で見せること、受け取ったよと口に出すこと、笑顔で彼の前でそれに応えること、心で受け取ること。ぼくたちが誰もがトルストイの言うように与えるという気持ちを持つならば、それはきっと受け取るという気持ちを持つということでもあるのだ。何かの物質や愛を返すということよりももっと本質的な、“受け取る”という与えるあなたに対するささやかな“与え”。

 

 

・ルンビニの恵み

ぼくたちは外国旅行をするとき、可能な限り気をつけるように教わる。嘘つきにだまされないように、泥棒にものを盗まれないように、詐欺師に金を巻き上げられないように、最大限注意を払うように促される。

日本人に対するたくさんの悪質な手口も様々に紹介されている。たとえばヨーロッパでは通りすがりにケチャップをかけられ、それを親切そうに拭き取ろうとすることで財布を盗まれるとか、インドでは優しさでチャイをごちそうしてくれるように見せかけてそのチャイには睡眠薬が入れられており、すべて身ぐるみ剥がされるなど、被害の経験談は枚挙にいとまがない。

ぼくはそのインドでの被害経験談を読んだことがなかったので、ネパールのルンビニを旅行した際に、とても優しいおばちゃんにコーヒーをいただいてとてもいい思い出なのだが、それを後でインドを旅慣れた人に話すと、上記のような被害があるからこれからは絶対に飲まない方がいいだろうと諭された。もしかしたらコーヒーに睡眠薬が入れ込まれていたかもしれないのだ。

しかしぼくは思った。そのような悪意に満ちた被害を知らなかったからこそ、ぼくは彼女からコーヒーを受け取ることができたのだ。そしてそれは本当に善意からのもので、コーヒーはおいしかったし心からの交流を果たすことができた。もしもぼくがそのような悪質な行為の体験談を知っていたら、ぼくは彼女を疑い、コーヒーを受け取らなかっただろう。そして本当は慈悲に満ち満ちた彼女の与えを踏みにじった結果になっただろう。自分自身の生命や金銭をあまりに守りすぎるがために、あまりに異国の人々を疑ってかかり旅することに果たして意味はあるのだろうか。

もちろん誰だって外国で悪意の標的になんかなりたくはない。その思いが強すぎるあまりに、心は疑いという闇で満たされ、確実なものしか信じられなくなる。しかし怪しくない与えといえば、お金を払ったときに与えられることくらいではないか。その他の与えが、お金の絡まない与えが、本来人間にとっての真実の与えであるはずなのに、それをことごとく疑い怪しいとはねのけてしまっては、旅する甲斐、もしくは生きる甲斐すらなくなってしまうのではないだろうか。

そこまでして自分が守りたいものはなんだろう。自分のお金、自分の健康、損なんか絶対にしたくないという構え、まんまと騙されたたくないというプライド。それらを失くすことと、それらを守れる可能性のある代わりに人間本来の慈悲の心に触れる機会をことごとく遠ざけてしまうことと、どちらが人間の本質的な精神にとっての損失なのだろうか。

与えるということは難しい。受け取るということも困難だ。本当はまったく難しくないそれらのことが困難になる人の世の複雑さこそ、ぼくたちにとっての愚かしく大きな課題だ。だからこそぼくたちの旅路は続く。答えの出ない世界の中で、それでも人間を好きになれるように、どうか人の心に触れられるようにと。

 

 

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シベリア鉄道に乗る人々から教えられた「与えること」の本質

損得勘定で見返りを求めずただ「与える」という行為が人間の幸福に結びつくと、シベリア鉄道の旅は教えてくれた

 

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