インドのオカマ文化が不思議すぎる!!!!!
インドのオカマ「ヒジュラー」は性を超越する神秘的なパワーでバスや電車の乗客からお金を稼いでいた
・日本語の「オカマ」とは何か?
・クレヨンしんちゃんの映画とオカマの密接な歴史
・インドでは人々の生活の中にオカマが溶け込んでいた
・インドのオカマはバスや電車にいきなり入ってくると会話の後でお金を請求する
・インド一周の旅の途中でオカマにお金だけせびられた体験談
・インド文化におけるオカマ「ヒジュラー」の役割
・日本における神秘的なオカマ崇拝の例示
・男でも女でもない者、男でも女でもある者
・超越
目次
・日本語の「オカマ」とは何か?
男性の肉体を持ちながら女性のような格好をしたり女性のような喋り方をする人のことを日本語では「オカマ」と呼ぶことがある。これは差別用語にも当たる場合もあるというが、ぼくはこのオカマという言葉にとても親しみを覚えるような気分がする。なぜなら幼い頃によく見ていたクレヨンしんちゃんにオカマという言葉が多用されていたからだ。ただ単に言葉が出てくるだけではなく時には本物のオカマのキャラクターが登場し、その迫力や存在感に圧倒される思いがした。特にクレヨンしんちゃん初期の映画には必ずと言っていいほどオカマがメインキャラクターとして登場して大活躍していたのでそれを見ていた幼いぼくは、世の中には男なのに女の言葉を喋ったり女の姿をしたり男を好きになったりする人もいるのだということを当たり前のように自然と学び取っていた。
・クレヨンしんちゃんの映画とオカマの密接な歴史
1993年公開「アクション仮面VSハイグレ魔王」
1993年に公開されたクレヨンしんちゃんの最初の映画「アクション仮面VSハイグレ魔王」では、映画のタイトルにも出てくる地球侵略を企む敵のボスキャラ「ハイグレ魔王」がそもそもオカマのキャラクターとなっている。長い歴史を刻むクレヨンしんちゃんの映画の最初の最初から最も重要な敵のキャラクターがオカマであるという事実は、クレヨンしんちゃんというアニメとオカマという存在の親和性の高さを示唆していると言えるだろう。ハイグレ魔王はしんのすけがデレデレして近寄ってしまうほど外見は女性的なキャラクターだが、怒った時は男らしい声でしんのすけに怒鳴りつけるなどやはり男らしい一面を失ってはいない。また正々堂々と剣で戦ったのに負けを認めたがらなかった場面ではアクション仮面に「男らしくないぞ」と言われてしまったが「私は男じゃないの、オカマ!」と言って開き直り覚醒するシーンは印象的だ。
1994年公開「ブリブリ王国の秘宝」
1994年公開の「ブリブリ王国の秘宝」でも、敵キャラの幹部にニーナとサリーという2人組のオカマガ登場する。両者とも男の声で女の喋り方をする典型的なオカマキャラだが、その外見はかなり異なっていた。サリーは長髪でスカートを着用しており薄いヒゲが生えているものの総じて女性的な外見をしているのに対して、ニーナはスキンヘッドに口髭を蓄えており派手な服装ではあるもののズボンを着用しピアスにサングラスもして外見はイカついおじさんという印象だ。オカマというのはただ単に女の格好をしている男の人のことを指すわけではなく、男の格好をする男の人であっても女言葉を喋りながら男を好きになるという種類のオカマもいるのだということがこの映画を見ているとわかる。つまり一面的なステレオタイプ(固定観念)だけではなく、オカマという人々にも多様性があるということだ。このニーナとサリーは最初はスンノケシ王子を誘拐したり飛行機の中で野原一家を銃撃したりして悪事を働いていたが、最終的にはしんのすけの味方になったのでどこか憎めない親しみやすいキャラクターとなっている。
1995年公開「雲黒斎の野望」
1995年公開の「雲黒斎の野望」では、しんのすけ一家が戦国時代にタイムスリップした際に出会った15歳の剣士・吹雪丸が、男の剣士の格好をしているのに実は女だったという設定がなされている。吹雪丸は女なのに男の格好をするという言わばオカマの男女逆バージョンだったが、その理由は弟の雪乃が生まれつき自分を女だと思い込んで武家一家の跡取りにすることができなかったので、仕方なく姉である吹雪丸を男として育てることにしたからというものだった。映画の中でしんのすけは雪乃のことを「男のお姉さん」と呼んでいたが、雪乃は外見も声も全てが女らしく描かれておりその他のオカマキャラとは異なった雰囲気を帯びている。生まれつき自分を女だと思い込んでいるという説明からは性同一性障害の気配も感じさせる。
1996年公開「ヘンダーランドの大冒険」
1996年公開の「ヘンダーランドの大冒険」では、マカオとジョマという2人のオカマ魔女が地球侵略を企むボスキャラとして登場する。2人の名前を逆にして合わせると「オカマ魔女」になると言われている。ハゲ頭のマカオとお団子ヘアのジョマはバレリーナのような奇妙な格好をしており、実際に野原一家とダンス対決をした際にも華麗で美しいバレエダンスを披露している。オカマと呼ばれる人々は芸術的センスに優れていたり美しいものを見極める能力に長けていると思われている節があるが、この映画ではそのような感性が反映されている可能性がある。ヘンダーランド城の頂上にあるステンドグラスにスゲーナスゴイデスのトランプをはめられてしまい最終的には消滅するが、そこへ至るまでの野原一家とマカオとジョマの追いかけっこが面白く見所があり2023年にtwitterでバズるほどの盛り上がりを見せるほどだった。20年以上経っても人々の間で話題になるという時代を超越したポテンシャルの高さと不思議なオカマの魅力がマカオとジョマにはある。
1997年公開「暗黒タマタマ大追跡」
1997年公開の「暗黒タマタマ大追跡」では味方キャラとして「珠由良(たまゆら)ブラザーズ」のローズ、ラベンダー、レモンが登場する。彼らは青森県の「あ、それ山」出身の珠由良族の3兄弟であり、新宿で「スウィングボール」というニューハーフパブを経営している。外見は3人とも坊主頭でまるで僧侶のようであり、しんのすけからも「オカマのお坊さん」と呼ばれていた。ひまわりが大切な玉を飲み込んでしまったことや珠由良族と珠黄泉(たまよみ)族の対決などやたらと玉にまつわる話が多く、映画内では玉=睾丸と見なされて話が展開されている場面も多いが、玉とは百人一首にもあるように命そのものを指す場合もあり、また「たま」という音は日本古代より魂を連想させ、明らかに恐山をモチーフにした青森県の「あ、それ山」が出て来ることからも、何となく神秘的で霊的な雰囲気を帯びた映画となっている(オカマの3人がお坊さんっぽいことも一因?)。また埴輪から解放された魔神のジャークも古代よりずっと玉が抜かれていたことによりオカマ化しており、映画の最後の最後にも何の魔力も残っていないオカマの魔神が登場するというオチとなっていた。
このようにクレヨンしんちゃんの初期映画には数多くのオカマのメインキャラクターが次々に登場し、まさにオカマという言葉なしにクレヨンしんちゃんの映画は語れないというほどになっていた。しかもそれぞれのオカマキャラは全てが独特で、特徴的で、奇妙で、力強く、記憶に残りやすい魅力を備えているので忘れたくても到底忘れることができないだろう。
・インドでは人々の生活の中にオカマが溶け込んでいた
このように幼い頃からクレヨンしんちゃんによってオカマという存在に慣れ親しんでいたおかげで、ぼくは社会に出てオカマの人々に出会ったとしてもこんな人も当然いるよなぁと戸惑うこともなく受け入れるようになった。例えばコロナワクチンの問診業務をしていると街やエリアによっては化粧をして女装をしたオカマの人たちの接種に当たることもあった。また新宿で暮らしている時に新宿二丁目のタイ料理屋さんで夜ご飯を食べていた時なんかにはものすごく派手な格好をした集団に出くわしたこともあった。しかし普通に日常生活を営んでいる上ではそんなにオカマの人と接する機会もなく、ぼくの中では存在は知っているけれどそんなに縁のない人というカテゴリーに分類せざるを得なかった。
しかし普通に旅をしているだけでも何度もオカマに遭遇する運命にあった摩訶不思議な国があった。何を隠そうそれがインドである。ぼくは40日間に及ぶインド一周の旅の中で、南北を問わずインド各地でインドのオカマに出会った。インドへ旅立つ前まで、ぼくの中で「インド」と「オカマ」という2つのワードが密接に結びつくことは決してなかった。オカマというとどちらかというとタイのイメージではないだろうか。ぼくはこれまでタイに4回行ったがオカマを見たという記憶がほとんどない一方で、インドで何度も出会ったオカマのことは強烈に覚えている。それはインドのオカマがパフォーマンス的だったり商業的というわけではなく、もっとインド人の一般生活や日常文化の中に深く根ざしているような印象を持ったからだった。
・インドのオカマはバスや電車にいきなり入ってくると会話の後でお金を請求する
ぼくがインドのオカマに初めて出会ったのは、デリーからアグラへ行くための長距離列車の中だった。その光景がかなり奇妙で不可解だったのでぼくは鮮明に覚えている。インドの女性は基本的にとてもお洒落だ。サリーという色鮮やかな美しい模様の民族衣装を身にまとう女性が歩いている姿を見るだけで、インドという南アジアの遠い国を彷徨っている異国情緒が自然と感じられる。
しかしその時車両にいきなり入ってきたサリーの2人組は何だか様子が違っていた。2人とも美しいサリーを身にまとっているのに、明らかに男のような低い声を出している。よくよく見ると2人ともサリーを着たおじさんのようだった。そのおじさんは列車の中の男のインド人に絡みまくり、話しかけたり頭を撫でたりしてコミュニケーションを取っている。話しかけられたインド人の男たちは「アハハ…」という感じで特に追い払うこともなく、逆らうこともせず、オカマたちとの会話を仕方なくしているといった雰囲気だった。
こういう光景って何だか日本でもありそうだからどんな会話をしているのか大体想像がつく。ヒンディー語はわからないので完全なるぼくの妄想だが、きっとオカマバーのような感じで「あんたちょっと疲れてるように見えるわね?最近どうなの?」とか「悩み事があったら聞いてあげるから私に話してみなさいよ?」とか「あらあんたいい男ね〜私のタイプだわ。」とか何とか言っているのではないだろうか。オカマはたまにインド人の男にボディタッチしたり頭を撫でたりしていたが、そのインド人の男はオカマのお気に入りだったのではないだろうか。
一通りオカマとインド人男の会話が終わると驚くべきことにインド人男たちは財布を取り出し、オカマにお金を渡していたのだ!え!まさか今のがオカマの商売?!勝手に列車に乗り込んできて有無を言わさず男たちとの会話を開始し、その会話が終了したら男たちからお金をもらえるだなんて何と不思議で手っ取り早い合理的な商売だろうか!インド人の男たちがオカマの登場に苦笑いしていたのは、最終的に自分達がオカマたちにお金を払わなければならないということを知っていたからだろう。「あ〜オカマ出会っちまったよ!金欠だっていうのに、オカマにお金を払わなけりゃならないな〜」といった雰囲気だろうか。
観察しているとオカマに遭遇すればオカマとの会話を拒否することはできず、その会話が終わればお布施のような感じでお金を支払わなければならない仕組みになっているようだった。まさに理解の範疇を超えたインドの摩訶不思議なオカマによるオカマのための金銭没収システム!一体全体なぜこのようなオカマシステムがインドでは展開されているのだろうか。ぼくもオカマになればインドの男たちと会話をするだけで彼らからお金を巻き上げられるのだろうか。オカマたちはインドの男たちとの会話が終わると次のターゲットを探し求めて車両をどんどんと進んでいった。
・インド一周の旅の途中でオカマにお金だけせびられた体験談
不思議なインドのオカマはどうやら列車やバスの中に頻繁に出没するようだった。ぼくがパトナからクシナガラまでの長距離バスに乗っていた時もどこからともなくバスの中にオカマが出現し、今度はインド人だけではなく明らかに外国人であるぼくもターゲットにされてしまった!上記の例ではインド人男たちと会話をしてあげたからその代わりに対価を支払うという風に考えれば、インド人男がオカマにお金を渡す理由も何となく理解できるが、何と今回のぼくの場合はオカマがぼくに対して何の会話もすることもなくただ手を出してきてお金だけ請求してきたのだった!
えー意味不明!何もしてないのにお金だけ渡せなんて、これじゃ物乞いと変わらないのでは?!ぼくはその態度が気に食わなかったしお金を支払う理由もなかったので、わからないフリをして誤魔化した。しかしオカマは引き下がらず、今度はお金を掌に乗せて見せてきてお金を渡すようぼくに要求してきたので、今度はわからないふりではなくきっぱりと「No」と払わない態度を示すと、諦めて他の乗客からの集金のためにバスの奥へと消えていった。
バスや列車に乗り込んできたオカマにお金を渡すことがインドの文化なら、ぼくもずっと旅してきてインドの風習に倣ってお金を渡すのもいいかなとふと思ったが、どれくらい払えばいいのかもわからないし財布を出すのも面倒だったし、そもそも払わなくていい意味のわからない料金なんて払わない方がいいに決まっているので「No」と拒否する決断に至った。しかしこの件がインドの不思議なオカマ文化をもっとしっかりと知りたいと思えるきっかけになったのかもしれない。
・インド文化におけるオカマ「ヒジュラー」の役割
インドの女装している男性は「ヒジュラー」と呼ばれ、紀元前の書物にも登場する長い歴史を持つ人々だ。ヒジュラーは聖者としてヒンドゥー寺院の儀礼に関わったり、赤ちゃんの誕生を祝福したりするという宗教的な側面を持つ一方で、大都会では男娼として生計を立てている例もあるという。カースト制度の中ではアウトカーストの不可触民となる。
このヒジュラーの説明を読んで、ぼくがインドで観察して推測したインド文化におけるインド人とオカマの関係と大体一致しているなぁと感じた。やっぱりインドでは、オカマの人々は何か聖なる役割を担わされていたりとか、神様と繋がるような役目を与えられていて、それ故に一般的なオカマではない人々から尊敬されているというほどではないけれど、何かしら一目置かれているというか、不思議な力を持っているという直感に基づいて恐れられている傾向にあるのではないか。
・日本における神秘的なオカマ崇拝の例示
これは何もインドに限ったことではなく、日本でも明らかにそのような風潮があるようにぼくには感じられる。オカマというとただ単に気持ち悪いと見下されるというわけでは決してなく、日本人の人々も心の片隅ではオカマの人々を何かしらの底知れぬパワーを持っているに違いないと密かに崇拝に近い感情を抱いているのではないだろうか。
例えばマツコデラックスという人なんかはテレビで見ない日はないというほどの人気者だ。彼女(彼?)は日本の人々から「世の中を見抜いたり占う優れた能力を持っている」「人生で沢山の経験を積んできているから深い言葉で語ってくれる」「普通の人ならば言いたくても言いにくいことをズバッと主張してくれる」「人間社会で悩んだり迷っている人々に適切なアドバイスをくれる」と期待されているはずだ。IKKOという人は美容という分野で絶えず注目を集め続けているし、カバちゃんという人はダンスという芸術分野に優れているし、おすぎとピーコはファッションが得意だともてはやされていた。もちろん彼らはオカマであるということ以前に特別な優れた才能があったのかもしれないが、もしも彼らからオカマという要素を取り払ったならば、果たして今と同じ熱量で世間から注目されることがあったのだろうか。
密かにオカマを崇拝するという日本人の潜在的な心を集結させた先には、美輪明宏さんがいるのではないだろうか。心が繊細で通常の人の世では生きづらいのかもしれない精神科の入院患者の中にも、美輪明宏さんを崇拝する人が非常に多かったのは印象的だ。日本人なら老若男女誰でも多かれ少なかれ、何だかよくわからないけれど美輪明宏さんはすごいという気持ちを持っているのではないだろうか。歌や舞台という芸術の分野でも人々を魅了するし、ジブリ映画の声優業でも一度聞いたら忘れられない迫力と重みがある。第二次世界大戦や長崎の原爆という壮絶な体験もくぐり抜けてきているし、知識も豊富で聡明な印象を受け、何かを語らせればその場にいる人々を深く頷かせる説得力がある。神様や仏教の話、霊についても非常に詳しく、前世の話をする点なんかは信じる人と信じない人を二分させるかもしれないが、そのような極めて怪しい話も男なのか女なのかわからない美輪明宏さんが言うと何だか怪しく感じないというか、そういうこともあるのかもしれないという超越的な次元に至ってしまう。
・男でも女でもない者、男でも女でもある者
日本であろうとインドであろうと、ぼくたちのアジアでは、オカマが人間社会の中で何かしら超越的で神秘的な役割を果たしており、彼らを密かに崇拝する気持ちがアジア人の中に今でも尚残存し続けていることに間違いはないだろう。
逆に言えばこのような性的少数派の人々の存在を認め、生活や文化の中に一定の役割を与え、多数派の人々と共存してきたという歴史を持つということは素晴らしいことではないだろうか。一神教に支配された西洋の国々がLGBTなどと言って性的少数派の人々の存在を認めようと最近になって叫び始めるよりもずっと昔から、アジアでは彼らと社会が共存する文化的な素地が既に形成されていたのではないかと思えてならない。性について西洋は後進国であり、アジアが先進国なのではないだろうか。
男の肉体に生まれたからといって男の心を持つなんて当たり前のことだ。男の肉体を持っているからといって女の肉体を求めるなんてあまりに平凡で普通すぎる。そのようなありふれたどこにでもいる人間たちが、周囲と全く同じ欲望と価値観を共有するぬるま湯の人生の中で、果たして世の中の真理に到達できるのだろうか。真理を掴み取るためには、何にも属さない者にならなくてはならない。
まるで男であるかのようで、決して男にはなり切れない。きっと女であるかのようで、女という範囲に収まり切らない。男であるのと同時に、女というものでもある。男であるわけでもないし、女であるとも限らない。男を好きになるのだけれど、女であるわけでもない。女の肉体を求めるけれど、男であるとは言い切れない。
そのように男女という性の単純な二元論に決して当てはまらない、男にも女にも属さない、男であると同時に女でもあるという、境界線上に位置する孤立した魂だけが、男と女というものを高い丘の上から広く見渡すことができる。そして男と女の集合体とは、すなわち人間のことだ。ぼくたちが性を超越した存在を、世の中を見抜く優れた能力があるといつしか信じ込んでしまっているのも至極当然のことなのかもしれない。
・超越
どこにも属することができない運命を背負った者たちは、何かに属することができた者たちから排除され、見下され、虐げられ、誰にも見えない傷を負うだろう。しかしその深い傷から生まれ出た芽は、決して消えることのない赦しの羅針盤。傷つけた者たちを睨みつける瞳はもう、ない。心無い言葉を憎むための心さえ遠く、消え失せて。魂を失くしても生き続けている者だけが、辿り着ける異郷がある。過去と未来を打ち捨てても、決して捨てられなかった祈りがある。飛翔は目の前に用意され、もはや越えないことのできぬ聖域。ぼくたちは生まれる前から既に知っていた。この白く輝く山脈を、越えていくことを。そして超越した愛だけに、滅ぼされることを。
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