目的地ではなくむしろそこへ辿り着くまでの途上の旅路の風景が、ぼくの旅の記憶を形成する
・ぼくは夢の中で今でもスペイン巡礼の道を歩いている
・今でもふと脳裏に思い浮かぶのは、日本中を車で駆け回っていた時のありふれた道路の風景
・旅は目的地ではなく、むしろそこへ辿り着くまでの途上の旅路の風景が心に焼き付いて離れない
・結果よりも過程を重要視するという生き方
目次
・ぼくは夢の中で今でもスペイン巡礼の道を歩いている
2019年の夏、ぼくはスペイン北部のキリスト教の巡礼の道を歩いた。全長800kmにも渡る聖なる道を、毎日休むことなく20〜30kmずつ、約1ヶ月かけて歩くという非日常的で神秘的なスペイン巡礼の旅は、ぼくの中で最も忘れられない旅の思い出として心に刻まれている。スペイン巡礼の道の目的地は、キリスト教の聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラだ。フランス南西部のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーという美しい村を出発点として、800kmの長く果てしない道のりを歩き切ってついに最終目的地のサンティアゴへ辿り着いた時の感動は忘れられないが、意外なのは今のぼくがあまりサンティアゴに思い入れを持っていないということだ。ぼくの心に焼き付いて離れないのは偉大な聖地であるサンティアゴよりもむしろ、そこへ辿り着くまでの何も特別なものがないような素朴でどこまでも続いていく”道”の方だった。
ぼくは今でも夢の中で、スペイン巡礼の道を歩いている。もしかしたら聖地サンティアゴまで辿り着いて肉体が日本へと帰国した後でも、魂はまだスペイン巡礼の旅を続けているのかもしれない。夢の中に出てくるのは巡礼の途中で立ち寄った大都会や美しい街並みではなく、照りつける太陽と青い空の下に麦畑がどこまでも広がっているというありふれた途上の風景だ。ぼくにとってサンティアゴという目的地はさほど重要ではなく、それよりもサンティアゴへと続く途中の旅路そのものに価値を見出したのだろう。そしてもちろんそのスペイン巡礼の旅路を、1歩1歩踏みしめて歩くという肉体の行為にこそ大きな意味があったに違いない。脳や精神が暗記した記憶よりも、行為によって実際に肉体へと深く刻まれた記憶の方が根本的にそして原始的に人間の意識を支配し、やがては人間を直感的に突き動かす原動力になるのかもしれない。
・今でもふと脳裏に思い浮かぶのは、日本中を車で駆け回っていた時のありふれた道路の風景
ぼくは今世界一周の旅も日本一周の旅も中断し、旅するように労働する挑戦の一環として医師のコロナワクチンバイトに従事している。コロナワクチンバイトは自分の好きな時間に日本中どこでも自分の好きな場所で自由に労働ができるので、まさに医師が旅しながら労働するというスタイルを確立できた思いだ。しかしもちろんコロナワクチンバイトをしている間は労働に集中し、旅のことなんて忘れている。
そんな中でも医師としてコロナワクチンの問診している最中に、ふと脳裏に旅の思い出が蘇ってくることがある。その風景はいつだって4ヶ月かけて日本一周車中泊の旅をした際の、特に何もないどうでもいい素朴な道路を運転している最中の記憶だ。なぜ数々の忘れられない日本の絶景や旅に出なければ得られなかった素晴らしい経験の記憶を差し置いて、もはや日本のどこなのかもわからないこにでもあるような道路を運転している時の映像がフラッシュバックするのか、自分でも自分が不思議に思えてくる。
脳裏にふと浮かぶ道は、確かにぼくが日本一周中に運転した風景に間違いはないし、その記憶は実際に頭の中に断片的に残っているものばかりだ。しかし何か目立って特別なものがあったわけでもない、日本一周の途上のただの通過点としてのありふれた道路の記憶なので、グーグルマップにただ従って走っていた場合も多く、もはやどの県のどこの道路だと断言できるほどの鮮明な記憶ではない。そのような不確かな道の記憶が、いつまでもいつまでもぼくの脳を支配して離れない。
・旅は目的地ではなく、むしろそこへ辿り着くまでの途上の旅路の風景が心に焼き付いて離れない
スペイン巡礼の記憶でも、日本一周車中泊の記憶でも共通しているのは、ぼくが目的地というよりはむしろそこへ行くための途上の風景になぜかやたらと思い入れがあるということだ。これは何か特別で不思議な現象ではないだろうか。普通なら苦労して辿り着いた美しい目的地の絶景や有名な目立った観光地の思い出に、人間は支配される傾向にあるだろう。その途中のどうでもいいようなありふれた道や過程の方が印象的で心に残っているという人は、この世にどれくらいいるのだろうか。
・結果よりも過程を重要視するという生き方
拡大解釈するとそれはぼくという人間が、結果よりもそこへ至るまでの過程に価値を見出していると言い換えることもできる。
この人間社会においては、過程よりも結果が重要されがちとなる。過程の中でどんなに頑張ったとしても、結果を出さなければ評価されない。例えばぼくがコロナワクチンバイトに参加できるのも、医師国家試験に受かり医師になることができたからだ。どんなに努力したのだという過程を主張しても、医師国家試験に受かったという明確な結果が伴わなければ誰もぼくを医師のコロナワクチンバイトに雇ってくれることはないだろう。人間社会は合理的なシステムで成り立っている。どうすれば最も都合よく人間全体を支配することができるか、どうすれば最も効率よくお金を稼ぎ出すことができるかが重要視されながら世界は回っており、過程よりも結果に重きが置かれるのもその合理的システムの一環として当然の成り行きと言えるだろう。
しかし野生的な動物としての人間の側面に目を向ければ、そこには非合理的で不条理で荒々しい、無秩序な世界が広がっていることも否定できない。むしろ合理性を伴った社会的で高等な人間性は、非合理的な野生を土台として成り立っているのではないだろうか。つまり人間社会の合理性は、人間の非合理的な野生を根源として生じているということだ。そしてこの”人間の非合理的な野生”という根源の土台に、結果など顧みずにただひたすらに過程という行為に情熱的に熱中する人間本来の生きる姿勢が隠されているような気がしてならない。その行為の結果として未来でどのようなことが起こったり、自分にどれくらいの利益が生じるのかなんて重要ではない。未来のことを思い煩ったり、損得勘定に囚われてしまって動き出せなくなるよりもまず、今この瞬間に自らの根源から押し寄せる野生的な直感や本能的な情熱に突き動かされるという非合理的で無秩序で荒々しい過程こそが、人間が美しく生き抜くための最も重要な要素ではないだろうか。
なんだか小難しく書きすぎてしまったが、結局は”遠足そのものよりも遠足の準備が一番楽しい”という幼い頃の純粋な子供心にこそ、ぼくたち人間が生きるべき姿勢のヒントが隠されているということなのかもしれない。