旅することは今を生きるということ

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ぼくは今非常に困っている。旅していると、昔の旅行記を書けないからだ。

旅することは今を生きるということ

・ぼくの今の旅の経過
・ぼくのシベリア鉄道前の旅の経過
・今を生きるということ
・幼き者から学び取るもの
・旅が真実の時間を与える

・ぼくの今の旅の経過

シベリア鉄道でゆくロシアの思い出深い旅を終えて、北欧フィンランドへと乗り込んだ。街の名前で言えばウラジオストク→イルクーツ→モスクワ→サンクトペテルブルク→ムルマンスク→イヴァロ→ロヴァニエミと旅を継いでいる。目的はオーロラをこの目ではじめて見ることである。

ぼくは旅をしながらでも、1日1回はブログを更新しようと努めており、一応それはシベリア鉄道でゆくロシアの旅〜フィンランドの旅に至るまで継続されているのだが、どういうわけか書くべきシベリア鉄道以前の旅行記を書く気持ちが起こらない。

 

 

・ぼくのシベリア鉄道前の旅の経過

シベリア鉄道以前の旅の旅行記をとっとと書いて、早くリアルタイムの旅行記を書けるようになりたいのだが、気持ち的にそれがなかなか困難な状況にあると言える。シベリア鉄道前の旅とはすなわち、琉球諸島をめぐる旅、北海道の旅、東北の旅、シンガポールの旅、台湾一周の旅、インドネシア横断の旅であり、どれも濃厚で書くべきことはたくさんあるのだが、今現在で旅行記は東北の旅の途中で止まっている状態である。

理由は自分でもよくわかっている。旅をしていると、過去をふりかえるという意思や視点が失われ、ただひたすらに今という瞬間を生きようとするのだ。それは言わば懐かしい感覚であるとも言えよう。

 

・今を生きるということ

人間の魂とは本来、今という瞬間を生きるべきものだと思っている。生まれたての赤子や幼い子供たちなどの純粋な魂たちは、それを知っている。今という瞬間を最大限に精一杯生き抜こうという気迫が、彼らには感じられるのだ。しかしどういうわけか人間というものは、成長するしたがって(老いる・老化という言い方もできるだろう)、次第に今という瞬間を精一杯生きることを忘れてしまう。過去や未来にばかり目が移ろい、本来生きるべき今という瞬間をないがしろにしてしまう。

今までずっと積み重ねてきた過去たちを省みて、あの時こうしていればよかったのになどと嘆く。これから続く未来たちに不安を抱いて、いてもたってもいられなくなって立ちすくむ。いずれも過去や未来という、今とは別の時制に心をとらわれるあまりに、本来生き抜くべき今という時間を生きづらくなっている様子である。

しかし少し考えてみれば、これらの後悔の念や未来への不安は、ただ無駄な徒労に終わるしかないことは明白となる。過去をいくら後悔したって、過去をやり直せるわけはあるまいし、また未来にどんなに不安な気持ちを抱いたって、起こりうる運命には逆らえないのだ。あの時こうすればよかったといくら悔やんでも何も変わらないので、こうしなかった過去を前提とし今何をすべきか考えるべきだし、明日雨が降らないかしらといくら心配してみたところで、雨が降るときは降るし晴れるときは晴れるので悩むだけ甲斐がない。過去を悔やみ、未来を思い煩うよりも、今この瞬間、目の前のことにしっかりと焦点を当て、今という時間を燃え尽きさせるように精一杯生きることの重要性を思い出すべきではあるまいか。

 

 

・幼き者から学び取るもの

日本という国では目には見えなくとも儒教の思想に大きく洗脳されており、それは今の時代でもなお続くこの島国の文化である。それゆえ年上の方がより偉大だ、目上を敬えなどと暗黙の了解のレールが敷かれ、それに従わない者には社会的抹殺が用意されているほど、儒の掟は厳しいものであると言えよう。ぼくたちは知らぬ間に、年上や目上を敬わなければならないと洗脳され、代わりに年下や目下には少々傲慢になることさえゆるされる風潮が、この国には渦巻いている。人間は皆平等だと小学校で教えられる割には、大人になればなるにつれて大いなる差別付けが社会的許容の中で成立されることは、この国の人間のおかしな運命であると言えよう。それゆえに年上であればあるほど偉大で、年下であればあるほど未熟で卑小と見なされる傾向がある。

しかしぼくは思うのだ。いかなる人間からも学び取るものはあると。0歳の人であろうが、100歳の人であろうが、どちらもぼくになにかを教えてくれる先生であり、どちらであろうと人としての偉大さに変わりはない。儒の思想に洗脳された思考回路では理解し難いかもしれないが、ぼくは赤子にこそ偉大な悟りの片鱗を見出すことができるし、幼い子供だってぼくにとっては尊敬すべき立派な存在である。そして、時間の観念に関しては、精神の老い果てた大人たちの様子から学び取るよりも、赤子や幼子たち、もしくは大人であろうと純粋な魂を保ち続けている者たちにこそ倣うべきだと思うのである。

 

 

・旅が真実の時間を与える

彼らはぼくたちに教える。この人生で大切なことは、今という瞬間を生きることなのだと。そして旅することによって、ぼくたち旅人は子供に帰り、そのようなふさわしい時間の観念を自然と取り戻してゆく。

旅することは不思議だ。ぼくたちは時間が経てば経つほど老いていくはずなのに、旅に出れば出るほど時間を逆回しにされる。たとえば言葉がまったくわからなくなる。まるでこの世に生まれた時の赤子に帰ったような感覚だ。文字が全然読めなくなる。それは文字を知る前の幼い子供のようだ。そしてこの世の仕組みさえわからなくなる。スーパーでの林檎の買い方さえ、異国では異なり戸惑う。

旅はぼくたちの時間を巻き戻しにする。旅はまるで鏡に映った時計のようだ。旅人は子供に帰り、または赤子に帰り、または生まれる前にさえ帰り、今という次元をとらえる。今という一瞬で消え去る燃える炎を、瞬時に掴み取ろうとするかのように、この世をたどたどしく必至に生き抜く。見るものすべてが新しく、聞くものすべてが新鮮で、時間は永遠であるかのように流れる。まだこの世に慣れ果てることのなかった純粋な魂のように。

まさにそのようにして今を生きることしかできなくなった旅人のぼくが、過去の旅行記を書けなくなるのは自然であると言えよう。しかしそうも言ってはいられないので、どこか好きな街で1ヶ月ほど滞在するなどして、旅する心を休めて旅行記を完成させようかと企んでいる。

 

 

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