5年前・2度目のプラハ訪問でわかったことがある。プラハは早朝が最も美しい。
世界一美しい街!プラハは早朝が最も美しい
・やうやう銀色になりゆく東の街並
・プラハはつとめて
・プラハの街に似合う服
・「千塔の都」
・人のいない静寂と神聖
・詩的な光
・川のほとり
・カレル橋からの旅立ち
・自作詩「カレル橋」
・やうやう銀色になりゆく東の街並
“プラハは早朝。やうやう銀色になりゆく東の街並、少し明かりて、千塔の都が影のやうに立ち上るさまいとあはれなり。人の少なきは言ふべきにあらず。いにしへの石橋に浮かぶ月の、聖者に近う寄り添うもいとつきづきし。日ののぼりて、西に照らされたる城の現れ出るさまいとをかし。”
・プラハはつとめて
上記はぼくがtwitterに投稿した、プラハは早朝が最も美しいということを清少納言の枕草子になぞらえて伝えたツイートである。
「プラハはつとめて」とした方が古文の枕草子らしいが、なんだか最初の文章だけは伝わりやすい方がいい気がしたので現代的に「早朝」とした。そしてプラハは早朝が最も美しいということは、今回の3回目にプラハを訪れた際もひしひしと感じたぼくの中の真実だった。
・プラハの街に似合う服
それぞれ人には似合う服の形や色があるように、街にも似合う色彩というものがあるように思う。
プラハは人の多い街だ。特にカレル橋の上やその周辺では観光客がひしめき合っており、人の絶えることはまずない。今回は年末のホリデイシーズンだったこともあってか、韓国・中国・日本人の人々もきわめて多かった。特に韓国人が多かったという感想を持ったがなぜだろう。韓国で中欧が流行っているのだろうか。この人がごった返している状況が、東京や大阪などなら、ああ人が多くてごちゃごちゃしているもの似合うなぁと感じるものだが、ぼくはどうしても人の多いプラハは、似合っていない服を着ている人を見るような眼差しを投げかけてしまう。どうしてもこの美しい街には、人のまばらな静寂の姿が似合うように思うのだ。
そのような人の少ないプラハの姿を見ることが可能なのが、早朝である。
・「千塔の都」
早朝のプラハは美しかった。それはぼくが2度目の訪問で最も強く感じた感想だ。2度目のプラハではカレル橋のすぐそばにホテルを取っていたので、早朝のカレル橋に行きやすかった。そして早朝のプラハの美しさに見とれてしまった。
カレル橋はヴルタヴァ川を東から西をまたぐようにして架けられており、西側には大いなるプラハ城とオレンジ色の屋根の美しい街並が、東側には無数の塔が見受けられる。プラハは「千塔の都」とも呼ばれているのだ。朝には東側に日が昇るので、その無数の塔が朝日に照らされて影となり、銀色に染められた千塔がまるで蜃気楼のように幻想的な風景を映し出す。
特に早朝は人々もまばらでプラハがぼくの思う「似合った服を着ている人」の状態になっており、美しさも情緒もひときわ際立つ。
・人のいない静寂と神聖
今回の訪問は安宿を取ったのでカレル橋からかなり離れており、徒歩でなんと40分もかかったが、ぼくは早朝のプラハの街の姿を見たいあまりにかなり早起きをしてカレル橋へと向かった。今回は年末でありやはり2度目より人も多かったが、それでも昼や夜よりははるかに趣のある情景を見ることができた。プラハは早朝が最もよいと再度確認するに至った。
早朝ならば有名な時計台のある旧市街の広場も人の姿は極めて少ない。昼間ならば人の多さでほとんど見えない時計台も好きなだけ見放題である。やはり人のいないプラハには不思議な静寂と神聖がある。クリスマスマーケットも静けさも、独特の趣を感じさせる。
カレル橋へ向かうまでの石畳の道も、やはり人がいないと絵になる風景だ。人で混雑していてももちろん絵になるが、人のいないことと静寂の方が格段に似合っている。石畳を歩く音がプラハの空気に伝わり響き渡る様は、本当に趣深い。
・詩的な光
カレル橋からの幻想的な銀色の東の街並みは依然変わりない。まるで夢を見ているような幻想的な風景だ。朝の澄明な空気をまとって街がこの世のものとは思えない神秘性を高めている。おそろしく詩的な光だ。薄く青みがかった空には傾いた半月が、カレル橋に並ぶ聖者のひとりに寄り添いその祈りを見守っている。鳩たちが行くあてもなく飛び交い、帰るあてもなく飛翔しプラハの霞んだ空をまばらに彩っている。陽の光が街に差し込むと西の麗しく荘厳なプラハ城が照らされて圧倒的な存在感を増していく。そうなる頃には、もうカレル橋には無数の人々で溢れ返っていることだろう。
早朝という時間帯だけではなく、プラハには澄んだ空気がとてもよく似合っている。ぼくが2度目2月に行った際には真冬の刺すような寒さに伴った澄んだ空気が、プラハの街並みの神秘的な様子を実際に引き立てていた。今回は12月であり冬ではあったが、ロシアや北欧、バルトの国々を経て訪れると、やはりチェコは南国のような暖かさに包まれていると感じた。プラハがより鋭さを伴った澄明をまとうのは、もう少し冬が深まってからかもしれない。
・川のほとり
たとえ早朝が終わっても、人のまばらなプラハを楽しむことは可能だ。西のカレル橋を下りて少し歩けば川のほとりにたどり着く。そこからは美しいカレル橋の全貌を望むことができる。それなのにここを訪れる人はごく少ない。カレル橋の上にはあんなにも人がいるのに、実に不思議なことだなぁとぼくは思った。きっと人間というものは、ある一定の決まった場所に集合し群れる習性を持っているのだろう。
ぼくはひとり白鳥とカレル橋を眺めていた。川の岸辺から見れば、カレル橋の上の群衆もまったく自分とは関係ない小さな影に見えてくるから不思議である。そしてぼくはあのカレル橋を命の姿に例え始めていた。
・カレル橋からの旅立ち
橋の中にいては、このように橋の美しい全貌を眺めることはできない。橋の中にいるだけでは自分の立っているその橋の正体を見極めることができないのだ。蜃気楼のように美しいプラハの街の風景に魅せられて橋の中にとどまることに夢中になっている人々の姿は、生きるという中にあって生きるということだけ考えている人々によく似ている。生きることにだけ夢中になり、生きるという世界の外側のことを思案しない人々は、まさに橋の姿を見られないように、命の姿を見極めることができない。自分自身は生きているけれど、自分の立っているその大地がどのような色彩や形や性質をまとっているのか考えもしないのだ。そしていざ生きるということは何かを考えざるを得なくなった状況に達しても、どのように命の正体を見極めればいいのかわからずに途方に暮れ、知らず知らずにその一生を終えてゆく。
人はいつしか、橋から旅立たなければならない時を知る。この世界がこの世界だけではないことを悟るための旅に出なければならない時を知る。この世のものに違いないと思っていた自分自身の命が、川の彼岸のあの世のものであるべき時を知る。そして此岸と彼岸を分け隔てる川の水の色が、あまりに美しいことを知るんだ。
・自作詩「カレル橋」