日本の伝統芸能「能」と旅の関係を徹底解説!逃げ場を失くした魂たちは異界を通して救済へとたどり着く

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日本の伝統芸能・なんて見たこともないのに、ぼくは能に関する本を読んでいたく感動した経験がある。安田登さんという能楽師の異界を旅する能 ワキという存在 という本を読んだのである。その本によると、能と旅とは密接な関係にあるというのだ。いや、関係があるというよりはむしろ、能こそは旅であり、旅こそは能であるというという表現が適切であろう。この本の中には、ぼくの感性にビシビシ突き刺さるような内容が多分に含まれており、一生の中でとても大切な本との巡り合いのひとつとして、ぼくの心に刻まれている。

 

 

しかし、能というのはいったいどこで見られるものなのだろうか。沖縄に住んでいたときにこの本を読んだのだが、その際に調べてみたところ、やはり東京とか大阪とか、そこらへんの遠くの地で催されている様子であった。それならば行く機会はないだろうと、ぼくは実演の能を見ることもなく異界を旅する能 ワキという存在 を読んだり、三島由紀夫の「近代能楽集 」などを読んだりして、もっぱら紙の上の文字と観念の上で、能と付き合ってきた。

 

 

今回、仕事を辞めてみて関西に帰ってきたことをきっかけとして、そういえば能を実際に見られるかもしれないという思いが湧いてきた。すると偶然にも、東京の神楽坂在住の友人が、近所で能をやっているよという情報を与えてくれた。彼が言っているのは神楽坂にある「矢楽能楽堂」のことであり、そこでは一般の人も見られる能の定例会が、月に一度催されているとのことであった。チケットの料金は5000円であるらしい。ついにこの一生にも、能を見る機会が訪れたかと心躍らせながら、東京を訪れた。

能を初めて見るにあたり、気分を高めようと事前に異界を旅する能 ワキという存在 を再読した。
何度読んでも、この能と旅の関係性にはひどく感銘を受けるものがある。このブログは旅をテーマとしていることもあり、この旅と能の関係性について、自分の中でまとめる意味も込めて記載してみたいと思う。

日本の伝統芸能「能」と旅の関係を徹底解説!逃げ場を失くした魂たちは異界を通して救済へとたどり着く

異界を旅する能 ワキという存在 を読んだきっかけ
・ワキとシテの存在
・無力な旅人と異界の者との邂逅
・異界への通路
・世界はこの世だけではないという救い

異界を旅する能 ワキという存在 を読んだきっかけ

ぼくが能についてまったく何の知識も興味もないのに、なぜ異界を旅する能 ワキという存在 なんて本を読んだのかというと、中島みゆきの夜会がきっかけである。

中島みゆきは1989年から自らのライフワークとして「夜会」という“言葉の実験劇場”を営んでいる。この夜会は、中島みゆきが作詞、作曲、歌、脚本、主演のすべての役割を担っており、このような演劇は世界で唯一であるとされる。かつて彼女はまったくコンサートなどの映像作品を残さなかったにも関わらず、夜会に関してはそのおおよそは映像化されており、ぼくはそれらを繰り返し繰り返し何度も見たものである。

夜会は、味わい深くそして難解であり、何回見ても感動し、そして新しい発見がある。
ぼくは一度見たら意味がすぐにわかってしまう簡素な作品よりも、一度見ただけではまったくなにがなんだかわからないような、複雑な作品が好きである。その複雑さの中に創造主の意図が、何重構造にもなって込められているのかと思うと、それを発見することや思考すること、その複雑な糸を解きほぐそうとすることに楽しみを見出せるし、いつまでも新鮮な発見を与えてくれる作品は、何年経っても何十年経っても末長く付き合えるものである。そういう意味でいうと、ぼくは宮崎駿作品なんかも、人々の大半の意見に反して、初期よりも晩年の作品の方が非常に味わい深くて好感を持っている。

その難解な作品を理解しようと努め、インターネットで検索して他人の解釈を閲覧したり、また映像作品ばかりでなく夜会の本まで読んだりして、夜会研究に勤しむ日々を送っていたのだが、ふとどこかで、中島みゆきの夜会は「能」について理解するとわかりやすくなるという記事を発見した。なるほど、確かに中島みゆきの夜会には、実際に能楽師を出演させて詩を朗読させたりしているし、彼女自身も能に興味を持ち、また能に造詣が深い様子である。能についてまったく明るくなかったぼくは、この機会に、中島みゆきの夜会を理解するために、能の本を読んでみようと思いたった訳である。

しかし、そう思って読み始めた異界を旅する能 ワキという存在 ではあるが、その中には中島みゆきを理解するという目的をはるかに超えて、能に絡めた日本民族の精神構造の洞察、そして日本民族によって現代まで引き継がれてきた、能の驚くべき特性を目の当たりにすることになったのである。

 

 

・ワキとシテの存在

能の登場人物は主に2人であり、それぞれに「ワキ」「シテ」という役割があるという。そのワキとシテの2人を中心として、能の物語は展開されていくのだが、能の物語にもおおよその決まったパターンがあるようだ。

◯ワキ…放浪の旅人。無力で空洞的な世を捨てた存在。劇中ではあまり動かない。
●シテ…異界の者。何か解決してほしい悩み事を抱えている。劇中ではよく動く。

このような2人が、旅先でふと邂逅する。

 

・無力な旅人と異界の者との邂逅

この2人が出会う前には、雨が降るなどのささやかな自然現象が起こるらしい。その自然現象を境界線として、流浪の旅人としてのワキは、悩み事を抱えている幽霊などの異界の者としてのシテに出会う。2人の邂逅の場はもはやこの世ではなく、時間の巡行と逆行が混合する異界における出来事である。ワキは、異界に迷い込んでしまったのだ。無力な存在としてのワキは、積極的にではなくシテに問いかけるなどの消極的な形として、シテの悩み事を解決するに至る。その後シテは去り、ワキは異界からこの世へと戻ってくる。

以上が能の物語の典型パターンであるとされる。

 

・異界への通路

では、異界へ迷い込むためには、ただ旅に出ればいいのだろうか。ただ旅に出さえすれば、誰もが皆、能のワキのように異界へと迷い込み、異界の者とめぐり合うことができるのだろうか。答えはである。異界に迷い込むにも、ある一定の条件が必要なのだ。

まずこの旅が、観光旅行のような気軽な旅行であってはいけない。なにもかもをあきらめ、世を捨て、人を捨てた、放浪の旅人でなくてはならないというのだ。またこの旅立ちの理由も重要な要素であるとされる。旅立ちの理由としては2つあり、ひとつは普通に生活を営んでいたが、ふとした拍子になにもかもを失い、この世では生きていかれなくなったもの。もうひとつは、出生の時点で運命として、この人生では幸せになれないと決められたものであるという。いずれにしても、旅立ちの時点でそれは決して幸福な旅立ちではなく、先の未来にまったく希望の見えないものでなくてはならないのだろう。もはやこの人生なんてどうにでもなってしまえという潔い気構えと、自分の人生は自分の力ではどうにもならないという運命に対するあきらめの無力感、そしてその次に訪れる仏教で言うところの他力の感覚も、ワキは備えている。そのようにすべてを捨て去り、なにも持たずに、けれど心の中ではなにかを求めずにはいられないワキの、精神の真空の空洞に引き込まれるようにして、異界が注ぎ込み入り込み、ワキの存在と異界の場は呼応し合う。それがワキとシテとの邂逅に繋がるというのだ。

 

 

・世界はこの世だけではないという救い

では上記のような物語を見て、観客はいったい何を感じているからこそ、能という日本の伝統芸能は脈々と現代まで引き継がれているのだろうか。それは観客が、この世ではない別の世界を感じるという中に救いを見出すからであるという。この世は、苦しくつらい。それはお釈迦様の時代から言われ続けているこの世の真理である。もしも世界が、この世しかないのだと告げられたならば、人々は心の逃げ場を喪失して、この世で苦しみに飲まれたまま立ち尽くしてしまうだろう。そして、生きることを自らの手でやめる人もあるかもしれない。

しかし能は問いただす。本当にこの世しかないのですか、と。

能はぼくたちに、異界の存在を見せつけてくれているのだ。そしてそれは、なにもかもを失い、あきらめたときにこそ、ぼくたちの前に現れ出るという。

この世がすべてではないのだ。この世のちょっとばかり隣に、それこそ雨が降るというほどのささやかな自然現象を簾として、別の世界は確かに存在しているのである。“この世が嫌になれば逃げてしまえばいい。少しばかりズレた別の線路の異界へと”。そのような心の中のささやかな確認が、どれほどこの国の人間の精神を救い、癒してきたことだろう。そしてそれにより、どれほどのあきらめてしまった人間たちが生きることを思い直したのだろう。

ぼくたち人間には、この世しか見えない。この瞳はこの世しか映し出さないからだ。この世しかないと思い込む人間たちは、追い詰められる。息ができなくなる。そして自らの命を葬り去ることもある。けれどもしも、この世以外の世界を映し出す、この肉体の物質的な瞳ではない、もうひとつの瞳を、心の中に持つことができたなら、あるいはその命をつなぎとめられるかもしれない。

ぼくはなにもかもを失って旅に出たかった。それは言葉を超えた、理由を超えた、論理を超えた炎である。その炎は、生まれた頃からすでに備わっていたのかもしれない。ぼくは能のワキなのだ。運命的に、幸福をはるか遠ざけて生きることを望んでいる。“貧しくなりたい、愚かになりたい、すべてを手放したい”。それと逆行するように生きれば生きるほどに、ぼくの命にとってのその根源的な願いは、さらに熱さを増していった。

なにもかもをなくした、魂の放浪者になろう。そのように心から願い、また運命も、ぼくに対して、そのように自ずから仕組まれていたのだ。

 

 

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