光の降り注ぐ秘境神社!熊野の山奥の丹倉神社が神秘的すぎてふるえた

 

本当に神秘的だと感じる聖域は、逆になにひとつない空間。

光の降り注ぐ秘境神社!熊野の山奥の丹倉神社が神秘的すぎてふるえた

・丹倉神社の尊い光の時間
・秘境神社の不思議な光の階段
・岩石の祈りと鏡面の瞳

・丹倉神社の尊い光の時間

転げ落ちたら本当に死んでしまう崖の上で大丹倉の雄大すぎる紀伊山脈の絶景を見たあと、その近くにあるという三重県熊野市の山奥にある秘境神社、丹倉神社を訪れた。大丹倉、丹倉神社のある一帯の熊野の森の中は、人っ子ひとりいない本物の秘境で、見えるものといえば木々と、水と、光くらいである。本当に自然の中に帰り、自分が自然の一部に帰っていくことを実感する。

そのような素朴で静寂に包まれた聖域に、丹倉神社はひっそりと佇んでいた。まるで忘れ去られたかのように、誰ひとり訪れる人はいない。森と、光と、水と、ぼくだけの世界。人生の中にはこのように、他人という異物を排除して、自己の根底と自然だけの孤独な時間を用意するのも必要なことであると感じた。

他人の声がなにひとつ聞こえないので、人間の言葉といえば自分の心からの言葉の声しか聞こえない。言葉を持たないとされている木々や、水や、光たちが、まるで独自の言葉を持っているように、そしてぼくに語りかけてくれるように感じられる。このような瞬間を、人は生きているうちにどれくらい過ごすことができるだろうか。

 

 

・秘境神社の不思議な光の階段

丹倉神社までは、熊野古道のような苔むした静かな階段を下っていく。階段の道にも淡く優しい午前の光があふれ、心が清らかになっていく思いがする。こんな風に純粋に神聖な気持ちになったのは生まれて初めてかもしれない。熊野の森の中であり小さな透明な虫たちも所々に浮遊しているが、それらが無音でまったく煩わしくなく、とても安らかで不思議な感覚だった。この世には神聖なものしかいないのではないかと今なら信じられると、その聖域でそう思った。

木々の緑と、透明で無音の虫たち、流れる清流、そして木漏れ日の光。これが人間世界から途絶された秘境という名の空間の意味するところなのだろうか。こんなに穏やかな気持ちに、かつてなったことがあっただろうか。人間世界の浮世から離れるという経験がこんなにも尊く、まるで心の根底にまで光を注がれているようだ。

今まで光を当てたことのない敏感な部分に、熊野の森の朝の淡い木漏れ日の光が伝って、その光に心の触覚が反応してしまうのではないかと思ってしまうほどに、神聖で繊細な時間が流れていく。それはまるで胎内に誕生した生命が、まだ皮膚を誰にも触れなかった遠い昔の記憶、自分の心の皮膚が、その時代の皮膚に回帰しているような気がした。それはまるで、胎内へと回帰してしまったかのような…。

そして階段を降りたそこには、とてつもなく大きな岩石が、静かに、堂々と佇んでいた。

 

 

・岩石の祈りと鏡面の瞳

 

岩石だ。また、岩石だ。

熊野三山の熊野速玉神社の前身である神倉神社、そして日本最古の神社である花の崫神社でも、巨大な岩石を祀って人々はそれを信仰していたが。ここ熊野の森の奥の丹倉神社でも、また岩石が御神体として現存していた。もはや古代の人々が巨大な岩石を神として崇めたことは明白であり、そしてそのような古代信仰の形が、不要な外国的な異物の入らないこの紀伊山脈において、長い歴史の中で残されてきたこともまた明らかな事実だった。

 

 

熊野の森と、清らかな水と、無音で透明な虫たち、降り注ぐ朝の光、そして巨大な岩石。おそらく古代の人々の信仰してきたものたちが、まさに今、この丹倉神社という秘境神社に集合し、ぼくに対して古代が降り注がれている気がした。目を閉じれば、現代にいるということも忘れ、はるかなる古代の心たちと交信できるような気がする。そして人の心は、今も昔もなにひとつ変わらないのだと確信した。

 

 

文明は進歩し、人間社会は発達してきたのだと言われるが、ぼくはそれは大きな間違いであると思う。人間はなにひとつ進歩していないし、社会も発達していない。科学技術はただ、速度が速くなったというだけのことだ。速度が速くなっただけであり、根底で営んでいる人間の行動は、今も昔もなにひとつ変わっていない。ただ、生まれ、食べて、排泄し、生殖し、老い、病み、死んでいくのみである。そこに何の変化があるというのだろうか。そしてその変わらなさこそ、真実は人間にとっての救いなのではあるまいか。

 

 

熊野の森の秘境神社で、ぼくは古代の人々と安らかに心を通わせていた。ぼくたちは遺伝子を運ぶ運び屋だ。ぼくの中には、そして誰の中にも古代は眠っている。古代とつうじあうことは、まさに自分の根源と通じ合うこと。それはとても自然なことだ。しかし現代の迷妄の世において、濁ってしまった瞳ではそれを成し遂げることは難しい。

 

瞳を澄ませて、それはまるで鏡面のように、ぼくたちの瞳を澄ませて。生きていくことがぼくたちの魂の目的。たとえこの肉体は古代から変わらず、生まれて老い病み死んでいくのみでも、古代から変わらず魂にも肉体とは異なる役割がある。心と瞳を研ぎ澄ませば、答えは自ずと見えてくる。鏡面はこの世界に落ちている。誰にも見向きもされずに忘れ去られてしまった聖域に。

石よ木よ水よささやかな、ものたちよぼくと生きてくれ。何もないところに、本当はすべてがある。何もない聖域を、通り過ぎない命をください。

 

 

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