異国へと広がり、祖国へと深まれ。
ぼくが世界一周をやめる理由:旅する人でなく、旅そのものとなれ
・ぼくは世界を一周することができない
・シベリア鉄道の旅は中島みゆきの夜会によりおわりを告げた
・スペイン巡礼の旅は妹の結婚式により終わりを告げた
・新しい旅のスタイルの提案:世界一周と日本一周を同時に
・世界一周と日本一周を同時に行うメリット
・今回ぼくが世界一周をやめる理由
・旅の炎が命ずること
・旅することに終わりを告げて
目次
・ぼくは世界を一周することができない
ぼくはいつも、世界を一周することができない。いつも割と、さぁ世界を一周するぞという意気込みで日本を出て行くのだが、知らず知らずのうちに日本に戻ってきてしまい、出国と帰国を繰り返しながらもはや2年が経とうとしている。
その期間には台湾一周や、インドネシア横断、シベリア鉄道の旅やその続きとしてのヨーロッパ周遊、夏には南ヨーロッパの旅や、スペイン巡礼までやり遂げ、今回は東南アジアを一周して中国南部を雲南省から東へ東へと横断し、最終的には中国大陸から船で行ける台湾の離島・金門島まで渡り、最後には台北に到着し、またしても日本へと帰ろうとしている。
一体どうしてぼくは世界一周ができないのだろうか。
・シベリア鉄道の旅は中島みゆきの夜会により終わりを告げた
なぜいつも日本に帰るのかと言えば、旅よりも大切な出来事が日本で起こってしまうからに他ならない。これは例を挙げた方がわかりやすいだろう。
たとえばシベリア鉄道〜ヨーロッパ周遊の旅が、ロシア、フィンランド、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、チェコ、ポーランド、ハンガリー、オーストリア、スイス、フランス、ベルギー、オランダまで来て、突如として終わってしまったのは、中島みゆきのコンサートである夜会「リトル・トーキョー」が東京で開催されたからだった。
親の影響で幼稚園の頃から中島みゆきファンだったぼくにとっては、世界を一周することよりも中島みゆきの生の創造物に魂を触れさせることの方が大切だった。そしてオランダのアムステルダムから東京へと帰っていった。さらに旅というものは肉体が外界や異郷へと赴くことばかりを意味するわけではなく、自分の内面にも旅立つために宇宙はあり、自己を深めることさえも旅の一部であるということを主張した。
・スペイン巡礼の旅は妹の結婚式により終わりを告げた
また南欧をめぐる旅として、南イタリア、南フランスの旅を経て、スペイン巡礼を1ヶ月以上かけて歩いて完遂し、サンティアゴから日本へと帰国することになったのは、妹の結婚式があるという理由からだった。
・新しい旅のスタイルの提案:世界一周と日本一周を同時に
しかし、日本に帰ったら帰ったで日本を周遊しているので、最近ぼくは、世界一周だけじゃなくて世界一周と日本一周を同時にしているような人間だと気がついた。ぼくは旅に生きると決めたこの2年間で、日本国内について言えば、琉球諸島をめぐる旅、北海道半周、東北地方一周、東京周辺の旅、故郷である紀伊半島を車中泊で一周、九州を車中泊で一周など、日本のまだ行ったことのないさまざまな場所を旅してきた。
イメージ的には外国の旅を終えて日本へ帰国すると、そこからテーマを持った日本の旅が始まり、それが終わるとまた外国へと旅立つというサイクルが、延々と繰り返されているような感じだ。外国へ行けば行くほどに、異国へと広がれば広がるほどに、ぼくは日本に興味を持ち、祖国へと魂を深め沈めたくなる。
世界一周と日本一周を同時にしているというのは、ぼくにとっては当然の成り行きだった。
・今回ぼくが世界一周をやめる理由
さて、今回ぼくが東南アジア、南中国、台湾を経て日本へと帰国することになった理由は、またしても中島みゆきのコンサートの時期が来たからである。中島みゆきも今年で68歳、おばあちゃんと言われる年齢にさしかかり、寂しいことになんと今回のツアーで全国を回るコンサートは最後であると断言している。つまり、中島みゆきのラストコンサートツアーだ。これは行かないわけにはいじかない。コンサートの名前は「結果オーライ」。最後のコンサートにして、なんと潔い名前だろうか。
今回の日本帰国時には、日本一周の一環として「車中泊で四国一周」でもしようかと企んでいるが、定かではない。
・旅の炎が命ずること
旅人とは、その名の通り旅をする人間のことである。ぼくはずっと旅人になることに憧れ、ついに医者を休んで旅人になり世界と日本を旅しているので満足していたつもりだったが、旅をしながら感じたのは、旅人になっただけでは終わらないのではないかという思いだ。
「なぜ旅をするのか?」と尋ねるような人間は野暮なものだ。ぼくたちは、ぼくたちの根源が旅をしろと燃え盛っている限り、その炎に従い、どのような形であれ旅を続けなければならないだろう。しかしぼくたちの旅の炎は、ぼくたちをどこへ連れて行こうというのだろうか。この一生を旅に捧げ、あらゆる日々を旅に生き、旅の中で死ねれば炎は満足するだろうか。
いや、それでは炎はなお死んでも燃え盛り続けるだろう。死などという軽薄な境界線さえ超えて、新たな誕生という輪廻の膜さえ破り抜け、旅の炎はぼくたちに付きまとうだろう。旅の炎はぼくたちに、何を望むだろうか。旅に生き、旅のうちに死ぬだけではあまりに惨めな魂たちに、炎は何を語り語りかけるのだろうか。
・旅することに終わりを告げて
ぼくたちは誰でも、簡単に旅人になることができる。赤子でも老人でも、男でも女でも、富んでいても貧しくても、賢くても愚かでも、美しくても醜くても、その肉体を浮世の軌道から外し、魂を旅の風の中へとさらせば、誰だって旅人になれる。しかし、旅人を超え、旅人の次へと行ける者は少ない。
旅するだけでは不十分だと、旅の炎の声が聞こえる。旅するだけでは終われないと、古代から彷徨いの歌が聞こえる。誰でも超えられるものを超えては、ぼくたちは誇りを高くした。自分は他の人とは違うのだと、誰もが祈りながら同じ道を辿った。
新しい宝石を発見したと奢っては、はるか昔から伝わる泥を見せびらかす。誰にも見えない精霊を見たと嘯いては、限りなく深まる疑いを重ねる。
もはや旅するだけでは語れないことを知った。真理の海へと身を浸し、歩けないと悟った。
閉じる眼さえも持たないで、旅人は見抜けるだろうか。かざす腕さえも朽ち果てて、祈りは天を貫くだろうか。
ぼくたちは、ぼくたちは、傷ついたままでは終われなかった。
妬まれて、謗られて、疎まれて、急かされて、
ぼくたちは、ぼくたちは、悲しみの最果てへと舟を出す。
やがて肉体を失う、心を失う、魂を失う、旅することを失う。
ぼくたちは、ぼくたちは、旅することに終わりを告げて
いつの日か、旅そのものとなれ。