人生は苦しく孤独でいい!「大般涅槃経」「仏教への旅」との出会いは20歳のぼくを仏教世界へと導いた
・人間は幸せにならなければならないというのは本当か?
・譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように
・自らを島とし、自らをたよりとして
・もろもろの事象は過ぎ去るものである
・インドには、呼ばれた者だけがたどり着く
目次
・人間は幸せにならなければならないというのは本当か?
人間は幸せにならなければならないと、人の世は説いていた。人間は決まった線路の上を走らなければならないと、人の世は諭していた。それならば幸せになれない定めを背負っている者たちはどのように生きればいいのだろう。誰かが敷いた軌道から外れてしまうことが、生まれた時から決められている者たちは何を頼りに生きるのだろう。20歳のぼくは嘆いていた。20歳のぼくは打ちひしがれていた。20歳のぼくは、恐れることなく天に問いかけ続けた。
燃え盛るように問う者には回答が与えられる。ぼくにとってその答えとは「大般涅槃経」もしくは「大パリニッバーナ経」という経典だった。それは作家の五木寛之さんがインドを旅する「仏教への旅」というYouTube動画によってもたらされた。五木寛之さんの「仏教への旅」は、インド編、ブータン編、韓国編、中国フランス編、日本アメリカ編の5シリーズがあり、その全ては2時間の長編動画となっている。しかし2時間という時間が全く長いとは感じられないほどに、20歳のぼくは「仏教への旅」に深く感動し、夢中で5シリーズを鑑賞し終わってしまった。
その中でもインド編は特に印象的であり、五木寛之さんの「仏教への旅」インド編は「大般涅槃経」に記されたブッダの旅路を辿るという内容だった。約2500年前に釈迦族の王として生まれたブッダの生涯は謎に包まれている。しかしブッダが死に至る旅路については克明な記録が残されており、そのブッダ最後の旅の記録がまさに「大般涅槃経」=「大パリニッバーナ経」なのだ。ブッダはインドのクシナガラという地で80歳で亡くなった=涅槃に入ったが、普段から説法していた霊鷲山という場所からクシナガラまでの約400kmに及ぶ徒歩の旅の詳細が「大般涅槃経」には記されている。
「大般涅槃経」はお経というよりは言わば旅日記だが、ただの具体的な旅行記ということはなく、不思議で、意味深で、神聖で、詩的で美しい言葉達が並んでいる。抽象的で完全には理解できない、もしくは読み手にその解釈を委ねているような部分も散見されるが、2500年もの時を超えてブッダ最後の旅の抽象的な旅の記録が、今を生きるぼくの心をひどく感動させ、まるで古代から真理がこの胸に去来しているような感覚に陥ってしまうのは何故だろう。この記事ではぼくが「大般涅槃経」の中で特に印象に残っている言葉達を紹介しようと思う。「大般涅槃経」の言葉に20歳で出会って以来、それはぼくの中でひとつの生きる羅針盤として宝石のように頭上で輝いている。
・譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように
アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢(よわい)を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢(よわい)は八十となった。譬(たと)えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
アーナンダとはブッダの最も身近な弟子であり、ブッダの従兄弟だったとも言われている。この文章から見えるのは悟りを開き、教えを説くことで人々を救ったという神格化された”お釈迦様”というよりはむしろ、80歳の老人ならば誰もが感じるであろう老衰という肉体的衰えを如実に表現する”人間ブッダ”の姿である。たとえどんなに神々しく聡明で尊敬すべきブッダであろうとも人間の肉体を携えながら生きている限り、老いの苦しみから逃れることはできない。それはブッダだけではなく全ての人間が共通して持っている苦しみである。しかしそのような老いの苦しみを受け入れながら、80歳になってもなお布教伝道のために力を尽くし、死に至るまで400kmもの道のりを歩いたという2500年前のブッダの姿に、勇気づけられる人も少なくないのではないだろうか。
五木寛之さんの「仏教への旅」インド編で衝撃的だったのは、仏教の根本原理は人生を苦しみであると捉えているということだった。人間は必ず「生老病死」すなわち生まれて、老いて、病んで、死んでいくという苦しみを抱えながら生きていく。人生は苦しみの連続であるという思想を基本的な出発点として、ならばその苦しみといかに向き合って生きていくべきかを説くのが仏教の根本だった。人間は幸せにならなければならない、人生は楽しく生きなければならないというメッセージしか解き放たない人の世で生きてきたぼくにとって、仏教の根本原理は衝撃だったし、共感しかなかった。20歳のぼくも、人生は徹底的な苦しみや絶望の中にしかないと感じられてならなかったので、五木寛之さんの「仏教への旅」インド編を通してどんどん仏教の世界に入り込んでいった。
人生は幸せにならなくてもいいんだ、人生は苦しみでいいんだ、そもそも人生は苦しみでしかないんだと2500年前のブッダという見知らぬおじさんに教えられたことにより、20歳のぼくの心は救われた気持ちになった。
・自らを島とし、自らをたよりとして
この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
これはぼくが「大般涅槃経」で最も好きな言葉である。島というのは、灯火と訳すこともできるという。また法というのは、仏教の真理を表している。ぼくたちはしばしば他人の目を気にしながら、他人の意見に左右される。また他人によって教育され、自分よりも賢く偉い人から学び取ることこそが素晴らしい生き方であると尊重される。しかし本当にそうなのだろうか。
ぼくは思うが自分ほど自分のことを考え、思いやり、愛してやれる人はいないのではないだろうか。他人は所詮、他人だからだ。他人が「あなたのためを思って言っているの」という言葉ほど都合よく偽善に満ちた言葉はない。また自分ほど自分のことをわかっている人間もこの世には存在しないだろう。他人の意見や気持ちというのは移ろいやすく、他人というものに自分を依存させてしまうとやがて自分が見えなくなってしまう。また他人に左右されるような生き方をしていると、何か問題や失敗が生じたときに他人のせいにして憎んだり恨んだりする習性が身についてしまうだろう。
重要なのは自分という核にのみ自分を依存させ、自分の直感や感性のみを信仰し、他者に惑わされず他者を無視する力ではないだろうか。何もかもを自分自身によって決定していれば、何が起きても他人を気にすることなく、自分自身の内的世界を深く追究することができる。物事がうまく進めば自分の直感が研ぎ澄まされていくのを実感することができるし、たとえ失敗したとしても何もかも自分のせいなのだから自分自身の世界の範囲で考察し、すぐに納得して潔く次へ進むことができる。どうでもいいことやくだらないことならば他人の意見を聞き入れてもいいかもしれないが、自分の魂に関わる重要な物事はやはり自分自身の感性によってのみ決定することが、限りなく幸福に生きるための秘訣ではないだろうか。
究極的に自分自身をたよりとしながら生きるということは、人を孤独にさせる。本来集団生活を営む人間は、他人と協力し合い、他人と交わり合いながら生きていくことがふさわしいと見なされるし、その方が快適な人生を歩むことができるだろう。しかし自分は何のために生まれて、何を成し遂げるべきなのかを真剣に、必死に見定めようと覚悟する時、ぼくたちは他人など目に入らなくなる。真理を追求するためならば、必死に燃え盛るように生き抜いているのならば、人は孤独を選ぶのだろう。ブッダも真理を追求するために王としての豊かな生活を捨て、さらに妻と子の元を去り孤独になったという。
「みんなと仲良くしなければならない」「他人と分かり合わなければならない」「強調性を大事にしなければならない」そのような言葉は人生を必死に生き抜いていない者たちの戯言ではないだろうか。究極的な孤独は羅針盤となり得ると感じられるこの思想は、孤独に生き抜かなければならないと覚悟を決めていた20歳のぼくの魂と共鳴した。
・もろもろの事象は過ぎ去るものである
もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。
これはブッダがクシナガラで亡くなる前、弟子達に言った最後の言葉である。いわばブッダの遺言だ。仏教の思想に通底している「無常」を言い表して、ブッダは涅槃に入った。いかに尊いブッダの肉体であろうともやがては死に至るということを目の当たりにし、まさに人生の生老病死の苦しみと無常の移り変わりをその肉体と最後の言葉で表現して、ブッダはこの世を去った。
ぼくたちは激しい変化や思いがけない出来事に戸惑いを感じ、心を乱し、うろたえる。それは今のこの穏やかな状況がいつまでも続くと心のどこかで信じているからだ。しかし変わらないものはこの世に何ひとつない。逆に何もかもが移り変わってしまうのだと諦める時、万物は流転して当然なのだと居直る時、揺れ動く苦しみと悲しみから解き放たれ、激動の変化の中を生き抜こうとする覚悟が燃え盛るかもしれない。
変化というものは、2つの時間を比較することによって認識させられる。逆に言えば常に今という一瞬一瞬だけを真剣に生き抜いているならば、比較対象すら目に入らずに迷妄の世界から抜け出せるということだ。時など目に映らぬほどに、必死に生き抜くことだけが苦しみからの出口だというのだろうか。
・インドには、呼ばれた者だけがたどり着く
インドとは、呼ばれた者だけがたどり着く国だという。ぼくはこれまでインドを訪れたことがなかった。呼ばれていないのなら行くべきではないのだろうと、何となく他の国を巡っては心満たされていた。しかし不意に、インドへ行かなければならないような気がした。この直感は本物だろうか、それとも単なる気の迷いだろうか。それを確かめるためには、インドへと旅立つしかなかった。
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