人生初の混浴!大分県湯布院の「下ん湯」に行ってきたことと男性と女性の肉体について

 

人生初の混浴!!!

人生初の混浴!大分県湯布院の「下ん湯」に行ってきたことと男性と女性の肉体について

・九州一周の旅で大分県の湯布院へ
・湯布院で人生で初めての混浴へ
・男性の肉体と女性の肉体

・九州一周の旅で大分県の湯布院へ

ぼくは九州一周の旅に出た。関西から九州まで車で行くのは、それはそれは遠い道のりだったが、なんとか山口県の下関から関門橋を渡って福岡県の北九州市に到着し、そのまま大分県を目指して南下した。

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大分県には家族旅行で一度行ったことがあった。たしか温泉地で有名な別府を訪れ、地獄めぐりをしたような覚えがある。しかし大分県という場所は全体的に見てどのような場所なのか見当もつかなかった。そもそもなんで“大分”と書いて“おおいた”と読むのだろうか。“水分”を“みくまり”と読むくらい難しい。

北九州市から大分県の湯布院へと向かって車を走らせていると、徐々に「ザ・日本のふるさと」とも言えるようなのどかな田園風景が目の前に広がり、心はなんとも心地よく癒された。素朴な石造りのモニュメントがポツポツと寂しく立ち並ぶ平野を見届けながら、徐々に山脈へと入り込んで行った。遂には奥深い山脈地帯へと進入し、日本はどの地域へ行っても山ばかりの地形なのだなと思い知らされた。日本という国と、そこに住む民族と、山とは切っても切り離せない密接な関係にあるのだと思わずにはいられなかった。

そのような山脈の真ん中に、突如として栄えた温泉街が出現した。それが湯布院だった。

 

・湯布院で人生で初めての混浴へ

 

湯布院では金鱗湖のほとりにある、200円で入浴可能な「下ん湯」という温泉に入った。この温泉には係の人もおらず、200円をそのまま入り口のところにある料金箱へと入れる仕組みになっていた。「下ん湯」の周辺はなんとも素朴な風景はが広がっており、粗い石垣が立ち並ぶ様はまるで沖縄の離島に帰ってきたような思いだった。

 

この「下ん湯」はなんと混浴らしい。それでも客は男ばかりで女性は遠慮して滅多に来ないだろうとレビューに書かれていたので、気軽に入ってみるとそこには女性がいたのでびっくりした。混浴だから別に驚くこともないのだが、宮崎県から来たというおばちゃんで、別に男性と入るのなんて普通だとという雰囲気で構えていたので、そういうものなのかと思いぼくも気にせず一緒に入浴した。聞けばよくこの温泉に通っているという。

「下ん湯」の浴槽は2つに分かれており、熱いお湯とぬるいお湯とで区別されているようだ。目の前には湖が広がり、温泉に入る人々の目を癒してくれる。中にはおしゃべりな地元のおじちゃんがおり、大分県の温泉に関して様々な情報をくれた。

この湯布院から有名な別府温泉まで車で30分ほどの近い距離だという。別府に行くならばぜひここへ行きなさいと言って教えてくれたのが「鶴の湯」というところだった。なんでもグーグルマップでも正確な場所は出てこなくて行き方がわからなくなるだろうと、「鶴の湯」までの行き方の詳細を教えてくれた。ぼくはぜひ行ってみようと思い、その次の日に別府を訪れてみることにした。

 

・男性の肉体と女性の肉体

温泉では男と女が分かれて入ることが普通だと思っていたぼくにとって、男の人と女の人が同じ温泉に入っているという今回の混浴の機会は非常に奇妙な感じがした。というか、アニメやテレビの演出では、女の人が不意に男の人の裸を見るとキャーーー!!!などと叫んだり悲鳴を上げて逃げたり目を覆ったりするものだが、実際にはそんなことは起こらないのだなぁとわかって面白かった。これは九州特有の大らかさなのか、または女性が人生経験豊富なおばちゃんだったからなのかは定かではないが、少なくともおばちゃんは不快に思っているはずもなくその他の男性の入浴者と楽しくおしゃべりを続けていた。

思えば女性が男性の肉体を見ることは不快だと思うというイメージは、どこから知らず知らずのうちに植え付けられているのだろうか。そして女性が男性の肉体を見ることは衝撃的な不快な事件であり、男性が女性の肉体を見ることは嬉しい幸運な出来事としておおよそのイメージを植え付けられているのはなぜなのだろう。男性の肉体が見られることと、女性の肉体が見られることは、どちらも同じ人体であるのに、これほどまでに社会的解釈が異なるのはどうしてなのだろうか。男女平等が叫ばれる現代社会なのだからこれも意識的に修正していくべき問題なのだろうか。

のび太くんがしずかちゃんの裸を見たときには「幸運」な演出がいつでも成されるのに、しずかちゃんがのび太くんの裸を見たときには激怒し「不快」な経験として演出されるという事実は、考えてみれば不思議な出来事である。どちらもが生殖する可能性のある相手として対峙するのならば、むしろお互いの肉体を確認できることをお互いに喜び合うべきであるはずなのに、そうならないところに人間の性のねじれというものが存在する。現代の人間たちが叫んでいるように、男性と女性は本当に同じでありえるのだろうか。お互いがお互いの性質を持ち合わせ、どうしても同じになんてなりえないものたちに帳尻を合わせながらなんとかやってきたのが、男女の人類の歴史なのではないだろうか。

もっと深く追究してみればアニメやテレビでは、男性が男性の肉体を見たときには「見たくもないものを見てしまった」という不快の演出が多く、逆に女性が女性の肉体を見たときには全くそのような演出は起こらないだろう。ということは、問題は誰が肉体を「見るか」ではなく、誰が肉体を「見られるか」であることに帰着する。この世の中では、男性の肉体が見られる出来事は「不快」であり、女性の肉体を見られる出来事は不快にはならないどころか、むしろどこか神聖なものとして固定して見なされてしまっているのだ。

しかしそのように植え付けられたイメージは果たして本当だろうか。本当に男性の肉体はいつも不快で、女性の肉体は常に神聖だろうか。ぼくがいつも面白いと思うのは、温泉の男湯にいつも女性の従業員が点検のために堂々と入ってくるという事実だ。これは日本のどこの地域でも見られる現象である。女性が男子の肉体を本当に不快だと思うのならば、このような仕事が成り立つだろうか。そしてこの仕事の性別が逆ならば大問題になることだろう。男性が女湯に点検しにいそいそと入っていく状況なんて想像できない。一体どうして女性にだけゆるされて男性にはゆるされないのだろう。男性と女性が同じであることなんて幻想である。

そこには、男性の肉体は別に見られても構わないものと認識されているのに対し、女子の肉体は見せずに守られるべき神聖なものという、論理ではない人間としての直感が根底にあるのではないだろうか。人間は誰しも、女性の肉体から産み落とされる。そしてお母さんのお腹から出てきたのだという物語を、小さな頃から子供は聞かされる。全ての人間にとっての故郷は女体である。自分がこの世に生み出し、その手助けをしてくれたのは女体である。人間が女性の肉体を神聖なものととらえるのはむしろ自然なことである言えよう。

見られれば不快であるはずなのに見られても構わないという奇妙な観念を持った男子の肉体、見られれば神聖であるはずなのに隠されるべきであるとされる不思議な女性の肉体。人間社会は複雑な2つの性により織り成されている。そしてぼくの思うことは、男性の肉体は不快であるというおかしな洗脳の呪縛から解放されるべきではないかということだ。世界を旅していてギリシャの彫刻を目にすると、男性の肉体に対する肯定と尊敬であふれている。テレビから流れてくる観念の呪縛を取り祓い、ぼくたちがぼくたちの肉体をどのように解釈するのか感じ直すべき時ではないだろうか。そしてどちらの性であるにしても、肉体を否定することよりも肯定する方がはるかに美しい。

 

 

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