秘湯って本当にあったんだ!大分県別府の「鶴の湯」に感動した

 

秘湯って本当にあったんだ!

秘湯って本当にあったんだ!大分県別府の「鶴の湯」に感動した

・湯布院で教えてもらった秘湯
・人生で初めての秘湯「鶴の湯」に感動
・入湯税の不思議
・「鶴の湯」での人々との会話
・全裸で大自然と対峙するという神聖

・湯布院で教えてもらった秘湯

九州一周の旅で大分県の湯布院にたどり着き、そこの「下ん湯」で一緒になったおじちゃんに別府のオススメの温泉「鶴の湯」を教えてもらったので、次の日に行ってみることにした。なんとそこは温泉に入るために料金を支払う必要もなく、囲いもなく外にそのまま野生の温泉として存在しているということだった。いわゆる「秘湯」と言われるような温泉だろうか。そんなところに行ったことがなかったし、そんなところがまだ日本に残っていることも知らなかったので期待しながら「鶴の湯」へと向かった。

 

 

・人生で初めての秘湯「鶴の湯」に感動

 

別府の「鶴の湯」は本当によくわからないところにあった。一応グーグルマップで検索しても出てくるが、正確な場所をきちんと教えてくれるわけではない。グーグルマップに従ってたどり着くと、なんとそこは広大な墓地だった。この日はお盆だったので、墓参りに訪れる人も多く墓地は賑わっていた。湯布院のおじちゃんとその辺にいた人に聞いた情報を頼りに、広大な墓地を左手にどんどんと坂道を登って行き、その坂の頂上にまでたどり着くと、その先には細い獣道があった。そこになんと突如として川のように流れ出している露天風呂が出現した。それが「鶴の湯」だった。

 

そこには温泉としての仕切りも屋根も存在せず、ただ温泉が野生の温泉のままで野ざらしに存在していた。そしてそこには3人の地元の男性たちが入浴していた。挨拶をしてぼくも温泉に入ってみる。ぬる目のお湯が好きなぼくにはやや熱めのお湯で、夏の日中なのでより一層熱く感じた。ずっと全身で浸かっていると熱くて我慢できないので、足だけを浸して温泉を楽しんだ。きっと秋とか冬ならば丁度よく気持ちいい温度だろう。

扉も何もない脱衣所だけが温泉のそばに建てられており、その他は本当に大自然そのままの景色が広がっている。こういう“秘湯”と呼ばれる場所を訪れたのは人生で初めてだった。料金を取られることもなく、囲いがあるわけでもなく、温泉が自然なままの純粋な温泉の姿としてそこに存在していることが感動的だった。太古の昔の時代には、温泉というものはこのような姿をしていたのだろう。日本人は温泉が大好きで、温泉街も宿も大勢の人々で賑わっているが、このように川に入ったり海に入ったりする感覚で、温泉に入れるなんてとても珍しい経験だった。日本にはまだまだ、このような大自然の中の野ざらしの温泉が点在しているのだろうか。

 

 

・入湯税の不思議

料金を支払って入る温泉ならば必ず入湯税を払わなければならず、そこには国家や地方という強力な権力との繋がりを感じさせられて疲弊する。どうして温泉に入るという純粋な行動をするするだけで、国家という権力は民衆から金を巻き上げようとするのだろうか。ちょっと考えてみても全くよくわからない。温泉に入るという純粋で神聖な行動が、いつも権力という温床へと繋がって民衆の少ない富を吸い取る結果になるという仕組みはどう考えても不可解だ。

しかしこの「鶴の湯」のような無料の大自然の中の「秘湯」へ入れば、中央の権力との繋がりを当然のようにふり祓い断ち切ることができ、人間が人間として、生命としての純粋な入浴という行動が果たされる思いがする。

 

・「鶴の湯」での人々との会話

「鶴の湯」に入っていた3人の男性には色々な人がいた。刺青のたくさん入ったおじちゃんもいたし、旅の途中で別府に立ち寄ってそのまま気に入って居ついてしまったというおじちゃんもいて面白かった。別府にはこのように年をとってから移住してくる人も多いのだという。

普段では喋らない種類の人々と分け隔てなくお話できるのも温泉の旅の醍醐味である。刺青がいっぱい入ったおじちゃんとなんて普段街中で生きている際には話す機会もないだろうが、秘湯という空間の中で一緒になってとても愛想よく色々なことを教えてくれたので楽しかった。

地元の人々と話せるという点でも温泉は面白い。この「鶴の湯」の存在も湯布院の地元の人に教えてもらったからそこたどり着けたのだが、ここ「鶴の湯」でももう一つの別府の秘湯の存在を教えてもらった。それは「へびん湯」というところでここは「鶴の湯」よりもさらに秘境にあり、本当に大自然に囲まれながら野生のありのままの姿で温泉に入浴できるのだと言う。秘湯の魅力にとりつかれたぼくは、「へびん湯」にも訪れてみることを決めた。

 

 

・全裸で大自然と対峙するという神聖

ぼくが驚きだったのは、人間は外で全裸になることをゆるされるという事実だった。普通に考えればそんなことゆるされるはずがない。普通は自分の部屋や家の外で全裸になったなら、何らかの法律に引っかかり周囲の人に通報され警察に逮捕されるだろう。ここには仕切りもなく囲いもない。誰だって訪れることができる公共の場所だ。にもかかわらず、ここでは人々が全裸になって自然と対峙することを当然のようにゆるされており、外で裸になっても誰も責める人などいない。逆に外で全裸であることを責める人がいるならば、その人の方が異常であると見なされそうになる不思議な空間である。

法律というものは曖昧なものだと感じた。こんなにも男性たちが公共の場所で全裸になって寛いでいるのに、それが露出という罪に問われることもなく、むしろそれがふさわしい姿であるとして微笑ましく映ることも、また人間という営みの不思議だろう。法律がいくら罪だと叫ぼうとも、人間の心がそれを異常だと笑い飛ばしてしまうこともある。逆に人間がいくら罪だと嘆き悲しもうとも、法律では人の心を守りきれないこともある。法律という人間たちの決まりごとなんて、脆いものなのかもしれない。

法律ではゆるされるはずもない、大自然の中で全裸になるという行動を通してしか、ぼくたちには感じられない感性がたしかにある。それはまるで、太古の昔、人間が自分を人間だと認識するよりもずっと昔、まだ野生の感性を持ち合わせ動物のように生きられた時代には、ご先祖様はこのようにして大自然の中、川や海に入るように野生の温泉へと入り、何も着ないという神聖な姿で大自然と向き合い、そして自分の体の穢れを温泉で洗い落としていたのかもしれなかった。損得や利害という経済と関わることもなく、中央の権力と交わることもなく、自分が自分という絶対的な存在として大自然に帰ることができた尊い感覚を、秘湯はぼくたちに今でもなおもたらしてくれるのかもしれない。

 

 

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