水と陸が混じり合う街!アムステルダムで美しくないことをおそれないで

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ロシア極東の街・ウラジオストクからついにここまでやってきました!

水と陸が混じり合う街!アムステルダムで美しくないことをおそれないで

・アムステルダムは旅の終わる街
・アムステルダムの水と陸の交錯
・美しくないことをおそれないで
・今日のアムステルダムの写真

・アムステルダムは旅の終わる街

ベルギーのブリュッセルを去り、バスに乗って約3時間!この旅の最終目的地、オランダのアムステルダムまでやって来ました!世界一周の旅を中断することについては1週間ほど前にこのブログでお知らせしました。

世界一周中断のおしらせ〜旅には2つがある

ぼくはこのアムステルダムで、ミズイロノタビ・シベリア鉄道編の旅を終了します。今回の旅はロシアの極東の街・ウラジオストクから始まりました。そこからシベリア鉄道に乗って7日間かけてモスクワにまで到着し、そこから北極圏へと突入。フィンランドに陸路で入り、フィンランドの北極圏の街・ロヴァニエミではサンタクロースに出会ったり、オーロラを見たりして過ごしました。そこからどんどん南下、バルト三国、チェコ、ポーランド、ハンガリー、オーストリア、スイス、フランスのアルザス地方を通過して、ベルギー、オランダと旅を継いできました。

驚くべきことは、ロシアの日本に極近い東アジアの街・ウラジオストクからこのオランダのアムステルダムまで、1回も飛行機に乗らなかったということです。ウラジオストクからすべて、電車、バス、フェリーを乗り継いでここまでたどり着きました。考えてみればすごいことだなと思います。

ぼくはユーラシア大陸なんて、計り知れないほどに巨大な大地だと思っていました。それは東北アジアの小さな島国に生まれついたゆえの、大陸に関する実感の乏しさが理由であるかもしれません。ヨーロッパに行くのだって飛行機で10時間以上かかるのが通常だし、やっぱり大陸は“大”陸と言われるだけあって大きいものなのだと、常々感じながら生きて来ました。

しかし、この“大陸”というものを、電車とバスで横断できると知った今、もはやぼくの中で大陸はただの“小さな島”のように感じられてなりません。ユーラシア大陸って、広大なフリした小さな島国で、そこにいろんな種類の人間や言葉や文化が共存していたのだなぁという感触です。感覚的には、日本の中にも関東人とか関西人とかいろんな人がいていろんな喋り方があって、それがユーラシア大陸という場所でも起きていただけのことだっただなぁという感じです。

だって考えてみたらすごくないですか?電車とかバスって、普段ぼくたちが日本で和歌山から大阪に行ったり、大阪から京都に行くときにごく気軽に使用する乗り物です。そんな気軽な乗り物で、ユーラシア大陸が横断できちゃうなんて、やっぱりユーラシア大陸さえ気軽で身近な存在にならざるを得ません。

そしてそれはぼくの中で“世界”さえも小さく縮小してしまったことを意味します。これは世界一周の旅をする中で、今後重要な観念になっていくことでしょう。そして物理的な面積さえ小さく感じてしまったとしても、その中にある大自然や、人間や、文化に関する深さに関してはとてつもなく計り知ることができないだろうという予感もしています。

ぼくたちは常に、世界と、世の中と、自然と、人間に対する尊重と畏怖の念を持ちならがら、慈しみの心を持ってこれからも世界に対峙していかなればならないし、実際にそうしようと深く感じる次第です。

 

 

・アムステルダムの水と陸の交錯

アムステルダムに到着したとき、すぐに自分自身がこの街が好きなことがわかりました。こういうものは回って見てみる前から、なんとなく動物的な直感でわかってしまうものです。ぼくはこのアムステルダムの街は、近郊の街へ小旅行したりしないで、このアムステルダムを深めていく旅が、自分にとって適切であることも理解されました。

アムステルダムの第一印象はまさに「デザイン」の街だということ。バスステーションのすぐ近くにある鉄道駅のホームでも、直線的で整然とデザインされた赤と青を基調とした風景が可愛らしく、まさに“おもちゃの街”という印象でした。そしてその印象は、これからアムステルダムを散策する上でも決して消えることのないものでした。街の細部にこだわりのある“デザイン”が随所に施されていて、訪れる人々をささやかに楽しませてくれます。

ぼくは鉄道に乗り、宿泊する宿の最寄り駅であるアムステルダム中央駅まで到着しました。するとそこに不思議な風景が広がっていました。アムステルダム中央駅の裏側には大きな運河があり、そこを船が頻繁に人を運び行き来しています。水の揺れと人間の生きる陸地が共存している街。彼岸と此岸がきわめて近く、容易く渡れる街。

ここアムステルダムは水と陸の街でした。しかも他のどの街よりも、その比率がきわめて近いように感じます。通常ならば陸の方が圧倒的に存在感を示す人間の街並みですが、ここでは水も陸も、同じくらいの比率で人間の生活に迫っています。今ここが水なのか陸なのか、わからなくなります。此岸なのか彼岸なのか、区別もなくなります。水と陸の織りなす人間の生活の深さの香りこそ、ぼくがこのアムステルダムを直感で好きだと感じ取った原因なのでしょうか。

ぼくの宿はアムステルダム中央駅の対岸にあります。人々は自由にフェリーで対岸へと渡っていきます。このフェリーはなんと無料なのです。人々の生活と水がいかに身近であるかを自然と感じさせられます。ぼくも気軽にフェリーに乗り込み、およそ5分ほどの船旅を終えて彼岸へとたどり着きました。たった5分であろうとも、船旅というものは冒険感を全面に押し出して来て心が高揚するものです。

ぼくの宿はフェリーの港からすぐの場所にあり、スムーズにたどり着くことができました。これからアムステルダムの冒険が始まります。

 

 

・美しくないことをおそれないで

オランダやアムステルダムといえば、皆さん何を連想させるでしょうか。風車やチューリップや木靴でしょうか。もしかしたらマリファナや性風俗が思い浮かぶ人もいるかもしれません。そんな美しく可愛い部分や、人間の率直な快楽や動物的な欲望が交錯して、この街は深みを増してゆくと言えるでしょう。この街ではそのようなもののすべてを、とても自然に見かけることができます。

今日のぼくの写真のテーマは「美しくないことをおそれないこと」でした。正確で美しいものを目の前に並べて喜ぶよりも、いびつなことや、不整や、偶然による醜さの侵入を退けずに、ありのままの街の姿を映し出して、正直に世界に対峙しようと思ったのです。

写真撮影の際にこのような気持ちにさせられたのは久しぶりでした。いつも美しい構図で、麗しい風景を、誰かに伝えるためにもしくは残すために、シャッターを切っていました。人が写り込んで美しくない場合には、彼らが退くまで待って、構図を失敗したと感じた時には、何回も撮り直して。そんな風にして綺麗で美しい写真ばかりを集めては、眺めていました。

けれどふと、懐かしい気分になったのです。美しさなど気にせずに、世界をそのまま純粋に切り取ろうと思っていた昔の自分を、今の自分の中に発見したのです。たとえそれで荒削りな絵に仕上がったとしても、その時に撮影した時の空気や気温を決して忘れはしない、そんな写真がどこかの時代に、あったことを思い出したのです。

美しいものだけを並べる人生なんて、悲しいものなのかもしれません。生きることにやり直しはきかない。粗いものは粗いままで、無様なものは無様なままで、あがいた過去はあがいたままで、世界と対面して進んでいくしかないのです。

人目も気にせず世界とだけ戯れていた光の中の日々を、少しだけ思い出した気がします。それがなぜ、このアムステルダムの街だったのかわかりません。理由は見当たりません、訳もわかりません。けれどこれだけは言えるのです。そのような気持ちを思い出させてくれる何かが、この街にはあると。

 

 

・今日のアムステルダムの写真

 

 

 

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