奈良大好き!ぼくが奈良を観光で訪れると幸福になれる6つの理由

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ぼくは奈良が本当に大好き!

奈良大好き!ぼくが奈良を観光で訪れると幸福になれる6つの理由

0.ぼくは奈良が好き
1.人の質がいい
2.人が少なく風情が保たれる
3.古民家カフェがたくさんある
4.日本一美味しいかき氷がある
5.古代の仏像がある
6.かわいい鹿がいる

0.ぼくは奈良が好き

ぼくは奈良の街が大好きだ。関西の街の中でどの街が一番好きかと問われれば、迷うことなく奈良だと答えるだろう。積極的に何回でも訪れたいと願ってしまうし、特に目的がなくても友達や家族とつい来てしまう魅力がある。

ぼくはどうしてこんなに奈良の街が好きなのだろう。自分なりに考えてみたのでここに書き留めよう思う。

 

1.人の質がいい

奈良の人はとても優しさにあふれていると思う。まずそれがぼくが奈良を好きな最初の理由であるように思う。関西の人々は基本的には気さくで親切であるが、やはり地域によって少しずつその特徴が異なるように思う。関西の北の人々の密集地帯とは異なる、忙しさを感じさせない余裕のある素朴な優しさがぼくを心から安心させてくれるように思う。ぼくのおばあちゃんが二人とも奈良出身であるということも影響しているのだろうか。奈良の人々と触れ合って話していると本当に安らかに心が落ち着く思いがする。

人の質がいい、人の性質が自分に合っているということは、その街や国を好きになる上で必要な必須条件だ。逆に言えば、どんなにその街や国の建築や自然が素晴らしくても、人の質が悪いと全然それらを好きになれないということは、ぼくが長年旅をしていて抱く感想である。建築よりも、自然よりも、最後にはやっぱり人の質のいい場所を心から好きになってしまうものだ。

しかし残念ながら、なかなかそのような場所に巡り会えることは少ない。外国で発展途上国に赴くと、こちらが日本人だとわかれば金額をひどく上乗せしてくるのは当たり前であるし、何かにつけお金を要求されることなどは日常茶飯事である。外国で安心して人を心から信頼できるという機会は本当に少ない。それゆえに、民度が高く人を騙そうとしない国家に巡り会えた時には、心の底から感動するし、その国を大好きになってしまう傾向がある。特に優しさを与えてくれて、見返りを一切求めない場合などは、日本以外にもこんな場所があるのかとどんなに感謝してもしきれない思いがする。

日本だと基本的にすべての人を信頼できるが、それが基準となり”普通”となりうるので、その中から特に優しく安心できる人々を探し出すことは容易ではない。そんな中、奈良で素朴な優しさに巡り会えたことは幸運であると思う。

「都会は人の質があまりよくなく、田舎に行けば行くほどに人々が優しくなる」というのは、世界を旅するほとんどの旅人が同意する意見であるようだ。その真偽は不明であるものの、都会のように人が多すぎるとすべてにおいてせわしなくなり、他者が心を持たない物資のように見えてきてしまうことも潜在的に生じる現象かもしれない。奈良は人が多すぎず、少なすぎず、適度な人口密度でのんびりとした時の流れを感じさせる。



 

2.人が少なく風情が保たれる

観光客がものすごく多いわけでもないことも、奈良の大きな魅力のひとつだ。人が多いことがぼくはとても嫌いだ。それが大阪や東京のような、人が多いですよという雰囲気がその名前からして既に醸し出されているような場合はまだ許せるものの、イメージとしてゆったりと心休めることができるような感じがするのに、実際には人間たちで満たされてて歩くのもままならないような観光地の場合には、そのギャップに疲弊してしまうしなかなか好きにもなれない。

しかし奈良は違う。ゆっくりできるような情緒あふれる古都のイメージだが、そのイメージ通りに本当に心休まる稀有な場所である。メインの商店街にもそんなに人は多くなく、少し裏道へ入ってしまえば人もまばらで、昔の日本にタイムスリップしたかのような深茶色の木造の古民家の壁伝いに、古えの風が心をすっと通り抜ける。

日本でも世界でも、メイン通りではなくて裏道にこそその街の文化の本質が隠されている。それゆえに、裏道が素敵で面白い街はそれだけで潜在的な魅力を持っている。この裏道を冒険していると、ぼくは必ず興福寺のほとりの荒池という池にたどり着く。街の作り自体が、そのような興福寺へと導かれるようにできているのだろう。そしてその荒池の向こうには、立派な五重塔が堂々と聳え立っている。

なんという風流な街並みなのだろう。なんて風情があるのだろう。裏道でどんなに迷っても、最後には必ずこの五重塔を眺める運命に出会ってしまうとき、ぼくはこの街に自然と魅了されるように仕組まれているのではないかとさえ思う。そこに至るまでの裏道から感じる、神様の気配、仏の気配、そしてそのような古くからの信仰の歴史を忍ぶことも、奈良の街でしか感じられない種類の趣がある。

 

3.古民家カフェがたくさんある

奈良の裏道を歩いていると、なとなくおばあちゃんの家の匂いがする。そして懐かしい気持ちになって、本来の自分自身へ帰っていけるような思いがする。そして実際に、おばあちゃんの家に帰ったかのように錯覚させられてしまうのは、この街の古民家カフェの存在だ。

ぼくは古民家カフェが好きだ。日本中のレトロな古民家カフェを巡りたいと思っているし、世界でもレトロなカフェの噂を聞きつけてはその雰囲気を味わったりしていた。この奈良の街はその中でも、最も質の高いまさに古民家カフェの雰囲気に完全に浸れるような、素晴らしいお店であふれているように思う。つまりは、おばあちゃんの家に来たような安らかな楽しい感覚を存分に味わえるのだ。

奈良の古民家カフェは静かだ。喧騒などとはとても無縁で、どんなに素晴らしい古民家カフェでも、混んでいることなんてあり得ない。とても風情のある古民家カフェに入っても、ぼくたち以外誰もいないということもざらにある。

そして奈良の古民家カフェは広い。大抵外見の扉からは想像もできないような、畳の広大な部屋が中に広がっていて、それをのんびり長時間に渡りひとりじめできたりするのだからたまらない。これもやはり、観光客がそんなに多くないせいだろう。そして、英語の看板もないので、外国人が中に入りにくいような雰囲気を出していることも空いている理由のひとつであるかもしれない。

それぞれの古民家カフェには、独自のオリジナルの和風のスイーツや飲み物などが用意されており、選ぶだけでも楽しくなってしまう。それを食べたり飲んだりしながら、まるでおばあちゃんの家に遊びに来て、のんびり過ごしているようなレトロな時間を取り戻すことができる。

(こんなにおばあちゃんの家に遊びに行く懐かしさをしきりに強調しているぼくであるが、ぼくのおばあちゃんは亡くなったわけではなくまだちゃんと生きており、実際におばあちゃんの家に遊びに行くことも普通に可能である。)

 

4.日本一美味しいかき氷がある

ぼくはかき氷が好きだ。日本の旅先でも有名なかき氷やさんがあれば必ず訪れているし、台湾でも何度もかき氷を食べた。ぼくの実感としては、かき氷のレベルが全体的に高いのは関西地方だと思われる。京都や奈良など古都は特にレベルが高い。台湾のかき氷は南国フルーツが満載でとても美味しい。それに比べて関西のかき氷は、繊細な工夫が凝らされており、情緒深く、味わい深い。

東京のかき氷やさんも雑誌を見つつ何軒か訪れたが、レベルが低いように感じた。人がものすごく並んでいるような店でも、え、この程度の味なのという感想である。しかも盛り付けに丁寧さが欠けていたり、店員さんの質が悪いことがぼくの中では目立っていた。

そんな中でも、ぼくが最も美味しいかき氷だと思っているお店が奈良の街にある。「ほうせきばこ」という店だ。この店はもう日本中さがしても代わりはないだろうと思えるくらいに、ぼくの中で唯一無二の存在である。かき氷の本質的な氷の透き通った清らかさと、濃厚なクリームや蜜の割合が絶妙だ。そして食べて行く時系列につれて、新たな発見があるように仕組まれている点では、パフェの構造と等しいところがある。

「ほうせきばこ」のここでしか食べられないかき氷体験を求めて、奈良を訪れた際には必ず訪れるようにしている。昔はプレハブみたいな作りだったが、すぐ近くに移転し、かき氷グッズなども並べつつ、変わらない絶妙で見事なかき氷を提供し続けている。新しい店舗はスペースもかなり大きくなっており、さぞかし儲けたのだろうなぁと感じた。



 

5.古代の仏像がある

奈良ではたくさんの時代のたくさんの種類の仏像を見ることができる。奈良国立博物館や興福寺の中の仏像は、非常に見応えがあり見る度に感動しきりとなる。奈良の仏像は日本の中でも最も古い種類のものであり、その昔奈良が都だったころ、ユーラシア大陸から直接奈良の都へ仏教文化が伝来してきたときの新鮮な感動を、今奈良の仏像を見るぼくたちも感じずにはいられない。

奈良の仏像は、日本の他の地域で見る仏像とは違うところがある。特に古い仏像などはそうだ。「日本らしさ」に欠けているというか、まだ「日本らしい仏像」とは何かを模索していたような手探り感を感じる。その手探り感が、ぼくにとってはとても心地いい。仏教とは何か、仏像とは何か、先入観やこういうものだという思い込みを一切持つことなく、新鮮な感動を持って仏教と、そして世界と対峙している。そしてその本性や正体を暴いていく。今生きているぼくたちも、本来このように常に新しく世界を見るような新鮮な気持ちで日々を生きるべきではないだろうか。

日本的というよりは素朴で原始的であり、中国や韓国の仏像の模倣段階でもあるように見える仏像もいくつか揃っている。どのような文化も模倣を経て、日本らしさという自分らしさを獲得していくものらしい。しかし中国や韓国の仏像と似ているという点に、昔むかしの日本の世界との確かなつながりを垣間見ることができてなんだか嬉しい。昔むかしの旅人も、このような大陸の異文化に心惹かれ、いつか海を渡ってそのより大きな文明を見てみたいと望んでいたに違いない。

シルクロードという大いなる文化と人の道を経て、最終的にはここ極東の都・奈良へとたどり着いた。いわば文化と人の最終地点である。奈良の仏像には、奈良と日本だけではなく、世界のすべての道のりが集結して詰まっている。ぼくは奈良に、日本の一地域という感覚ではない、その裏に広がる世界全体を感じずにはいられない。奈良を深めれば深めるほど、奈良だけに詳しくなるわけではなく、逆に世界全体への洞察力が高まるような気配さえ感じるのだ。



 

6.かわいい鹿がいる

奈良にはぼくが好きなものであふれている。極め付けに、ぼくは鹿が好きだ。こんなに愛らしく、そして危害を加えられなそうな動物がいるだろうか!古来より鹿は、神様の乗り物だと信じられて来たらしい。それゆえにこの奈良の古都の街では、たくさんの鹿が人々と共生しているのだろうか。

ぼくは鹿と人々との交流を見ていても幸福な気持ちになる。人々は鹿せんべいを買い、そして鹿はお辞儀をして感謝を示し、鹿せんべいを受け取る。人が鹿に鹿せんべいをやるとき、人は完全に”与える”存在になっている。見返りなど求めず、ただ慈悲の心で与えているのだ。そしてトルストイの「人生論」によれば、その気持ちを人生にまで最大限に押し広げることが、人間全体が幸福になる唯一の道であるという。

人はお金を出して鹿せんべいを買う。そしてお金を失う。鹿せんべいを鹿に与える。見返りにもらえるものは何もない。お辞儀をされたり、記念に写真を撮ったりはできるが、そんなのは鹿せんべいを与えずとも可能なことである。人々は与えることで心満たされている。なにひとつ返されようという気持ちなしに、ただ与えようという気持ちを持って、自分の金銭の損など構いもせずに、ただひたすらに鹿に与えている。

鹿に恩返しをしなければならない者などいない。彼らは皆、今しがた初めて鹿に出会った者たちだ。友達の鹿がいる者もない。人々は誰もが、見知らぬ鹿に食べ物を与え、命を与えている。それは日本人ばかりではなく、中国人も、韓国人も、白人も、中央アジア人も、みんなが等しく鹿に見返りを求めず、ただ慈悲を与え命を与えている。なんて美しい光景だろうか。人間の本当の願いとは、このような奈良で見られる世界なのではないだろうか。

人間が戦争を起こさなかった時代などない。彼らが殺しあわなかった時代などない。争い合い憎み合うことは、人間の本質であるようにも思う。それでも奈良で見かける鹿と人間の関係のように、人間には知らず知らずのうちに、仏性のような慈悲の心を誰もが天から与えられているものなのだ。悲しいニュースがあふれる中で、人間も全然捨てたものなんかじゃないということを、奈良の鹿は教えてくれる。さすが、神様の乗り物の動物である。



 

 

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