スペイン巡礼みたいにアトスを歩いてみよう!!!!!
肉体と精神と巡礼の関係とは?Zografou修道院からVatopedi修道院までアトス半島の巡礼を開始した
・女人禁制のギリシャ正教の聖地アトスへの憧れ
・修道院に着いたら祈りの時間まで巡礼者は何をするのか?
・アトスの3泊4日という制限は厳しいものではない
・Zografou修道院から歩いていける3つの修道院とは?
・肉体と精神と巡礼の関係とは?巡礼により肉体に刻まれた祈りはぼくたちを聖地へと導く
目次
・女人禁制のギリシャ正教の聖地アトスへの憧れ
2017年に偶然「孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス」という写真集を見かけて衝撃を受けた。ギリシャ正教の辺境の聖地アトスでは何と1406年から今に至るまで女人禁制が貫かれており、一般的な世界とは隔絶された宗教世界の中で黒ずくめの衣装を纏った僧侶たちが自給自足の生活を営みながら祈りに専念しているのだそうだ。神秘的で美しく荘厳なアトスの写真の数々を目にしたぼくは、せっかく男性の肉体を持ちながらこの世に生まれ着いたことだし、世界一周の旅の中で絶対にギリシャのこのアトスへと立ち寄ろうと直感的に心に決めた。
・修道院に着いたら祈りの時間まで巡礼者は何をするのか?
Zografou修道院についに到着し、ギリシャコーヒーとウゾーという蒸留酒とルクミという甘いお菓子でおもてなしを受けた後は、宿泊できる部屋と施設を見せてもらいその綺麗さと快適さに驚いた。修道院の滞在は思ったほど辛く厳しい修行のような日々ではなさそうだ。修道士の人も「ここはホテルみたいなものだよ」と教えてくれた。確かに普通にドミトリーのホテルみたい!
一通り宿泊施設を見終わったところで、さてこれからぼくはどのように過ごせばいいのだろう。巡礼者の決められた予定などはあるのだろうか。まだ昼の12時過ぎだ。アトスを訪れたのはこれが初めてなので、修道院で巡礼者がどのように時を過ごすべきなのか全くわからないし、見当もつかない。世間から隔絶されたアトスというギリシャ正教の厳しい修行の地に留まるのだから、お祈りの時間にきちんと教会に行かないと怒られるとかそういう決まりもあるのだろうか。せめてきちんと修道院のスケジュールを聞いておくべきだろう。
早速神父さんに「ぼくは今日これから何かすべきことはあるのでしょうか?何か修道院で決められた予定はあるのでしょうか?」とものすごく真面目に質問すると、「何もすることはないよ!ボーッとリラックスしてのんびりしてたらいいんじゃない?」という返答が返ってたので拍子抜けしてしまった。せめてお祈りの時間だけでも教えてくださいと聞くと、夕方の17時からだということだった。まだまだ大分時間があるぞ!
しかしせっかくはるばる日本からこうして苦労してアトスの聖地までやって来たというのに、本当にボーッとのんびり過ごしていてもいいのだろうか。何かこう神聖な聖域でしかできないことをやらないと勿体無いような気がする。
他の巡礼者たちはどのように過ごすのだろうか。同じミニバスに乗ってきたブルガリア人の巡礼者にこれから何をするのか尋ねると「何もしないよ!のんびりこの辺をお散歩でもするよ!」と返ってきた。やはりアトスの巡礼というものは思っていたよりも厳かなものではなく、お祈りの時間まではボーッとのんびり過ごすのが正解なようだ。何だか思ってたのとちょっと違うけど、これも実際にアトスを訪れからこそわかるアトス巡礼の一面だろう。
・アトスの3泊4日という制限は厳しいものではない
おもてなしをしてくれた神父さんがどこかへ行ってしまうと、今度はこの修道院に住み込みで働いているおじさんが色々と教えてくれた。このおじさんはアトスにいるのに、黒ずくめの衣装を纏っていない。どうやらこのおじさんは修道士ではないようだ。ぼくはアトスに住んでいるのは全員黒ずくめの修道士だけかと思い込んでいたが、このおじさんのように修道士ではないけれど生活のためにアトスで労働している人が少なからず存在しているようだった。
このおじさんは英語を流暢に話し、外国人のぼくに色々なことを教えてくれた。ぼくが最も気になっていた、3泊4日のアトス滞在はどうやったら延長できるのかという質問をすると「アトスに入る時は入山許可証の日付を厳しくチェックするが、アトスにいる間や、アトスから出る時は誰も入山許可証をチェックしないし日付も見ない。アトスに3泊4日しか滞在できないという制限は、全く厳しいものではない。誰もそれをチェックしないから、好きなだけいることができるだろう。修道院が今日はここに泊まってもいいという滞在許可を出したなら、入山許可証の日付がどうであろうとその日はそこで泊まることができる。万が一入山許可証の日付を指摘されるようなことがあれば、ちょっと病気だったとか何とか言えばどうにでもなるだろう」と教えてくれた。
まさにテッサロニキの巡礼者事務所で教えてくれた回答と同じだった。やはりアトスの3泊4日というのは、全く厳しい制限ではないようだ。テッサロニキで教えてくれたのはただの一巡礼者だったが、このおじさんはずっとアトスで働いているのだから、この情報はかなり信憑性があるだろう。ぼくはこれを聞いてからアトス滞在の延長を考え始めた。
・Zografou修道院から歩いていける3つの修道院とは?
またこのおじさんに17時まで暇だからどうしようと相談したところ、近くの修道院まで歩くのはどうだと提案された。それはいい!歩いてこそ巡礼、まさにスペイン巡礼の再来だ!
ぼくは今日の朝もArsanas Zografou港からZografou修道院まで6km歩く気満々でいたのだが(修道院からのメールには健常者は歩くと書かれていた)、思いがけずミニバスに乗せてくれたので自分の中の歩く気力を消化できずにエネルギーを持て余していた。ここはぜひアトスの修道院から修道院を歩いて巡礼し、アトスの大地に直に触れながら、自分が本当にアトスにやって来たのだという実感を肉体の行動によって体感したい。
おじさんによると、ここZografouから歩いて行ける修道院は3つあるとのことだった。一つ目はアトスの東海岸に位置するVatopediで距離は10km、二つ目は西部内陸部にあるHilandar修道院で距離は10km、三つ目は東部内陸部にあるKonstamonitou修道院で距離は2.5kmということだった。しかしKonstamonitou修道院は近道はかなり険しいので行くなら港経由となり、結局は10kmくらい歩くだろうと言われた。つまりどの修道院も10kmの巡礼の道のり、所要時間は片道2時間といったところらしい。現在時刻は13時、Zografou修道院のお祈りの時間17時に間に合うためにはすぐに出発しなければならない。
ここZografouも山間部の修道院だったのでぼくは海岸沿いの別の修道院を見たくなり、Vatopedi修道院まで歩くことを決めた。親切なおじさんはVatopedi修道院へ続く道まで案内してくれ、ぼくは必ず今日中に帰ってくることを約束して感謝しつつおじさんと別れた。
・肉体と精神と巡礼の関係とは?巡礼により肉体に刻まれた祈りはぼくたちを聖地へと導く
ここからついに本格的にぼくの中の“アトス巡礼の旅”が始まった。スペイン巡礼の旅を通して、ぼくの中で巡礼とは肉体を駆使して歩くことだという考えを形成していた。聖地を訪れることができれば車を使おうがタクシーを使おうがバスを使おうが、巡礼は巡礼だという考えが一般的であるように思われるが、それはぼくの中の巡礼ではなかった。聖地へ向かうという行為の中に精神的な要素を強く見出せば見出すほど、矛盾するようにぼくの中で肉体は重要性を増すばかりだった。むしろ肉体というものを究極的に駆使すれば駆使するほど、その先に立ち現れるのが精神の悟りではないだろうか。
思えばぼくは頭脳を駆使しながら、人生を切り拓いてきた。医師になるためには学力が必要だった。記憶を脳内に留まらせ、論理的な思考回路に順応し、配列を組み直すことで相応しい道筋は整えられた。頭脳はぼくの人生が前進することを助け、また飛躍させた。知っていることは新たな扉を開け、思いつくことは安らかな近道を探した。息ができないほどに必死に荒波を泳いでいる最中には、自分にとって大切なものが何か人は気付かない。けれど異国の果てでふり返ってみれば、ぼくを生き易い岸辺へと運んだのはおそらく頭脳だった。誰もがそれを重要だと言った。誰もがそれを称賛した。誰もがそれを人間の基準とした。けれど一方で、肉体の方はどうだっただろうか。
肉体によって人生が切り拓かれた覚えが、ぼくにはなかった。肉体よりも知識や思考や精神が、人を幸福まで運ぶと人間社会は噂していた。もちろん健全な肉体は常にぼくの精神と共にあった。けれどそれを特別だと感じたこともなければ、肉体を意識したこともなかった。健全な肉体なんて備わっていて当然なのだと、若いぼくは驕り高ぶっていた。肉体なんて精神の乗り物に過ぎないのだと、心のどこかで肉体を見下していた。しかし一方で、ぼくを育み続けた知識や思考や精神は健全な肉体を土台として成り立っていた。肉体というものがなければ、そもそもぼくには何もなかった。
ぼくたちはかつて、極めて肉体的だった。この世に生まれついた時、肉体を駆使することだけがぼくたちの仕事だった。大地に寝ることしかできなかったぼくたちが、やがて大地を歩き回るまで、忘れ去ってしまった過程の中に肉体の野性が宿っている。肉体が大地に立つことで、見ることのできる景色があった。肉体が大地に這いつくばることで、辿り着ける異郷があった。肉体が大地を歩くことで、ぼくたちはどこまでも行けると信じていた。ぼくたちの全ては肉体から始まり、それならばぼくたちの全ては肉体によって終わりを告げるだろう。人間の喜びも悲しみも快楽も肉体なしには成り立たないというのなら、肉体という根源を身失ってはならない。
(ただ憶えていればいいのだと彼らは見なした。ただ知識を吸収すればいいと彼らは促した。肉体が何も知りはしないのに、脳と精神だけが根を持たない記憶と知識で飽和していた。彼らはそれを誇りとし、思い上がっていた。人の世は肉体の知らないことばかりを大いに語っていた。世の中は肉体という根を持たない幽霊のような言葉で溢れていた。人の口から出る言葉から、言霊が消えていた。言霊という熱量は、肉体が知っていることを通して初めて発揮される。)
肉体から遠ざかれば遠ざかるほど尊ばれるこの世の中において、ぼくたちは惑わされることなく、肉体という根源に立ち返ろう。肉体の見知らぬ知識たちを並べて喜ぶ人々の群れを退いて、肉体に刻まれた祈りの傷跡だけを道しるべとして生き直そう。ぼくたちの悲しみは限りなく深く、ぼくたちの赦しは遥か遠かった。肉体がひとつ、聖域へと近づくごとに、精神へひとつ、本当の水が注がれていく。ぼくたちには肉体しかないのだと、歩みを大地へと刻みつける者だけが行き先を知っている。肉体が知っている全てのことを、受け入れることから巡礼は始まっている。精神の悟りとは、肉体の先にある異国だ。怠ることなく修行を完成させよう。
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