険しいのぼり坂再び…!!
スペイン巡礼22日目!
・山の中の静かな村Foncebadon
・Foncebadonの寄付制のアルベルゲ
・重き荷を背負う者と深まる巡礼の道
・スペイン巡礼22日目記録
・山の中の静かな村Foncebadon
今日も6時半にアルベルゲを出発したぼくたちは、これまでの街で一番素敵だったアストルガを発ってFoncebadonへと向かった。ここまでの最難関の道はまさかの初日のピレネー山脈越えだったが、これ以降はそんなに険しい登り道もなく、平穏な巡礼の道が続いていたように思う。しかしここへ来て再び、突如として険しい登り坂が現れた。
今日の気候も快晴。雨上がりの快晴はありがたく嬉しかったものだが、快晴が当たり前になってくると、やはり巡礼者にとっては快晴は体力的にキツかった。今日の巡礼路はなぜか人口密度が高く、抜かしたり抜かされたりと気をつかう場面もまた疲弊させられるものだった。道行く誰もが暑さにまいっているという感じで、この快晴が気持ちよくもありつらくもあった。
快晴と暑さに加えて、突然の登り坂の出現に心折れそうになりながらも必死に坂道をのぼっていく。ピレネー山脈ほどの急さはないものの、適度な曇りだったピレネー山脈と比べると体力の奪われ具合はそう変わらない。この巡礼の旅の中で、今日の坂道が最も汗をたくさんかいた場所だった。明日からも猛暑が続き、もっともっと汗をかくのかもしれない。たくさんの水分が汗として体外に放出され、水分摂取量も増えていく。幸い適度な距離感で泉や水道が設置されていたので、水分不足に陥って熱中症にかかるような心配はなかった。
今日の目的地Foncebadonは、山の中腹にある爽やかで静かな村だった。巡礼者のメンバーも知っている顔が増え知り合いも多くなってくる。また会えたねーなどと笑顔を交わし合いながら街の滞在を楽しむことも、カミーノの巡礼の醍醐味だ。
・Foncebadonの寄付制のアルベルゲ
Foncebadonでは寄付制の宿DOMUS DETに宿泊した。ベッド数が18しかないので泊まれるか心配だったが、14時ごろに到着してもまだなんとか空きのベッドを確保できた。夕食も朝食も提供してくれて、やはり寄付制のアルベルゲは素晴らしい。
・重き荷を背負う者と深まる巡礼の道
10kgの荷物をアルベルゲに置いて町を散歩していると、荷物なしで歩くことはなんて楽なんだろうと思い知られされる。カミーノの猛暑の道を10kgの荷物を背負って登って来た後であるからその解放感もひとしおだった。ぼくは自分で歩くことが大好きな人間だと思っていたが、それには条件があることが判明した。すなわちぼくは、重い荷物を背負わないで歩くことが大好きだったのだ。この条件を発見できたという点にも、カミーノの恩恵があることだろう。
ぼくは疲れることが嫌いなのだ。なるべくなら重いものを持ちたくないし、なるべくなら立っていないで座っていたい。そんなぼくが800kmの道のりを歩くスペイン巡礼に参加しているなんて、なんとも数奇な運命である。本当ならば、重い荷物なんて絶対にないに越したことはないのだ。そんなものなくても生きていけるのならば、きっと手放しても歩き出した方が軽やかな人生が待っていることだろう。
たとえばぼくが今このカミーノの道の途上で10kgの荷物を手放したとしても、この先なんとか生きていくことは可能だろう。その方が巡礼しやすいのにそうしない理由は、きっと自分の所有物に執着があるからだろう。もしくはこれらがなくてもきっと生きていけるのに、これらがなくなったら本当に生きていけるのかわからないという、喪失への恐怖が、ぼくが10kgの荷を敢えて背負うという行動に駆り立てているのかもしれない。
この10kgの荷物は物質だからまだいい。本当にいざという時には、手放すことができるのだろう。しかし人間には誰しも、人生という巡礼路を重き荷を背負いながら生きているものだ。それは誰にも見えないかもしれない。誰にも話すことができないかもしれない。重き荷など背負っていないのだと偽りの明るさを浮かべて、自分自身を傷つけることもあるかもしれない。そして物質ではない人の重き荷は決して道の途上に置き去りにすることはできない。人生という巡礼路を生き抜く限りは、いつまでもどこまでも伴ってくる重さだろう。それがなければ、どんなに生きることは楽だろう。それがなければ、どんなに生きることは楽だろう。けれどいくら祈ってみたところで、消えてくれるはずもない荷だ。
重き荷を背負う者同士は、お互いの重き荷のつらさを心の底で感じ合っているから、あえて重き荷の名前を聞かない。悲しみの理由を軽々しく尋ねてきたり、退屈しのぎに人のつらさを探ろうとする種類の人間は、人生の重き荷を背負い損ねた命ばかりだ。背負い損ねた命もまた、背負い損ねたいたたまれなさをどこかで感じながらも、軽々とした旅路を急ぐのかもしれない。背負わされてしまった者たちは重く口を閉ざして、背負わされた者たちすべての運命を胸の底で密かに担いながら、何事もなかったフリをして人生の巡礼路を行くように。
“足元の石くれをよけるのが精一杯
道を運ぶ余裕もなく 自分を選ぶ余裕もなく
目にしみる汗の粒をぬぐうのが精一杯
風を聴く余裕もなく 人を聴く余裕もなく
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
ふり仰ぎ ふり仰ぎ そのつど転げながら
重き荷を負いて 坂道を登りゆく者ひとつ
重き荷も坂も 他人には何ひとつ見えはしない
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら”
人生の旅路を急ぐのに、重き荷などないに越したことはないのかもしれない。なにひとつ背負わずに軽々と身をこなす者の方が、たどり着く場所は近いのかもしれない。しかしこの人生の旅路というものは、本当に速く到着するために与えられた道なのだろうか。早く到着すればするほどに幸福が待ち構えている、人生の目的地はそれほどに安直な国だろうか。
重き荷を背負わない者の道が、巡礼の道にはならない。どんなに軽々と聖地と呼ばれる国へとたどり着いても、聖なるものはたちまちに俗なるものへと翻り、再びの旅路が始まるのみだろう。重き荷を背負う者の重みが、巡礼の道の土を深める。
たどり着くべき聖なる国へと訪れる鍵は、速いことではなく深いことだった。重き荷を背負った者たちの足跡が、重みにより深まれば深まるほどに、聖なる光の国は近づくだろう。重き荷を背負う者たちすべての生命は、巡礼の道。誰にも妨げることのできない、聖域へと赴く足取り。たとえ途上で倒れようとも、そこから引き継がれる変わらない魂の音が聞こえる。どんなに命を着替えても、ぼくたちはきっとたどり着く。経済がいざなう合理性を退けて、科学がそそのかす速度の魔物を祓って、ぼくたちは怠ることなく修行を完成させよう。
・スペイン巡礼22日目記録
出発6時半 到着14時00分
消費カロリー928kcal 歩数39191歩
移動距離24.4km