隠れキリシタンの島々へ!
隠れキリシタンの里!世界遺産熊本県天草キリスト紀行
・隠れキリシタンと天草におけるキリスト教信仰について
・崎津集落と崎津教会
・大江集落と大江教会
・道の駅有明リップルランドの巨大タコ
・世界の全てが真っ白な世界
・隠れキリシタンと天草におけるキリスト教信仰について
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教が禁じられている中で、長崎と天草地方において神道や仏教などの日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた潜伏キリシタンの信仰継続に関わる伝統の証として2018年7月に世界文化遺産に登録された遺跡群である。
1566年、日本の西端に浮かぶ天草の島々にキリスト教が伝来した。天草の人々にとってその教えは心の拠り所となり、瞬く間に広がりキリスト教は反映して行く。しかし幕府の厳しい禁教政策により天草のキリシタンは潜伏を余儀なくされた。長い禁制を経て、カトリックに復活し始めたのは、禁教を掲げた高札が撤去された1873年以降のことだった。
禁教下のキリシタンたちは表面上は仏教徒や神社の氏子を装いつつもキリスト教の信仰を続ける「潜伏キリシタン」となった。宣教師はすべて国外追放され、教会もない中で何世代にも渡って信仰を守ることは容易ではなかったことは想像に難くない。「オラショ」と呼ばれる祈り子の言葉を口伝えで受け継いだ。
潜伏キリシタンたちは信仰が明らかになることを恐れ、神道や民間信仰などと共存した形で信仰を守った。この時期の祈りのスタイルが地域によって異なるのも無理はない。形を変えつつも潜伏キリシタンの信仰は親から子へ、子から孫へと脈々と受け継がれていった。
・崎津集落と崎津教会
天草諸島では、天草島原の乱の後も下島の一部などにキリシタンが存在していた。宣教師がいない潜伏期の信仰は、独自の組織で成り立っていた。信仰の指導者的な役割を持った「水方(みずかた)」と呼ばれる人が先例や葬送儀式、日繰りをもとにした祭礼などを執り行った。
住民の多くが漁業を営む天草の崎津集落では、ロザリオやメダイの他に、アワビやタイラギといった貝殻の内側に浮かび上がる模様を聖母マリアに見立てて崇拝するなど、漁村特有の信仰形態が受け継がれていった。また、豊魚の神である恵比寿像や大黒天などを、デウスとして崇拝したいた。村の守り神である「崎津諏訪神社」で「あんめんりゆうす(アーメンデウス)」と唱えながら手を合わせていたといい、自らの信仰と神社の儀式をうまく擦り合わせていたことが伺える。
実際に訪れた崎津集落は、本当にここが世界遺産になったのかと驚いてしまうほどの素朴で静かな集落だった。世界遺産になったのに多くの店が出ているわけでもなく、本当にただ信仰のための、そして生活の場所だという感じがした。
特徴的だったことは、集落の真ん中に立派な崎津教会がそびえ立っていることと、海を挟んで対岸の景色がまるでリアス式海岸のように入り組んだ地形をしていたことだ。その地形は、崎津集落の港からも見られるが、崎津諏訪神社の裏にある階段をひたすらに登っていったところにある展望台からの眺めが絶景だった。
・大江集落と大江教会
大江集落の潜伏キリシタンは、海や田畑へ働きに行くふりをして密かに祈りを捧げていた。干潮時にしか辿りつけない海辺の洞窟に石造りの観音様を備えた「穴観音」や、山中に十字架やマリア観音像などを埋めた祈りの塚「隠し御堂」がそれだ。自宅の屋根裏に備えた「隠れ部屋」でひっそりと祈りを捧げる家もあった。天神様の防止に十字を刻んだものや、十字架入りの天秤棒などもあり、工夫を凝らして信仰を受け継いだ。
大江集落も本当に素朴で静かな集落だった。しかしその丘の上に堂々と美しく建っている大江教会は、ささやかさの中に荘厳さを醸し出していた。中ではこれからのミサの準備が執り行われており、多くのキリシタンの人々が集っている最中だった。信者にはお年寄りが多いようだった。歴史の教科書上でしか知らなかったキリスト教の信仰が、目の前で今も引き続き行われているという事実に感動せずにはいられなかった。
・道の駅有明リップルランドの巨大タコ
道の駅有明リップルランドで巨大なタコ見つけたよー!!!最近タコ料理にいっぱい出会ってるなー。スペインガリシア、瀬戸内海の生口島…この道でもタコ飯定食食べられたよー!!
・世界の全てが真っ白な世界
天草を去る朝、海と天が真っ白で、目の前のすべてが白一色という景色に初めて出会った。白一色の中に船が一隻、神秘的な眺め。