豪華な海鮮丼に素敵なレトロカフェ!北海道小樽は魅力あふれる運河の街だった

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さて、次の日しょーたは仕事だったので、ぼくはひとりでどこへ行くか考えていた。しょーたがこの前の小樽の休日が非常に楽しかったと語っていたことを思い出し、小樽を訪れることに決めた。

豪華な海鮮丼に素敵なレトロカフェ!北海道小樽は魅力あふれる運河の街だった

・海の見える電車
・小樽の海鮮丼
・絵を描くおじさん
・花の咲く蜂蜜ソフトクリーム
・趣のありあまるレトロなカフェ

・海の見える電車

山梨の小海線の鉄道の旅で、よい路線というものがこの世にあることを知ったぼくだが、札幌から小樽までの電車も「よい路線」に含まれると言ってもよいだろう。小樽へと近づくたびに、次第に広大な海原が車窓の向こう側に立ち現れてくるのだ。薄曇りの白い海が目の前に広がり、久々に海の姿を見たような気がして安堵した。

海を見たならば心が安らぐのは、生命は海から生まれてきたからなのだろうか。
そもそも生命が海から生まれてきたというのは本当なのだろうか、とぼくは時々考える。科学者たちがもしも「生命は海から生まれてきた」と唱えることをしなかったとしても、ぼくの生命は、直感的に海を故郷だととらえることができるだろうか、他の人々も生命が海から旅してきた旅人だと気づくのだろうか。しかし、海という言葉は「生み」という意味ではないかとぼくは感じる。もしそうだとしたら、ウミという言葉を発明したはるか昔のご先祖様も、海から生命は生まれてきたのだと、科学者なんか存在していなくても、直感で理解していたことになる。もしくは、魚などの多くの獲物を捕獲できるから、食べ物を生む場所としてのウミだろうか。言葉をめぐる旅は尽きない。しかしそれだと決まる証拠は何もないのだった。

 

 

・小樽の海鮮丼

車窓から海を眺めながら時を過ごしていると、いつの間にか小樽に着いた。小樽駅から出て左側へ向かうと、狭小な階段がそびえている。そこを上り切ると、市場通りを発見した。幅の狭い市場通りの中に威勢のよい商いの声が響き渡り、海鮮の店舗が所狭しと並んでいる。ぼくは昼食として海鮮丼を食べることにした。

 

店の人に、うちは基本酢飯なんですが大丈夫ですかと尋ねられたので、思わず大丈夫ですと言ってしまった。しかしその後で、自分が普段食べている海鮮丼が普通の白米だったのか、酢飯だったのかわからずに困惑した。そのような観点から海鮮丼を食べたことがなかったのだ。海鮮の下に埋もれている米が、白米か酢飯かということに焦点を当てて、感受性を働かせたことがなかった。生きていると多くのことを見逃しているなあと実感し、海鮮丼が出来上がるのを待っていた。

 

出てきた酢飯の海鮮丼を食べるとすぐにわかったのだが、ぼくが普段尋常の海鮮丼だと思って食べているものは普通の白米だった。酢飯ではなかったのだ。酢飯だと、海鮮丼のご飯としては、やや口の中でくどさが残るとぼくは主観的に感じた。それでも十分美味しかったのだが、白米がbetterであるという感触は拭えない。ぼくはいつもの海鮮丼が酢飯ではなく普通の白米だったことをようやくここで認識し、そして今後の人生でも「海鮮丼は酢飯ではなく白米で!」と自らの頭の中で標語を作り、昼食を終えた。

しかし酢飯を食べたらすぐに普段の海鮮丼が白米であるとわかったことは非常に興味深かった。このように人は、進んで否定することにより物事を認識しているのかもしれない。そうだと純真にまっすぐ思いなすよりも、そうじゃないと反発の思いを感じながら得た否定の感触は、作用反作用の力学で精神に強い印象を残し、その人間を支配する観念がそこに生まれるのかもしれない。わたしだからわたし、ではなく、あなたでないからこれはわたし、という風に。否定により生まれくるわたくし。それは人間の悲しい宿命なのかもしれない。

 

 

・絵を描くおじさん

 

小樽といえば運河らしいのだが、ぼくはあまり興味をそそられなかった。確かに綺麗な風景だが、それよりももっと面白いものが、この街には隠されているのはないかと予感したのだ。運河周辺では多くの人々が、運河と自分の写真撮影に勤しんでいる。「日本一周」の看板を掲げ、手作りの品物を商いしている人もいる。最近ではよく見かける光景だ。すでに出来上がった絵を売っている人もいる。絵をその場で描いている人もいる。

 

 

ぼくは絵を描くおじさんをじっと見ていた。おじさんは運河をじっと見ていた。集中して運河という世界を、自らのキャンバスに転写しようと企んでいる。その転写は完璧な模写ではなく、おじさんの中の世界と運河という外界の世界が混じり合って生み出される、まさにおじさんの子供というべきものかもしれない。

運河に架かる橋の上にはざわめき慌ただしい人々の波。力車を引く若者の、客引きの威勢のよい声が響き渡る。写真で自分を撮る者もある。写真で自分を撮られる者もある。流れを見せることのない淀んだ水をたたえた運河が、曇り空の中から抽出するように光を反射させ光っている。異国を旅する者も、祖国を旅する者もある。ひとりの人も、ふたりの人も、集団の人々もある。北国に似合う薄い黄緑色の葉が運河を伝う建物にこびりついている。その黄緑を運河の水がすくいあげている。そのすべては儚い幻かもしれなかった。夢幻のような外界をおじさんは無視して、ただ運河と自らを対峙させて、運河と自分だけの世界の中で絵を描いている。

 

ぼくは自分でも絵を描きたくなった。

 

・花の咲く蜂蜜ソフトクリーム

運河沿いに蜂蜜屋さんがあり、そこには花が添えられた蜂蜜ソフトクリームが売られていた。店の前にはインスタグラムを想起させる宣伝の看板が立てかけられていた。見た目こそが大事という波が、浮世には訪れているようだ。いくら美味しくても、姿形がみすぼらしくてはならない。写真に撮って、共有し、より多く羨ましがられることにこそ価値があるのだ。逆に写真では、味のよさなど伝わらない。この風潮は、世の中が外見至上主義に傾倒し内面を蔑ろにするムードを促進するように思われたが、果たしてこのソフトクリームの味はどうだろうか。ぼくも昔からおそらく生まれながらの性質的に外見至上主義の気配があり、その可憐な花のソフトクリームを迷いなく購入し、黙々と写真を撮影していた。花がないはちみつソフトは、花が乗せられたソフトクリームよりも200円も安いのが面白い。誰もが食べても美味しくないと感じる花弁を乗せることに、喜んで200円を払っていくのだ。もはや味わうものではなく、見せるためのソフトクリームと言えよう。ぼくももちろん200円多く積んだ。

そして実際に食べた花蜜ソフトは、これまでのどのソフトクリームよりも美味しかった。ソフトクリームと、蜂蜜がこんなに合うということに衝撃を受け、また花弁はやはり味もせず美味しくはないが、花弁の役割は味わいを感じさせることではないのでよかろう。また小樽に行ってもう一度食べたい。あのソフトクリームを食べるためだけにでも小樽へ行きたい。

 

 

・趣のありあまるレトロなカフェ

花蜜ソフトとの出会いに感謝し、運河から駅へと商店街沿いに歩いていると、ものすごく気になる喫茶店を見つけた。外からでは中の様子を確認することはできないが、この店はただものじゃない感じがするという直感を得たので、店の中に入ると衝撃的だった。

店の中は一切写真撮影禁止だったので、ここでは画像ではなく言葉で伝えるしか術はないのだが、まさに筆舌に尽くしがたい、beyond discriptionと言った感じでうまく文字で伝えられる自信がない。とにかくぜひ小樽に行ったら訪れてほしい。言えるのはそれくらいである。

強いていうならば、タイムスリップしたのかと思った。ぼくが生まれる前のような時代の気配である。ぼくは古民家カフェが好きなのでよく訪れるが、これは古民家カフェの比ではない。小手先だけで作れるような雰囲気ではないのだ。アンティークランプの照明が橙に灯る仄暗い店の中には、おそらくオーナーが長年かけて収集したであろうレトロな置物が所狭しと並べられている。その収集物の多さが、まさに長年の歴史と嗜好へと流れ込んだら止まらない人間の心の気配を伝えている。店の中にはクラシックのレコードがやや大きめの音量で流されており、店の中の時の流れを支配している。ぼくはコーヒーを頼んだが、コーヒーを頼むと無料でカステラも付いてきた。そしてこれがまた驚くほどに素朴で味わい深かった。

もう一度繰り返すが、筆舌に尽くしがたいので、ぜひ実際に訪れて確かめていただきたい。過去へと遡るタイムマシンがもしこの世にあるのなら、それはこの純喫茶光の扉である。

 

 

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