ついにバルト三国最後の国、リトアニアに乗り込んだ。
ぼくたちは「バルト三国」とひとまとめに覚えてしまうが、そのひとつひとつの国がまったく異なった様子をしていたことはとても印象的だ。その違いについてもまたまとめたいと思う。
リトアニアは祈りのくに
・ヴィリニュスの教会巡り
・神々の街
・十字架の丘の巡礼
・祈りの正体
・創造は祈りの子供
・ヴィリニュスの教会巡り
リトアニアの首都・ヴィリニュスを歩いていると、その教会の多さに驚かされる。どこを歩いても目の前に教会があると言っても大げさではないほど、旧市街の内外に教会があふれている。そしてその中へお邪魔すると、それぞれに異なった装飾や色彩、そして様式がぼくたちを出迎えてくれる。そのどれもが圧倒されるほどに美しく息を飲む。教会の空気から伝わるこの国の人々の祈りの歴史が、異国のぼくたちにも何かを語りかけてくるようだ。教会巡りこそ、このヴィリニュスの街で最も興味深くやりがいのある観光目的だとぼくは感じた。
教会を巡ることによって、まるで優れた美術館を回っているような感覚になる。それはなんとも言えない心満たされる感覚だ。そして凍えるような厳しい寒さの冬のヨーロッパで冷え切った体をあたたかな教会が癒してくれると、心が自然と安らかになってくる。
実は今までのバルト三国の2国すなわちエストニアとラトビアでは教会巡りがあまりできなかった。というのは、この2国の旧市街は、教会に入る度にお金が必要だったからだ。中が見えなくてどのような様子かわからない教会に入る度にお金を払うことは勇気がいる。結局その2国ではあまり教会巡りできなかったのだ。
しかし、このリトアニアの国は違う。すべての教会でお金を請求されることはなく、自由に教会の素晴らしい宗教芸術に触れることができる。これこそあらゆる人々に恵みを与えてくれる教会のあるべき姿ではないか。ぼくはこのリトアニアのヴィリニュスがとても好きになった。ぼくは祈りの場所が多い街が好きなのだ。
・神々の街
たとえば今まで訪れた場所で言えば、ぼくの地元のすぐ近くの山の上の荘厳な仏教都市・高野山、色彩豊かで光あふれる美しい台南の街、アジアの混沌の中艶やかな花が咲くようにヒンドゥーの祈りが満ちるバリ島などだ。日本の民族が多神教の観念を持っているからかどうかは定かではないが、ぼくはこのように神さまがいっぱいあふれているような街が大好きだ。
しかしやはり一神教のキリスト教国家の集まりであるヨーロッパでは、やはりアジアのような神様があふれているという感覚を見出すことは難しかった。しかしこのリトアニアのヴィリニュスの街は違う。ぼくは人生の中で初めて、西洋の中に神様がいっぱい住む街、祈りに満ちあふれた街を発見することができた。バルトの国々を巡って来て本当によかったと嬉しい瞬間である。
・十字架の丘の巡礼
リトアニアの首都・ヴィリニュスと同様に、あふれんばかりの“祈り”の風景が具象化したのが、先日も紹介したリトアニアにある十字架の丘だ。人々の祈りが心の中だけに納まりきらず、この世界に“表現”として現れ出た場合に、あのような不思議で幻想的な十字架の丘が出現するという奇跡は、まさに筆舌に尽くしがたい人間の神秘である。
ぼくは凍えながらでも、顔面が凍りつきそうになりながらでも、あの十字架の丘に行ってよかったと思っている。あまりの寒さにあの場ではなにひとつ感じず、厳しい巡礼をしているような十字架の丘の体験だったが、あの時に見た景色は心の中に激しく焼き付いており、これからこの一生が終わるまでは消えることはないだろう。
・祈りの正体
どうしようもないほどに悲しい時、自分の力では成すすべもなく佇む時、人は人知れず心の中で祈るのだろう。祈りが人間の生きるどうしようもない苦しみを、癒してくれることは限りなく少ないに違いない。苦しみの根源が断ち切れていない限り、どんなに祈ってみたところで、あとからあとから苦しみは産生される。
それでも人は“祈り”をやめることがない。どんなに意味がなさそうに見えても、祈りを心もとなく感じても、決して祈ることを人はやめない。それは人間というもののひとつの真実の姿だろう。祈りこそが、人間を人間たらしめているひとつの要因かもしれない。
・創造は祈りの子供
どうしようもない運命の力強い脅威を知る時、そしてどうしようもない自分の無力さを知る時、ぼくたちは天に向かって祈り続ける。それだけでは祈りを心に抱えきれなくなって、人は“創造”を始める。絵を描いたり、詩をよんだり、そして、十字架を立てたり…。
人間のあらゆる創造は尊い“祈りの子供”である。ぼくたちはこの世界のあらゆる創造に耳を傾け、そしてその祈りに呼応することができるだろうか。この旅のさなかで、いったいぼくは、どれだけの祈りを聞き、そしてその中で、創造できるだろうか。