美しい水と光だった。
スイス・ベルンは水と光の都
・水と光の舞う街
・水のように生きろ
・ベルンは水と光の都
・陸の時間/水の時間
・相聞(そうもん)
・波紋(はもん)
・水と光の写真集
・水と光の舞う街
ぼくは清らかな水が好きだ。そして清らかな水の流れている街に特に心動かされる。紀の国の生まれの人間だからか、紀伊山脈の奥に流れる清流の冷たさと美しさと孤独が、自らの底にも流れているような感覚を受ける。もしくは日本人ならば誰もがそのような森を心に持っていると語っていた、宮崎駿さんの言葉も記憶に残っている。
清らかな水の流れる街と言えば、世界遺産となっている紀伊山脈の高野山や熊野古道の中ならばいずれもそのような様子であるが、ぼくが異国を旅して心に残っているのはスペインのグラナダの街である。
グラナダは美しい。アルハンブラ宮殿ばかりが話題に上る街であるが、たしかにそれも美しいのだが、それよりもぼくの心に残って離れないのは、山から流れ来る清らかな水と光の残像である。清らかな水の揺れがあまりに美しく、ぼくはグラナダに1泊の予定のところを2泊に延長してしまった。美しい水と光の戯れを見ていると、自分の奥底に潜んでいる泉の水面も共鳴して動き出すような感覚に陥る。そしてそのような時に創造力が生まれやすい。
水というものに触れていると自らの中に新しいものが目覚めるのだ。もしく自らを構成する既存の分子たちが結合し離れ合い、新たな組み合わせとして出現しこの命に迫ってくる。ぼくはよく皿洗いをしているときやシャワーを浴びているときなどに、美しい言葉などが下りてきてしかし書き留める術もなく、その後完全に忘れ去るというパターンが多いのだが、共感してくれる方はいらっしゃるだろうか。
そしてグラナダに匹敵するほどの美しい水と光の踊る街をこの旅でも見つけることができた。それはスイスの首都・ベルンである。
・水のように生きろ
そもそもスイスという音からして美しい。英語ではスイザーランドというので濁りが入りそんな感じもしないが、日本語でスイスというと非常に清らかな発音だ。一般的にサ行というのは清らかで澄んだ感覚を人に与える。ぼくは日本語の中のサ行とかラ行が好きである。澄明な印象を残すからだ。そして発音だけではなくスイスの国それ自体も清らかで透明な印象だ。最初の街山岳リゾートのサンモリッツも、次の街マッターホルンの見えるツェルマットも、青い空と澄んだ空気を体中で受け取ることができる稀有な場所だ。そしてもちろん山の中の水の流れは言うまでもなく美しい。
ツェルマットの真ん中を流れる澄明な水の流れを見ていると、アルプス山脈を削り取って谷間の地形を作り出したという点で、美しいというものを超越した力強さを感じる。マッターホルンでの記事でも書いたが、水のように一見形が変わりやすく弱々しく見えるものが、最も力強く世界を動かしていたりするのだ。
水のように弱そうなものが真実では最も強く、柔軟に形を変え、襲い来る世界に応じて自らの姿を変えながら生き延びていくと、いつの間にかアルプスの山間に巨大な谷を作り世界を変えてしまっていたりする。
「水のように生きろ」とは、古えの人もよく語った言葉らしい。兵法で有名な孫子も、道教の開祖と言われる老子も水のように生きることが重要であると説いている。その言葉を聞いて、同じく水の魅力に取り憑かれているぼくは感動したものだ。
そしてぼくにとってスイス3番目の街・首都のベルンも、美しい水の揺れを伴ってぼくを迎え入れてくれた。
・ベルンは水と光の都
ベルンといえばスイスの首都である。首都というのは往々にして水というものに期待できないものだ。首都というか都会の水というものは清らかとは対照的な印象をぼくたちに残している。日本でいえば東京の水も大阪の水も全然綺麗とは言えないし、沖縄の那覇でさえ川の水が淀んでいるという印象だ。それゆえにぼくは首都のベルンというものにその種類の美しさや澄明さをいささかも期待していなかった。首都なんだから首都らしく、買い物や文化でも楽しめばいいと思っていたのだ。サンモリッツやツェルマットでは思う存分このスイスでしか味わえない大自然を満喫したのであるから、まさかこの首都でまで自然の恩寵を受けられないだろうしそれは首都の尋常である。
しかしスイスの首都ベルンはぼくをいい方向で裏切ってきた。ここは首都らしからぬ首都だ。穏やかで豊かでのんびりとした印象を与える珍しい首都の風景だ。ここは本当に首都なのだろうかと一瞬疑った。首都というものは人間の集団により混み合い歩く際には心の余裕も持ち合わせないという印象が強いが。ここベルンではたしかに鉄道駅にはいささか人が多いものの、少し歩けばちょっと大きな田舎の街かと思われるほどに人も少なく穏やかだ。世界にはいろんな首都があるなぁと驚きを隠せない。
この街の構造も独特である。この街は川の水に囲まれてできている。そして旧市街の位置が川の水に比べて異様に高い。街の中心とその周囲との高低差が非常に激しく急峻なつくりだ。それゆえにこの街を散策する際には、極度に上ったり極度に下ったりその位置エネルギーのギャップをじかに体感することとなる。
そしてもうひとつ特徴的なことがある。街中に噴水が非常に多いのだ。噴水と言っても重力に逆らって上空に跳ね上がるような種類のものではなく、泉のような感じである。清らかな水の泉が街のあちこちに点在しているのだ。さすが周囲を水に囲まれた街であり水の豊かなベルンらしい。中心地ばかりでなく、街の端っこの辺境のようなところにも泉は点在しており、そのほとりで人々が本を読んだりくつろいだりしている。なんて豊かな時間なのだろう。泉の水は日の光をつかまえきらきらと揺れてはその微妙な動きを示している。この街には通常の陸の次元とは別に、確実に水の次元がある。
・陸の時間/水の時間
陸に流れる時間と水に流れる時間というものは異なるのではあるまいか。陸は固く固定され微動だにせずに物質的・男性的に厳しくこの世界と対峙しているのに対し、水は常に流転し揺らぎ形を変え移動し、ひとところにとどまることをしらない。まるで無常の世界観をその存在を使って表現しているようだ。柔軟性があり弱そうに見えて適応しいきぬく力強さのあるところはどちらかというと精神的で女性らしい。
それらのまったく異なるものたちが、まったく異なる世界に坐しお互いに世界を支配している。そしてそのふたつがこのベルンの街で混じり合う。まるで人間の人生を描いているようだ。まったく異なる性質のふたつが、なんの因縁か慾望の果てか共に暮らすようになり、新しい混合の時間、新しい生命を創造していく。まったく異なる性質のものであるから、共に暮らすことはこの上なく苦しみに満ちることもあるだろうが、それらをつなぎとめる縁(えにし)がこの世には確かにあるのだ。
この街では時間の流れが少し他とは違う。陸に伴う乾燥した直線の時間、水の揺れの引き起こす間欠的で不規則な時間が、混じり合い退け合い、独特のベルンの時間を作っていく。そしてそれを象徴するように旧市街の中心に美しく聳え立つ時計台。
・相聞(そうもん)
ぼくたち旅人は誰もが自分自身の時間を持っている。祖国で得た時間、異国で得た時間、自分で作った時間、他人から受け取った時間、それらを嚥下し咀嚼し精神の消化器から吸収することにより、自分だけの独自の時間を生成していく。そしてそれは街も同じだ。砂漠の街、都会の街、水辺の街、それぞれがそれぞれの時間を持って移動せずともそこに佇んでいる。
そして旅人が訪れる度に、人間と街の時間が溶け合う。それはまるでベルンの街の泉の水面で、水と光が交響を織り成すように、まさにそのようにして訪れた時間と待ち伏せた時間は反応し合う。旅人だけが時間を持っていても意味がない。街だけが時間を生成しているのみでは無意味だ。ふたつがそれぞれにまったく違う世界を必死に生き抜いた中で、傷や苦しみや喜びから生み出された抽出物を、隠すことなく提示し“表現”したときに始めて化合は生じる。表しただけでは無意味だ。受け取ってくれるものがいなければ表現などむなしい。
けれどきっとそれを受容してくれる人がいる。世界にはそれを待っている街がある。浮世の中で必死にもがくように、生きるという苦しみに完全に浸された後に、ふたつが巡り会ったのであれば、それが街であろうが人であろうが必ずたどり着く。ふたつの感性が共鳴する日々へと自然と導かれる。たとえ今が孤独であろうと、受け取る器を見失っていようと、怠ることなく不動明王のように必死の形相で、この世を生き抜いてみせよう。
・波紋(はもん)
水がぼくらに光を投げかける
誰かの感性がそれに応える
応えられぬ清流のまばたき
誰にも見向きもされずに消える
波紋があてもなく広がる
澄んだものが動きもせずに輝く
ぼくの感性がそれに応える
水の感性がそれに呼応する
差し出した手紙を
受け取られないことは悲しい
宛先を記す筆は透明
行先を告げる文字は澄明
誰にも届かないことを知っている
それでも書き続ける腕に胸は震える
どこでもいいからと誰でもいいからと
願いながら心は砕けるわけじゃない
水と光の都が胸に広がる
共鳴する波紋が光を揺らす
受け取られた水に涙を流す
なにひとつ望まないふりして
本当はあなたをさがしていた
知っていましたか生まれる前から
注がれた水があること
絡みゆく光のあること
あなたが旅に出られないから
ぼくが旅立ち辿りつきました
誰にも知られない水と光
尊いからこそ形をもたない
・水と光の写真集
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