所有しない者が神聖を帯びる時!何も持たないストラスブールのホームレスが同じホームレスに慈悲を与えていた話

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凍える夜のバスステーションに、2人のホームレスがいました。

所有しない者が神聖を帯びる時!何も持たないストラスブールのホームレスが同じホームレスに慈悲を与えていた話

・寒冷なストラスブールのバスステーション
・モロッコ人との対話
・貫かれる西洋の善悪
・2人のホームレス
・持たざるものの与え
・持たざるものの神聖

・寒冷なストラスブールのバスステーション

ぼくが自分のマヌケさのせいでストラスブールで立ち往生したのは先日の記事でお伝えした通りである。なんとか楽しく予定になかったストラスブール観光を終え、ぼくは20時ごろにストラスブールのバスステーションへと向かった。23時30分発のブリュッセル行きのバスを待つためだ。

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3時間半も待ち時間があるが、スターバックスが19時までだったので仕方なく出てきた。昼食が多かったこともありレストランで夕食をとる気にもなれず、お酒も好きではないのでバーにいく気分でもない。バスステーションでじっと待つのが賢明だと感じたのだ。

しかし夜のストラスブールは寒冷だった。しかもストラスブールのバスステーションには待合室がなく、外の椅子で待つしかないのでかなり寒さが堪えた。トイレも営業が終わり鍵がかけられてしまい、もはやバスステーションで待っている人々がトイレに行くことはできない。もうちょっとどうにかならないのかと思う仕組みになっていた。

 

 

・モロッコ人との対話

ぼくが待っていると、同様にバスを待っている人々が集まってきた。ある男性がぼくにチョコレートをくれたことで、ぼくたちは打ち解けて喋り出した。彼はモロッコ人だという。ぼくはモロッコに行ったことがあったので、話は盛り上がった。

ぼくはモロッコのサハラ砂漠に行ったことやその周辺のメルズーガの街のこと、マラケシュやフェズの街のこと、スペインのアルヘシラスからモロッコのタンジェまでフェリーで渡って冒険したことなどを話した。彼はかカザブランカ出身だという。彼はモロッコでケーキ屋さんをやっており、彼の上司はフランス人でありフランスにも支店があることから、その視察に来たということだった。そのお店はなんと銀座にも支店があると彼は言っていた。

彼はモロッコ人なのでフランス語が話せるようで、他のフランス人たちともフランス語で会話していた。旅行した時も感じたが、モロッコ人はフランス語が堪能だ。聞くとぼくたちが英語を習うように、中学からフランスを学び始めるという。そして英語は選択なのだそうだ。ぼくはなぜフランス語なの?英語の方が国際的に使えるのにと言うと、植民地にされた歴史的な影響だと語っていた。

 

・貫かれる西洋の善悪

ぼくたちの前には、明らかにホームレスのようなおじさんが1人と、バスを待っているかのようなサンタクロースみたいなおじさんが1人いた。ホームレスのおじさんはなんだか様子が少しおかしかった。ひどく寒いのに布一枚で地面に座り込んでいる。他の誰からも視線をそらし、誰の声も聞きたくないような、寂しそうな表情をしている。もしかしたら精神的な問題もあったのかもしれない。

何人かの人が、彼を気にかけてどうしたのと話しかけているようだった。ぼくはまずこの光景に驚いた。日本人ならばホームレスの人がいたとしても、わざわざ話しかける人なんて皆無なのではないだろうか。たとえ気になったとしても、誰も話しかけていないし自分も話しかけないようにしようと思うのが普通であるように感じる。またはあまり近づいてはならない存在であるように感じてさえいることもあるのではないだろうか。実際にぼくもホームレスの人に話しかけた経験などない。深く考えたことはなくても、自分とは関係のない世界の人だと心のどこかで思っていたのかもしれない。

しかしストラスブールのバスステーションで見ていると、ヨーロッパの人々は全く違った。みんな機会があれば積極的に話かけている。日本では駅のホームレスに話しかける人といえば、そういう役割を持った監視員の人とかそういう種類の人だけのような気がするが、普通の通りすがりの人でも気にかけて話しかけている。時には積極的に食べ物をあげようとする若い女性までいる。先程述べたサンタクロースおじさんも話しかけているし、モロッコ人も気にかけて話しかけていた。

彼らが話しかけたところによると、ホームレスさんはフランス語が通じないらしい。したがってフランス語しか話せないサンタクロースさんとはあまり会話が続かなかった。モロッコ人が英語で話しかける。ホームレスさんはバスを待っていると言い張っているが、どう見てもそうではないことは火を見るよりも明らかである。明らかにこれからここで一夜を過ごそうとしているような雰囲気だ。しかし布一枚しか持ち合わせておらず、非常に寒そうである。モロッコ人は、何か必要なことがあったらなんでも行ってくれと英語で伝えている。

ぼくは彼らの様子を見ていると、我々日本人とは違う、はっきりと貫かれた善悪の基準が存在しているように思われた。それは聖書の一節であるかもしれないし、コーランの教えであるかもしれない。何か経典を持たない自分たちにはないような、明らかな善悪の灯火があり、それが彼らを突き動かしているように感じたのだ。

 

・2人のホームレス

ぼくはモロッコ人と話を続けた。彼はムスリム=イスラム教の人であるという。彼はモスクには行かなくても毎日祈りを欠かさないと言っていた。ぼくは彼に、コーランにはホームレスのように家や物を持たない人に対してどのようにすべきか書かれているのかと尋ねてみた。彼は”Just help them”とコーランには書かれていると教えてくれた。なぜなら今は彼がホームレスだが、あれは将来の自分の姿でもあるかもしれない、他人に与えたことは巡り巡って自分に返ってくるのだと語っていた。

やはりそのような経典の教えが、彼らを“物を持たない人々”を積極的に助けようとする姿勢に導いているのだろうか。聖書についても聞いてみたいが、彼はキリシタンではないので知らないだろう。

ぼくらが会話をしていると、サンタクロースおじさんがホームレスさんにまた話しかけている。サンタクロースさんはホームレスさんに、名前は何かと聞いているようだ。ホームレスさんは「ジョン」だとサンタさんに答える。するとサンタさん、なんと自分の毛布と寝袋を取り出して、それを整えてホームレスさんのとなりに敷き、ここに寝ろ!ジョン!と何度も何度も指示している。ホームレスさんがあまりに寒そうな格好だったから気の毒に思ったに違いない。

しかしホームレスさんは決してそのあたたかな毛布と寝袋に寝ようとはしなかった。人間の優しさに怯えているような、もう誰とも関わらずに消えてしまいたいというような寂しそうな表情で、ストラスブールの暗闇をじっと見ている。ちょっと触れるだけで痛がるような、そんな心を持っているのかもしれない。

するとなんとサンタさんが、自分の敷いた寝袋と毛布の中に横になった!実は彼もホームレスだったのだ!ぼくはただのバスを待っているサンタクロースに似た白いおひげのおじいさんだと思っていたが、ここにはホームレスが2人いたのだった。

 

 

・持たざるものの与え

ということは衝撃的だ。ぼくはサンタクロースさんは普通にお金のある人でその人がホームレスさんに毛布やら寝袋を与えようとしていたのだと思っていたが(もちろんそれでも立派な行為であるが)、家やものを持たないホームレスさんが他のホームレスさんに“与える”という行為に及んでいたのだ!

ぼくはまたシベリア鉄道で読んだトルストイの「幸福論」を思い出していた。彼は、すべての人間の幸福のためには“与え”続けるしかないと説いていた。そこには持っている人は与えて、持っていない人は無理に与えなくてよろしいと書かれていた。しかし今ぼくの目の前で起きたことは、“持たざる者”が“持たざる者”に対して、せめてもの“与える”という行為を施そうと施行した瞬間である。ぼくはこの旅で最も胸が熱くなり、サンタさんを偉大な人物だと思った。

“持たざる者”でさえ、自分の持っている限り与えうるものを、もっと困っていて悲しんでいる、凍えている人に与えることは可能だったのだ!しかし、こんなことが起こるのだろうか!ぼくは貧しくなってものがなくなったとしたら、せめて今持っているものは手放さないようにしようと、用心深くなったり奪われてなるものかと世の中を敵と見なしたりするのかと思い込んでいた。しかし実際には真逆のことが、目の前で繰り広げられていた。

物質をたくさん持っていてヘラヘラと旅をしているぼくが、ホームレスの人にはあまり近づかない方がいいのではないかと潜在的に感じてなにひとつ与えやしなかったのに、ほぼなにひとつ持たずにリュックひとつで生きているサンタクロースおじさんが、同じくホームレスさんに立派に“与える”という行為を成し遂げていたのだ。ぼくは感動と同時にいたたまれない気持ちになった。その与えは、きっと世界中に転がってるどの与えよりも、重く尊いものだろう。

一体人間というものの本質はどこにあるのだろう。ぼくは人間というものにはまだまだ不思議な深い部分があると思えてならない。それを追求することも、旅の目的である。

 

 

・持たざるものの神聖

目の前では2人のホームレスさんが冷たい地面で横たわっている。ぼくはその時になにも与えるのに適したものを持っていなかった。カバンの中を見てみるとみかんがあったので、せめてそれでもと思い、2つのみかんを2人のホームレスさんの前に置いた。

その時、何か覚えのある感覚がぼくの胸の中に広がった。そう、この覚えのある感覚は、まるで田舎のお地蔵様の前にお供え物を置いた時のような感覚だ。ぼくには彼らが、2つのお地蔵様のように見えた。

それはとても不思議な感覚だが、しかし元から知っていたことかもしれない。ぼくたちは資本主義の世の中を、お金を稼ごうとする、それを主要な生きる目的として突き進むように教育されている。経済の成長こそが、国にとって最も大切なことなのだ。そして人間たちは、できるだけ金を稼ぎ、なるべく支出を抑え、たくさんの金を蓄えようとする。富を蓄えれば蓄えるほど偉大であり、立派であり、人生は安心となるように信じ込まされている。特にぼくの感覚では、日本の人々は“与える”という感覚よりも、儒教的に家族や血縁が富み栄えることを常に願い、その範囲からなるべく金が流出されないように努力しているのではないか。

しかし本当は逆なのではないか。たくさんの物質を持つほど、たくさんの金を蓄えるほどに、瞳は欲望で濁り、真理を受け取る受容体を喪失するのではないだろうか。本当は、なにひとつ持たないものこそが、この世で神聖を帯び、真実に近い存在なのではないだろうか。

ぼくは日本に帰ったらまた高野山に行きたくなった。そしてお地蔵様にお供え物をしたくなった。その行為はフランスのストラスブールの不思議と繋がり、ぼくにまたなにかを感受させるかもしれない。巡り合うはずのないものが、不可思議な縁によって巡り合う。それが旅という糸の為せる業。秘密を解くための鍵をもう既に持っている。

 

 

 

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