シヴァ神の髪の秘密とは?マンバンヘア男子が古代ガンダーラ仏像に近付いていることをコルカタ「インド博物館」で実感した
・インド最古で最大のコルカタ「インド博物館」へ行こう!
・コルカタ「インド博物館」の外国人入場料は500ルピーだった
・コルカタ「インド博物館」は遺跡だけでなく自然科学全般を学べる博物館だった
・コルカタ「インド博物館」で見られた様々な展示
・古代ガンダーラの仏像は、ぼくのマンバンヘアの髪型に似ていた
・コルカタ「インド博物館」で発見した4つの顔を持つリンガ
・男子が直感に従って自分の好きな髪型にするということ
目次
・インド最古で最大のコルカタ「インド博物館へ」行こう!
ぼくはインド一周の旅の中で首都のデリー、タージマハルのあるアーグラー、エッチな遺跡のあるカジュラーホー、聖人に出会ってテレビデビューまでしたサガール、インド最古の仏教遺跡のあるサーンチー、エローラ石窟群とアジャンター石窟群まで日帰り旅行できるアウランガーバード、5つ星タージマハル・ホテルに泊まった大都会のムンバイ、ピースフルな空気漂う南インドのゴア州、全裸の大仏が聳え立つジャイナ教の聖地シェラバナベラゴラ、南インドの最終目的地ケララ州のコーチンを観光し、今度は東インド最大の都市コルカタへ一気に飛行機で移動した。
人も少なくのんびりとした雰囲気の南インドを訪れた後で、人が密集していてやかましそうな大都会のコルカタなんてあまり行く気がしなかったが、そもそもインドへやって来たブッダ最期の旅の軌跡を辿るという最大の目的を果たすためには、どうしてもコルカタを経由する旅路が最も効率的なのだった。コルカタにあまり興味はないので、1泊だけして夜行バスでブッダが悟りを開いたというブッダガヤまでそそくさと移動する予定だったが、夜行バスの出る夕方までは時間があるので、せっかくなら縁があり訪れたコルカタという街の空気を少しでも感じたいと考えていた。
ぼくがたった1日のコルカタ観光に選んだのは、インド博物館(Indian Museum)だった。理由はブッダガヤ行きの夜行バスの出発地から近かったこと、5月の猛暑期のインドで涼しい場所に行きたかったことなどが挙げられるが、何と言ってもインド最古で最大の博物館という点に興味をそそられた(1814年建設)。ムンバイの5つ星ホテルであるタージマハル・ホテル以外、混沌としていてほとんど滅茶苦茶なこの国で、由緒正しき博物館はどれほどしっかりしているのだろうか。
・コルカタ「インド博物館」の外国人入場料は500ルピーだった
コルカタのインド博物館の入場料は外国人料金で500ルピー(約800円くらい)だった。インドはどこも外国人料金がやたらと高い!インド人チケット料金は75ルピーなのでその差は何と7倍ほどだ。チケットとなる丸いトークンが欠けており、インド的な適当さを感じさせる。
・コルカタ「インド博物館」は遺跡だけでなく自然科学全般を学べる博物館だった
コルカタのインド博物館の全体的な感想は、普通に暑いということだった!博物館ならば冷房がガンガン効いており、猛暑期のインドでも快適に時間を潰せるだろうというぼくの先進国的な考えは甘く、インドでは全く通用しないのだった。
一方内容の方はというと、インドを代表する博物館にはきっとあるだろうと予想されたヒンドゥー教的、仏教的な多数の遺跡や像はもちろんのことながら、生物学(細胞の構造や進化についてなど)、地質学(化石や鉱物など)、動物学(動物の標本など)、インド美術、インド現代芸術など幅広く網羅されており、さすがインド最大の立派な博物館だと感心させられた。
ほとんど全ての部屋が扇風機で暑さを誤魔化す中で、唯一インドの現代を映し出している写真展のような空間だけは冷房がよく効いておりここだけ天国のようだった。暑さに耐えかねたインド人たちも涼しさを求めて皆この部屋に集まり、のんびり休憩している。いくらインド最大の立派な博物館といえども、今はこの一部屋にのみ冷房を設置するくらいが限界ということだろうか(外国人からは500ルピーも取っているというのに!)。
・コルカタ「インド博物館」で見られた様々な展示
古代インド遺跡の展示
鉱物の展示
動物の標本の展示
インド芸術の展示
インド現代芸術の展示
・古代ガンダーラの仏像は、ぼくのマンバンヘアの髪型に似ていた
ぼくがこのインド博物館で最も注目したのは、古代ガンダーラの仏像だった。仏像はブッダが入滅してからすぐに作られ始めたわけではなく、最初はブッダを表現するために仏足跡や玉座、法輪、菩提樹が描かれていたそうだ。
しかし次第にブッダを人間として表現したいという気運が高まり、死後500年ほどしてからようやく仏像が作られるようになったという。仏像が初めて作られたのは、ガンダーラという地域だ(現在のパキスタン北西部)。
古代ガンダーラの仏像は、遥か東方に伝えられ東アジア人に似せて作られたすっきりとした穏やかなお顔の日本の仏像とは異なり、南アジア人のような彫りの深い凛々しい顔立ちをしている。ガンダーラの仏像は日本でも見ることができ、ぼくは上野にある東京国立博物館や、山梨県の山奥にあった平山郁夫シルクロード美術館でも鑑賞したことがあった。
しかしはるばるインドまでやって来て眺めるガンダーラの仏像は、やはり本場で見る迫力と威厳に満ちているように感じられた。
ぼくが古代ガンダーラの仏像にやたらと興味と親近感が湧くのは、自分自身の髪型が徐々に古代ガンダーラの仏像に近付いているような気がして仕方ないという理由に他ならない。ぼくは最初マンバンヘアという比較的今風の格好いい髪型を目指していたにも関わらず、あまりに髪が長く伸びすぎた結果、全く意図せず古代仏像の髪型と類似してきたという現象は矛盾しているようで非常に興味深い。今風の髪型を極限まで極めていくと、なぜか古代へとタイムスリップしてしまったのだ!しかしそんなはずはないと思えば思うほど、自分のお団子ヘアが古代ガンダーラの仏像と瓜二つだという思いを拭い去ることができない。
マンバンヘアをしている男性は都会ならば珍しくないが、ぼくほどお団子が巨大化している男性をぼく自身見たことがない。なぜなら世界一周の旅に出て以来6年間美容院へ行かずに髪を伸ばし続けた結果、とうとう腰を超えて膝の辺りまで髪が伸びてしまったからだ。これほど髪が長い人間を、ぼくは男性はもちろん女性ですら人生で見かけたことがない。一体なぜそんなにも髪を伸ばし続けているのかとしばしば尋ねられるのだが、その答えは「直感」であるとしか言いようがない。ぼく自身も長い髪は生活していく上で面倒だし疎ましいので、切ってしまいたいのはやまやまなのだが、どうしても切ってはならないという、髪には何か言葉にならない神聖で重要な意味が込められているのだという直感に遮られ、ぼくは未だに髪を伸ばし続けている。敢えて言語化するならば、神聖な旅路の記憶をこのお団子ヘアに閉じ込めているという感覚だろうか(理解されないのは承知の上だが)。ぼくが髪を切るのは旅が終わった時だと断言しているが、一生旅が終わることのないよう、永遠に旅の途上でい続けられるよう、ずっと髪を切らなくてもいいよう、工夫と努力と行動を惜しまない所存だ。
今でも女人禁制を貫いているギリシャ正教最大の聖地、アトス山を旅した経験はぼくの心の中に深く深く刻み込まれている。ギリシャ正教の僧侶が髪や髭を決して切らないのは、自分の肉体にハサミを入れることは神への冒涜に他ならないという教えがあるからだという。ぼくは自分の髪を伸ばし始めた後でギリシャ正教のこの考え方を知ったが、ぼくが世界一周の旅に出てから髪を切ってはならないと直感しているのも、この感覚に近いのかもしれない。旅とは決して娯楽ではなく、自分自身と対峙するための修行や巡礼というような神聖な行為だ。日本語で髪kamiという言葉の音と、神kamiという言葉の音が同一であるのは、単なる偶然だろうか。
日本でコロナワクチンバイトをしながら労働している時でも、髪について尋ねられることが非常に多かったが、インド一周の旅をしている最中でも髪についての話題が尽きなかった。しかし日本人が単なる興味本位で髪について質問してくる一方で、インド人がぼくの髪型に対して抱く気持ちは全く異なっているようだった。何とインドで最も信仰されているヒンドゥー教の代表的な破壊神・シヴァ神がぼくと同じ髪型だというのだ!ぼくはインドの旅路の中で何度もインド人たちにシヴァ神の髪型だと指摘され、そんなつもりは全くなったのに古代ガンダーラの仏像に加えてシヴァ神にまで髪を経由して繋がってしまった。
確かにシヴァ神の壁画を見ていると、彼もお団子ヘアをしている。シヴァ神の髪はまた”もつれた髪”と呼ばれ、その髪からガンジス川が流れ出るのだという。単なる髪の毛がガンジス川という大自然へと導かれるというヒンドゥー教の想像力の大きさに、恐れ入るばかりだった。
・コルカタ「インド博物館」で発見した4つの顔を持つリンガ
シヴァ神は破壊の神であると同時に、生殖や繁栄の神でもあるという複雑で多様な要素を秘めている。シヴァ神は生殖の神であることからその象徴は男根(リンガ)であるとされ、ヒンドゥー教信仰が盛んなインドではそこら中で天を突き刺すように聳え立つリンガを目撃することになった。
リンガの正体は男根だとされているが、ぼくはシヴァ神の髪型を知ってしまってから、リンガって実はシヴァ神の頭の上に乗っているお団子のことなんじゃないの?とふと思った。彼の髪の毛のお団子の形とリンガの形が何となくよく似ているからだ。しかしそうなるとぼくも頭の上にリンガを載せていることになって、自分の髪の毛と男根が繋がってしまいそうになるのでその意見は封印した。
ここインド博物館にもシヴァ神の象徴である巨大なリンガが展示されていた。名前はChaturmukha Lingaと記されている。Chaturmukha とは4つの顔を持つという意味合いがあるらしく、確かに周囲にいる4体の神々がリンガを守護しているようにも見える。7〜8世紀の作品で、インドネシアのジャワ島からやって来たもののようだ。今回はインド中を旅して数多くのリンガを目的してきたが、男根のような棒が直立しているだけのものがほとんどであり、このように周囲を神々で守られているようなリンガは初めて見た。やはりインドとインドネシアでは、リンガもまた別々の形状や信仰の方向へと発達したということなのだろうか。以下の記事でこのChaturmukha Lingaについて詳しく紹介した。
・男子が直感に従って自分の好きな髪型にするということ
ぼくは世界一周の旅に出てからというもの、自らの直感に従って自分の好きな髪型をしている。しかしかつてはそうではなかった。病院で労働していた時代には、社会人の男性として髪を伸ばすことは許されないことが何となくの社会通念としてわかっていたので、普通にツーブロック男子として無難に過ごしていた。
この世の中で、自分の思い通りの好きな髪型をしている男子が、果たしてどのくらい存在しているのだろうか。髪型という観点から言えば男子の方が女子よりも社会的に差別され、抑圧されている。短くしたり伸ばしたり、髪色を変えたり、形状を変えたり、男子よりも女子の方が髪型の自由度が高いということは誰の目から見ても明らかだ。男子の髪型はなぜ、多様性に乏しいのだろうか。男はみんなと同じような髪型をしていなければ、社会の一員として容認されにくいからだろうか。その結果としてお金を稼ぐことができず、生計を立てることもできず、結婚や生殖もままならないからだろうか。髪型で自分を表現したいという思いよりも、みんなと同じような髪型で無難に過ごしていた方が安全に生きられるという保守的で打算的な気持ちの方が強いからだろうか。
社会的制圧や他人からの目を気にすることなく、自分が自分のために自分の好きな髪型をするとき、統一された髪型の男性社会からはアウトサイダーだと見なされるだろう。しかしよくよく考えてみれば自分の直感に従って自分がしなければならないと感じる髪型にすることなんて、人間として生きていく上で至極当然のことだ。みんなと同じようにしなければ生きられないという臆病な気持ちで本来の自分の思いを押し殺しながら我慢して生きることと、他人や社会の目よりも自らの内なる声を何よりも大切にして濁世を生き抜く力強さを抱きながら生きることの、果たしてどちらが正気と言えるだろうか。誰もが自らの直感に従って生きることを始める時、誰もがみんなとは異なる生き様を描くだろう。みんなと同じでなければ生きられないのだと怯えながら泣いている少年を慰めて、みんなと同じでなくても幸福に生きられるのだという一生をぼくたちは見せつけなくてはならない。
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