人間というものは、残酷な生き物であるらしい。
オンライン予約なし!ガイドなし!人類の負の遺産アウシュビッツに行ってきた
・アウシュビッツに行くか行くまいか
・始発のアウシュビッツ行きのバスは超満員!
・人間は人間の残酷さを見たがる
・荷物制限は30×20×10センチメートル
・アウシュビッツの入場料はなんと無料!
・あらゆる手段で残酷さは示される
・人間のうちでドイツだけが残酷だろうか?
・忘却と空腹
目次
・アウシュビッツに行くか行くまいか
クラクフにいた時、ぼくは迷っていた。アウシュビッツ強制収容所に行くべきか行かなくてもいいかを考えていたのだ。クラクフは3泊の滞在だったので、そんなに多くの時間があるわけでもない。人間が徹底的に残酷になれるということを、わざわざ自分自身で見に行かなければらないのかということを思案していた。
人間がいくらでも残酷になれるという事実なんて、わざわざアウシュビッツに行かなくても、日常生活で周囲の人間たちを観察していればわかることである。偽ったり、裏切ったり、傷つけあったりすることは人間の常であり、そのような残酷さは子供だけではなく、大人になってもどれだけ年老いても保ち続けられており、すべての人間の本性である。
人間というものは生命を宿している限り常に思想を傾けており、それが集団化すると極めて残酷になれるということは、歴史を紐解けばいくらでも知ることができるだろう。そのような悲しみを目の当たりにするために、わざわざバス代を払って見に行く価値があるのだろうか。
よくわからないまま別に行かなくてもいいかなと思っていると、ドイツに1年間留学していてその間にアウシュビッツにも行ったことのある大学時代の友達のなみこが、絶対いた方がいいよ、とても考えさせられるよとメッセージをくれたので、そういうものだろうか、それじゃあ早起きできたら行ってみようと計画していた。
・始発のアウシュビッツ行きのバスは超満員!
アウシュビッツは可能ならばオンラインで予約して行った方がいいらしい。しかしぼくが行くと決めたのは前日の夜であり、ホームページを見ても、もはや次の日の予約は締め切られできない状態だった。インターネット上の情報によると予約なしだとものすごく並ぶし、最悪入れないこともあるらしい。どうしよう。
ぼくはせっかく行ったのに中に入れないという状況を避けるために、クラクフからアウシュビッツまでの始発のバスに乗ることに決めた。始発のバスは朝の6時20分!早い!しかし背に腹は変えられないといった感じで、かなり早起きしてクラクフのバスステーションへと向かった。
こんなに早い時刻なのだから、誰もバスに乗っていないだろうと思いきや、なんとバスは満員で、全員座ることができずに立っている人も大勢いた。ぼくもちょっと迷ってバスステーションに行くのが遅くなってしまったために、バスの中で立つことになってしまった!
正直これはかなりの苦痛を強いられた。早朝6時20分のバスに乗るために、ものすごく早起きしたのだから、アウシュビッツに到着するまでの間の1時間30分は、ゆっくり眠ろうという算段だったのだ。しかしまさかの立ち!バスステーションまでちょっと迷ったので時間ギリギリになり走ったこともあり、もはや眠いし疲れたし、早朝から体力の限界である。早朝のバスの中で1時間30分立ちっぱなしというのは、想像よりもつらいものがあった。
もしぼくのようにオンライン予約が取れなくて、早めにバスでアウシュビッツまで向かおうとする人がいるならば、早め早めに行動することをおすすめする。早朝のバスの座席を確保できるかできないかで、その日のQuality of lifeが格段に変わってくるというのは、経験者であるぼくからの情報である。
・人間は人間の残酷さを見たがる
しかしみんなこんな朝早くから出発してくるなんて本当に意外だった!そしてこんなにアウシュビッツが早朝から混雑するほど人気であるというのも予想ができなかった。
アウシュビッツというのは、ドイツ・ナチスによるホロコーストを示す負の世界遺産だ。そのような負の遺産に早朝からこんなに行きたがる人々が多いことに驚きを隠しきれない。これがディズニーランド行きや動物園行きのバスならばまだ話はわかる。みんな楽しみで早く行きたくて仕方がなくて、なるべく楽しい空間に長時間いたくて、早起きを頑張って始発のバスに乗り込むという行為は普通である。
しかしこれはアウシュビッツ行きのバスなのだ。行く先には楽しみも喜びも何もない、人間の残酷さや卑劣さや悲しい本性と向き合う時間が用意されているバスだ。人間というものは、人間の残酷さ見たさにこんなにも早起きを頑張れるものなのだろうかと、とても不思議に思った。何が彼らのモチベーションなのだろう。もしかしてぼくのように、オンライン予約できなかった人々だろうか。それとも早朝のチケットをオンライン予約した人々だろうか。
ぼくの中でははてなマークが頭の中に浮かびまくっていたが、そんなことを考える余裕もないくらい、バスの中で眠くて疲労して、早くアウシュビッツに到着してほしいと切に願っていた。まだアウシュビッツの入り口にもたどり着いていないのに、こんなに疲労していて大丈夫だろうか。
・荷物制限は30×20×10センチメートル
1時間30分立ちっぱなしで、やっとの思いでアウシュビッツに到着した。始発で来たのだから、きっとオンライン予約なしでも入れるだろう。心の中でそう願って止まなかった。10時に開園だが、既に入り口にはかなりの人だかりが!
ぼくたちはこれから人間の悲しい本質に向き合う運命にある人々だ。そのような目的のために極めて早起きをするなんてなんて真面目で健気なのだろうと、自分のことさえも含め感心してしまった。
入場に際して荷物検査があり、30×20×10センチメートルの荷物しか持ち込めないというなんともめんどくさい掟がある。ぼくは自分の荷物の大きさなんて知らなかったので、そのまま入ろうとしたらしっかり係の人に止められてしまった。入り口の向かいの手荷物預かり所で荷物を預けろとのことである。
大人しく預けに行くと、預け料として4PLNを取られてしまった。有料なので、大きい荷物はあらかじめ持ってこないようにするのも手かもしれない。
・アウシュビッツの入場料はなんと無料!
さて肝心の入場であるが、さすが始発で来ただけあってそんなに並ぶことなくスムーズに入場することができた。そもそも入場できるのか不安だったが、簡単に入場できた。オンライン予約し損なったけれどアウシュビッツに入場したい方は、頑張って早起きして始発のバスで来ると簡単に入ることができたことを参考にしていただければと思う。
アウシュビッツの入場料はなんと無料だった!ガイドをつければ料金が発生するが、その日は日本人ガイドも不在で、気ままに回りたい気分でもあったので、ガイドを雇わずに無料で入ることにした。
ガイドなしでも、施設の中には随所に説明の看板が立てられており、その英語の文章を読めばそこがどのような施設か、どのような歴史を持つ場所かを知ることが可能だった。しかしガイドがいれば、もっと詳しいためになる説明も聞けたのかもしれない。
・あらゆる手段で残酷さは示される
アウシュビッツの施設は入場する際には誰もがワクワクするような朗らかな顔立ちをしていたが、その施設を出て行く頃には皆どんよりと暗い顔をしていたのが印象的だった。しかし、ここを訪れる誰もが、ここを去る際にはそのように悲しい気持ちになることをある程度は予想し、覚悟していたに違いない。
アウシュビッツは広大な敷地内に、いくつかの建物が点在しており、その中がそれぞれ博物館になっていたり展示場になっていたりする。その中には犠牲になった人々の眼鏡や鞄などの物品が堆く積まれており、犠牲や死の量を物質の多さで見る者に感じさせようとしている。犠牲になった人々の性質が看板で図を用いて描かれていたり、犠牲になった人々の写真が横に果てしなく並べられており、その面積の広さでも犠牲になった人々の多さを示そうとしている。
この場所で犠牲者が殺されたという場所には花が添えられている。犠牲者が最後に生活していた部屋やトイレもそのままに見ることができ生々しい。ここで殺されたという場所には、そういう場所なので静粛にしてくださいと看板で説明されていた。冬という季節に訪れると、犠牲者の人々がこのような極寒の地で人間らしからぬ生活を強いられていたのかと、肌で感じる取ることができる。
ぼくもその他人々と同じように暗い気持ちになり、お腹も気持ち悪くなり、もうお昼ご飯も食べられないかもと思っていた。アウシュビッツは2箇所あるらしいが、ぼくはもう1箇所で十分だと思い、そのままクラクフに帰った。
・人間のうちでドイツだけが残酷だろうか?
アウシュビッツでは誰もが予想していた通り、人間がここまで残酷になれるのかという歴史が示されていた。それは被害に遭った人々を気の毒に思う気持ちと同時に、当然のように被害を与えたナチス・ドイツを責める役割をも果たしている気がした。この施設は残酷な歴史を告げる場所であると同時に、ナチス・ドイツの罪を知らしめる場所でもあるのだ。
ぼくはこのことに少しの違和感を覚えた。人間が残酷であるということは、何もこの出来事だけには限らないことだろう。その他にも人類の歴史の中には、さまざまな残酷な歴史が繰り返されてきたに違いない。それらの罪はすべてこのアウシュビッツのように、わざわざ施設を作り、世界遺産になり、人間たちに見せつけられているのだろうか。
人間の歴史上の残酷さの罪が、堂々と見せつけられる場合とさほど見せつけられない場合とでは、何が異なっているのだろうか。
それはおそらく、戦争に勝ったか負けたかで区別されている場合もあるのではないだろうか。ドイツという国は、戦争に負けたことからこのように大罪を見せつけられているが、もしも戦争に負けていなくてもこのようにその残酷さを見せつけられたのだろうか。逆に戦勝国の中にも、同様に残酷な仕打ちをしてきたが、勝ったことにより隠され、目立たなくされ、このように見せつけられていないという場合も多いのではないか。
見せつけられている歴史がすべてではない。歴史というものは正しい物語ではなく、勝った者が都合いいように書き換えられた、偽物の主観的な物語であることが多い。それゆえに勝った者たちが隠し、見せなくし、なかったことにされている人間の残酷ささえ、実際にはもっと多いのではないか。
ぼくはこの施設を見て感じることは、“ドイツが”残酷だったということではない気がする。そうではなくて、小賢しく隠されている、暴力や武力という観点から勝利した者たちの大罪すらも脳内で連想させ、“人間が”残酷であった過去と、残酷になり得る未来に思い馳せるべきではないか。
・忘却と空腹
アウシュビッツではお腹が気持ち悪くなって、もう昼食を食べられないと思っていたぼくだったが、クラクフに到着した頃には既に空腹になっており、クラクフにあった台湾ラーメン屋さんで普通に昼食を食べた。
このように人間というものは、感じた残酷さすらもすぐに忘れ去ってしまうものであり、その性質を人間が持ち合わせている以上、残酷さが終わることはないのだと小さく思った。