最後にぼくが行ったのは、鳩間島という小さな可愛い島だった。
波照間島でのあまりに美しい日々を終えて、琉球諸島をめぐる旅も終盤にさしかかっていた。
重き荷を背負った魂たちがたどり着く!琉球諸島をめぐる旅・最後の島は鳩間島
・鳩間島を歩いて一周しよう
・なにもない優しさ
・どこからでも見える西表
・海辺の木陰
・旅人の出会い
・鳩間島を歩いて一周しよう
鳩間島は歩いて1時間で一周できるという、これまでの離島に比べても格段の小ささだ。
民宿で、鳩間島の地図をもらうことができた。
・なにもない優しさ
波照間島に長くいたせいで、鳩間島には一泊しかすることができなかったが、それでも限られた時間の中で、この島の素朴な空気を可能な限り楽しんだ。
一周してもひどく驚いたり、心揺さぶられるものもなく、ただ静かにのんびりと時が過ぎて行った。そのように人の心を驚かせないことが、この島の優しさなのだと感じた。
・どこからでも見える西表
黒島、波照間島からも西表島の姿を、海の彼方に望むことができたが、この島も例外ではなく、目の前に大きく西表島がそびえ立っていた。
このように孤立した小さな離島であっても、海の向こう側に別の島が見えるならば、少しばかりはさみしい心も晴れるのではないかと静かに感じ、そのような思いを言葉でなぞった。
人は誰もが孤独だが、孤独になるのは瞳が開かれず、他の誰もが孤独であることを知らないからだ。もしも人間は誰もが、孤独であることを知ったならば、孤独であることそのものが、孤独であることを抜け出すことをゆるすだろう。そのように孤独であることと、それゆえに孤独でないことの境界線上で引き裂かれそうに生きながら、旅を続けるのは人間の定めである。
同時にぼくは、大パリニッバーナ経またの名を大般涅槃経の一節を思い出していた。
“この世で
自らを島とし
自らをたよりとして
他人を頼りとせず
法を島とし
法をよりどころとして
他のものをよりどころとせずにあれ”
島とは、灯火と訳することもでき、また法とは真理、ダルマのことであるとされる。
・海辺の木陰
鳩間島と西表島の間の海を泳いだ。色とりどりの豊富な種類の魚たちを見ることができた。この旅の中で、いちばんカラフルで見応えのある海の景色だったように思う。
泳ぐのに疲れると、浜辺のガジュマルの木陰で休憩した。浜辺に木陰があるというのは、海を見ながらゆっくり過ごすという観点から非常に重要なポイントである。
この屋良浜は、鳩間島の代表的な浜辺であるにも関わらず、まったく人が来ず、いつまでもいつまでも、ひとりで静かに心安らかに過ごすことができた。
泳いでいるうちに夕暮れ時となった。暗くなる前に、民宿へと戻った。
・旅人の出会い
民宿では、ひとりで来ているおじさんとゆんたくしながらふたりでご飯を食べた。おじさんは何度か鳩間島に訪れているといい「鳩間島に来るのは旅の玄人だ」と語っていた。たしかに素人ならまず選びそうにない気配は漂っている島である。
おじさんは起業したことや、そのときにつらかったこと、芸術の勉強のために2年間イタリアで住んだことなどを語ってくれた。普段なら関わり合いになることが難しいであろう人々の、さまざまな人生の話を聞くことができるのは、多くある旅の素晴らしさのひとつであると言えよう。
誰もがそれぞれ自分自身の人生を生きている。そして誰もが誰にも見えない重き荷を負いながら生きているのだ。重き荷は、他人の目には触れないからこそ、重い。苦しみは、誰にもわかってもらえないから、苦しいのだ。誰かの目に簡単に触れられるものならば、重くなんてなりようがない。他人に軽々しく理解される荷物ならば、苦しいなんて嘆くはずがない。重き荷など、負っているはずがないと、明るい顔をして生きていくしかなく、苦しみなど知りはしないと、軽い人生を生きているようなフリをして、ふるまう他はなく。
重いことや、苦しいことは、生きていくにしたがって、やがてそれは、たとえようのない“さみしさ”に変わる。必死に生きるあまりに、重き荷を背負って生きていたことを忘れて、必死に進むあまりに、苦しみに押しつぶされていたことも忘れて、やがてそれは、透明な透明な、さみしさになる。どうしてさみしいのだろう。擦り切れてしまった心はわからなくなる。どうして泣いているのだろう。忘れ果ててしまった心は戸惑う。
どうしてさみしいのかわからなくなってしまった魂たちよ。
どうして孤独なのか忘れてしまった心たちよ。
ただ時間の中を生きていくことを優先して、命の中を生きることを置き去りにした者たちが、地図をなくして彷徨ってしまう。
その道標は、“感じる”ことだった。どんなに重き荷でも、どんなに苦しくても、心の扉を閉ざすことをせずに、開け放したまま、そのままで、感じることをおそれずに、置き去りにせずに、生きられたならば。
そのようにして闘い抜いた者たちが、身も心もたずさえて、旅先でふと出会う。関係のなかった命たちが、関わり合いにさえならなかった人生たちが、なぜか小さな小さな離島を交点として、めぐり合う。
出会わなくても、生きていくことはできるだろう。出会ったからとて、苦しみは消えないだろう。重き荷は置けないだろう。それでも出会ったことで気がつく。すべてを失くして旅立つからこそ、出会ったのだと。
人は、なぜ出会うのだろうか。出会うべきだから出会うのだろうか。出会わなくてもよいのに出会うのだろうか。人は出会えば、必ず別れる。どんなに誓いを交わしても、強く結ばれていると信じていても、誰にも訪れるたかが死という簡単な出来事によって、人は必ずこの世で引き離されるのだ。それでも出会ったあとに訪れる世界は、出会わなかったときに訪れる世界と、すこしだけ、ほんの少しでしかないけれど、ズレている。それはまるで、今までを走っていた線路が、ふと、となりの線路へと切り替わってしまうような…。
旅の終わりをさみしいと思ったことはない。終わればまた始まるのだ。終わるからこそまた始まり、始まるからこそ終わりさえ必然である。始まりと終わりは同じであり、始まりと終わりは輪を描き、さらなる人生の旅路へと続いていく。