「騎士団長の宮殿」は興味深いモザイクがいっぱい!!!!!

モザイクや彫刻も美しい!ロードス・タウン旧市街「騎士団長の宮殿」の見所を徹底解説
・ギリシャの離島を巡る旅
・苦難に満ちた「聖ヨハネ騎士団」の歴史
・ロードス・タウン旧市街で最も重要な見所「騎士団長の宮殿」の歴史
・オフシーズンの「騎士団長の宮殿」の入場料は格安
・モザイクや彫刻も美しい!「騎士団長の宮殿」の見所を徹底解説
・中世の香り漂う「騎士の並木道」
目次
・ギリシャの離島を巡る旅

ギリシャ一周の旅の中でぼくは古代遺跡の豊富な首都アテネ、断崖絶壁に立つギリシャ正教会の大絶景に圧倒されたメテオラ(カランバカ)、海沿いのギリシャ第2の都市テッサロニキ、女人禁制のギリシャ正教最大の聖地アトスの巡礼を終えて、ついにギリシャ離島の旅へと出発した。ギリシャの離島を巡る旅ではフェリーに乗ってクレタ島、サントリーニ島、ミコノス島、ロードス島を回るエーゲ海の冒険を計画している。
クレタ島、サントリーニ島、ミコノス島の旅を終えて、ついに最後の島ロードス島へ行く日がやって来た。ロードス島からはフェリーを使って対岸にあるトルコのマルマリスへ移動し、ギリシャ一周の旅からトルコの旅へと移行するつもりだ。長らく続いたギリシャ一周の旅も次のロードス島で終わりかと思うと感慨深いものがある。
ロードス・タウンでは3食飲み放題、食べ放題のインクルーシブのホテルCastellum Suites All Inclusiveに宿泊し、食事をどうしようか全く考える必要のない快適な滞在を経験した。
・苦難に満ちた「聖ヨハネ騎士団」の歴史

Castellum Suites All Inclusiveは世界遺産であるロードス・タウン旧市街の近くにあり、歴史あるロードス・タウン旧市街の街並みを好きな時に思う存分楽しむことができた。
ロードス・タウン旧市街は、主に「聖ヨハネ騎士団」によって作られたという。聖ヨハネ騎士団とは11世紀にエルサレムで誕生したカトリックの騎士修道会で、中世を通じて重要な軍事・医療・宗教的役割を果たし、何と現在でも活動を続けているという長寿組織だが、その歴史は苦難に満ちたものだった。発足当初はエルサレムにやって来た巡礼者の保護と治療などの病院活動が中心だったが、やがてイスラム勢力に対抗するために騎士団として武装化することになった。
1187年にはエルサレムが陥落、その後1291年にはイスラム軍に追われるようにキプロス、そしてロードス島へと退いた。1308年にはロードス島全域を支配し、16世紀初頭まで病院(現在のロードス旧市街にある考古学博物館)を建てて慈善運動を進めるかたわら、船隊をバックに広範な交易で繁栄した。今見られるロードス旧市街の中世の町並みはほとんど彼らが残していったもので、旧市街の中心にある「騎士団長の宮殿」もこの時代に建設されたものだ。
1522年にはロードス島に侵攻してきたオスマン帝国軍に敗れ、わずかに生き残った180人の騎士団はシチリア、そしてマルタへと逃れて行った。結局は1798年にまたマルタを追われることになるが、それから200年以上経った現在でも、「国土なき国家」として騎士団は生き続けている。ローマにある本部は世界90ヵ国以上と外交関係を結び、騎士団には現在全世界に1万2500人もの団員が散らばっているという。
今日はロードス・タウン旧市街の歴史を語る上で欠かすことができない聖ヨハネ騎士団にまつわる「騎士団長の宮殿」を見学してみよう。
・ロードス・タウン旧市街で最も重要な見所「騎士団長の宮殿」の歴史

「騎士団長の宮殿」はロードス・タウン旧市街の中心部に位置し、ロードス・タウン旧市街の中で最も重要な見どころのひとつだ。この宮殿は元々7世紀後半にビザンチン帝国の城塞として建てられた。 1308年に聖ヨハネ騎士団がロードス島とその他のギリシャの島々(カリムノス島やカステロリゾ島など)を占領した後、騎士団はこの要塞を行政の中心地と総長の宮殿に改造した。
1522年にオスマン帝国がこの島を占領した後、宮殿は司令部や要塞として使用された。 1856年近くの聖ヨハネ教会の地下にあった火薬庫に落雷があり、大爆発を起こして多くの人が亡くなり、教会と総長の宮殿の大部分が破壊されてしまった。しかし第一次大戦後にロードス島を占領したイタリアが修復し、今の姿を取り戻した。ファシスト独裁体制を樹立したイタリアの政治家ムッソリーニが別荘として使用したこともあるという。
・オフシーズンの「騎士団長の宮殿」の入場料は格安

「騎士団長の宮殿」の入場料は4ユーロだった。11月はオフシーズンなので安くてラッキーだった。
・モザイクや彫刻も美しい!「騎士団長の宮殿」の見所を徹底解説



「騎士団長の宮殿」の重厚な玄関。この宮殿はギリシャにおける数少ないゴシック建築の例のひとつだ。厚い石壁、聳え立つアーチ、そして旗や紋章の残骸は、戦士であると同時に精神的な看護師という騎士たちの二重のアイデンティティを際立たせている。


中に入ると目の前に広がる中庭が美しい。





聖母マリアの彫刻をはじめとして様々な彫刻が中庭を取り囲んでいる。この中庭は騎士や高官たちの集会場や儀式の場として利用されていた。

中庭のアーケードは優美なゴシック様式。


宮殿の上の部屋へと続く堂々とした大階段。








博物館には武器、甲冑、精巧なタペストリーなど、中世の遺物の膨大なコレクションが収蔵されており、それぞれがロードス騎士団の生活と時代を垣間見ることができる。

有名なヘレニズム彫刻「ラオコーンとその息子たち」のレプリカ。本物はバチカン美術館に所蔵されているが、この彫像の作者はロードス島出身のアゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの三人の彫刻家であるという。

「騎士団長の宮殿」は何と言っても何種類もある床のモザイクが最も印象的だった。ぼくが世界中で見られる幾何学模様やモザイク好きなのもあって、とても興味深かった。「騎士団長の宮殿」のモザイクは中世騎士団時代のオリジナルが残っているというわけではなく、20世紀初頭のイタリア統治時代に装飾や修復の一環として、主にローマ時代やヘレニズム時代のモザイクを他所から移設したものであるという。宮殿内に敷き詰められているモザイクの多くは紀元前3世紀〜紀元後3世紀のギリシャ、ローマ時代の作品で、コス島やロードス島の古代遺跡にあったものを宮殿の装飾として再利用した。

コス島のメデューサのモザイク(紀元前2世紀)。

コス島のビザンチンモザイク(450〜500年)。

虎のモザイク。

迫力ある剣闘士と虎のモザイク。





特徴的なイルカのモザイク。クレタ島やサントリーニ島の考古学博物館でもイルカを見たが、ここロードス島もまた古代から海洋王国だったことが示唆されている。

メデューサルームには、幾何学模様に囲まれた印象的なメデューサのモザイクが飾られている。イスラムと中国の花瓶の展示もあり、ロードス文化の交差点を際立たせている。


でもこれが中国の花瓶って本当なのかな?この花瓶はとても不思議だったので強烈に印象に残っている。確かに日本の陶器のように繊細な感じはせず全体的な雰囲気は中国っぽいけれど、これって明らかに日本の天照大神の物語では?中国にも天照のような神様がいるのだろうか。それとも日本の神話を元にして中国が作った花瓶だろうか。断定できたわけではないがおそらく天照大神にこんなギリシャの離島で出会うことができるなんて、日本人として何だか感動的だ。

ポルトガルのアズレージョもしくはイスラムモスクのモザイクのように美しい幾何学模様も広がっていた。







この他にも見応えのあるモザイクや陶器がいくつもあり、何だか美術館に来たみたいで心が芸術的に満たされた。
・中世の香り漂う「騎士の並木道」




「騎士団長の宮殿」を出たところにある「騎士の並木道」も中世の香りが濃厚で情緒深いものがあった。騎士たちは主にヨーロッパの名家の出身で、フランスやスペインなど祖国を同じくする者同士が集まり、8つの語族を形成していた。そしてそれぞれの語族に分かれた宿舎(=オーベルジュ)があったという。この通りにはかつてそんな騎士団のオーベルジュが立ち並んでいたという。
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女人禁制のギリシャ正教の聖地、アトス巡礼の旅
クレタ島
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