聖域 〜フィンランドのユニークな教会たち〜

 

フィンランドは、教会が本当に面白い国だ。この国でしか見られないような、独特な教会がヘルシンキのみならず、国のあちこちに点在している。今回はそんなフィンランドの教会をご紹介したいと思う。

聖域 〜フィンランドのユニークな教会たち〜

・北極圏の果ての教会
・タンペレカテドラル
・タンペレのKalevan church
・ヘルシンキ大聖堂
・ヘルシンキのロシア正教会
・ヘルシンキの岩の教会
・ヘルシンキのKamppi chapel
・沖縄の御嶽と祈りの正体
・真実の祈り

・北極圏の果ての教会

ぼくがフィンランドに入って初めて教会を見たのは、ロシアの北極圏の街ムルマンスクからフォンランドのロヴァニエミへ行くまでの中継の街、イヴァロだった。イヴァロはフィンランド北極圏に位置する小さな街だ。ただの中継地だったので数時間しか滞在しなかったが、それでも印象に残ったのはその真っ白の雪景色と、その中に佇む木製の十字架の姿である。

中へ入ることはできなかったが、キリストの教えがこんなにも北の果ての北極圏の小さな街にまで及んでいるとは驚きを隠せなかった。これはフィンランドで巡り会う沢山の素晴らしいキリスト教教会の予兆であった。

 

 

・タンペレカテドラル

 

ぼくがフィンランドで初めて教会を訪れたのはフィンランド第2の都市、タンペレだった。第2の都市ではあるものの、水路に囲まれた比較的おだやかな街だ。ぼくはここでムーミン美術館へ行く以外は特にこれといった予定もなく、ただのんびりと街中を散策するのが好きだった。そしてその散策の途中で、タンペレカテドラルに巡り合った。

 

 

タンペレカテドラルは外から見ると普通の教会かなという感想だが、中へ入った途端に荘厳なパイプオルガンの音が鳴り響き、ぼくは一気にキリスト教の祈りの空間へと引き込まれていった。タンペレカテドラルの内部は今までに見たこともないような不思議な空間だ。緩やかなドーム状の天井に、美しい紫と青を基調としたステンドグラス、背後にはあまりに巨大なパイプオルガン、壁の側面には裸体の少年たちが描かれており、祭壇には聖書の物語を描いた大きな絵画。それらが融合して調和し、見事に洗練された空間を作り出している。そして重要なことには、その内部は無人だった。

 

 

このように美しく荘厳で洗練された教会ならば、もっと多くの観光客が訪れていたとしても不思議はないだろう。そもそもタンペレに観光客が少ないのか、それともみんなあまり教会に興味がないのか、それにしてもこのような素晴らしい教会を訪れないなんてもったいなさの極みである。しかしこの無人のあまりに美しい教会はぼくの中で幻のような思い出として深く心に刻まれている。無人であるからこそ、ひたすらにこの教会と向き合え、その細部に至るまで鑑賞し、その素晴らしさを実感できたからだ。

 

パイプオルガンの音が急に止むと、そこはもう無音の祈りの空間だ。おだやかで神聖な空気漂う教会の中に、ぼくはずっと立ち止まっていたかった。

 

・タンペレのKalevan church

 

さらに衝撃的だったのは同じくタンペレで見つけたKalevan churchである。

外から見ると何やらものすごく奇妙な建物に見えるが、中に入ってみるとあまりに不思議な空間が広がっていた。これまで世界中のどこにも見たことのない教会の風景だ。

まず、非常に無機質な空間である。冷たい印象のコンクリートの灰色の壁、灰色の天井。他の教会では必ずと言っていいほど見かける、イエスやマリアの像、彫刻、絵画などもまったく見当たらず、色鮮やかなステンドグラスも見つけることができない。言わば教会らしからぬ教会だと言えるだろう。しかし教会とはこういうものであるという思い込みや常識の観念を打ち破ることができるという点で、この教会は迫力があるし心に迫ってくるものがある。

祈りのためにいったい何が必要なのかを常識ではなくきちんと自分自身で考え、そして必要ないものは完全に削ぎ落とし、シンプルにし、本当に大切なものだけを残存させたというような印象を受ける。この教会で見ることができる教会らしいものといえば、パイプオルガンと祭壇である。

通常ならば祭壇の上には、イエスの十字架の像や絵画など、なにが具体的な創造物が飾ってあるものだが、驚くべきことにこの教会の真正面には、抽象的な木製彫刻が飾られている。それは聖書に出てくる“傷ついた葦”の彫刻であるという。ぼくは聖書に明るくないのでここで初めてその文言を知ったが、非常に神聖で忘れ難い文章なのでこの教会でこの彫刻に出会えたことに深く感謝している。

 

“傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯火を消すことなく、彼は真実を以て行手を指し示す。”

この教会でも入った途端にパイプオルガンの音が鳴り響いてやまなかった。このあまりに巨大なパイプオルガンはフィンランドで2番目に大きいというから驚きだ。こんなに巨大なのに、これよりさらに大きいパイプオルガンがあるなんて、にわかには信じ難かった。この教会にも人は誰ひとりおらず、それがまた神聖さを引き立てていた。

 

・ヘルシンキ大聖堂

 

ヘルシンキにも教会はたくさんある。タンペレであまりに興味深い教会体験をしてしまい、いったいこの他にフィンランドではどのような教会があるのだろうと興味津々だった。

 

ヘルシンキを代表するヘルシンキ大聖堂は、心穏やかになってしまうほどに普通の教会だった。これまでにフィンランドでは面白い教会しか見てこなかったので、普通の教会が逆に珍しい。美しく滑らかな白色の内装をしばし眺めていた。

このヘルシンキ大聖堂の前の広場ではヘルシンキのクリスマスマーケットが開かれ、大変な賑わいを見せていた。

 

・ヘルシンキのロシア正教会

 

ヘルシンキ大聖堂から少し港側へ歩くと、ロシア正教会・ウスペンスキー寺院がある。シベリア鉄道のロシア旅を1ヶ月してきたぼくは、久々のロシアとの再会にむやみに感動してしまった。

 

ここはヘルシンキ大聖堂とは対照的な、薄暗い空間だ。ヘルシンキ大聖堂が光あふれる白い空間なら、このロシア正教会は影のさす黒の空間である。これほどまでに対照的なふたつの教会が、すぐそばに横たわっているヘルシンキの街はやはり面白い。フィンランド人とロシア人、それぞれの心の風景の色彩が、このように教会の雰囲気となって反映されているのだろうか。東アジア民族のぼくにとっては、祈りの色彩はロシアの方が馴染み深いと感じた。

 

・ヘルシンキの岩の教会

洗練された都会・ヘルシンキのど真ん中に、急に岩の塊が出現するから驚きなのだが、さらに驚きなのはこの中に教会という祈りの場が存在するということだ。ここは通称“岩の教会”と言われるテンペリアウキオ教会。これまた世界中で見たこともない教会の風景だ。本当に教会の壁の側面が岩そのものである。祈りと自然との見事な融合が、何か日本人と通じるものを感じさせるのは気のせいだろうか。

中ではおそらくヘルシンキの合唱団の方々がたまたまコンサートを行っており、その美しい歌声をしばらく聞くことができた。不思議な聖なる教会に鳴り響く、聖なる歌声だった。

 

・ヘルシンキのKamppi chapel

 

さて、さらに衝撃的だったのはヘルシンキの最も栄えた場所に聳え立つある教会である。その名もKamppi chapel。まず、外見からして衝撃的だ。外から見てもまったくこれが教会だとはわからない。ドーム状で木造のなにか変な前衛的な建物だと思うだけだろう。かろうじて併設された建物の側面の小さな十字架が、ぼくたちにそれは教会だと知らせている。

 

中へ入っても驚くべきことばかりだ。

それは完全に木造の壁、天井に囲まれており、木に馴染み深い日本人としては大きな安らぎを得ることができる。穏やかな流線型の側面が、まるで卵の中にいる生まれる前の雛鳥の気持ちを思い起こさせる。完全な静寂の中に、神聖な祈りの空間が浮かび上がる。そしてここにはなにもない、本当になにもないのだ。

タンペレのKalevan churchでは、その中に宗教的で具体的な絵画や彫刻、そしてステンドグラスがないことに驚きを禁じ得なかったが、それでも聖書をモチーフとした木造彫刻やパイプオルガンなどキリスト教的な仕掛けは一応存在していた。しかし、このKamppi chapelではそれすらないのだ。キリスト教的なものがまったくもってなにもない。もしもここがただの部屋で教会ではありませんよと言われれば、そうだろうなと思うし、ここは物置ですよと言われればそうだろうと信じるかもしれない。

いったい教会とはなんだろうか?人々にとって祈るための場所とは?そのような数々の問いかけをKamppi chapelはその存在自体で投げかけているように感じられてならない。そしてぼくはぼんやりと、沖縄の御嶽のことを思い出していた。

 

 

・沖縄の御嶽と祈りの正体

沖縄の御嶽とは、沖縄の人々にとって重要な祈りの場所であり、琉球諸島のいたるところに存在している。そしてその御嶽にはなにもないことが多い。普通日本の神社やお寺などの祈りの場所であれば、立派なお堂が建てられていたり、美しい仏像を拝むことができたり、艶やかな鳥居が聳えていたりする。しかし沖縄の御嶽はただの広場のようでもあり、石や木が転がっているだけの無の空間であることもある。ただの空き地を祈りの場としていることに、違和感を覚える人々もいるかもしれない。

しかし、祈りとは本来そのようなものでなかったか。いつからだろう。祈りの場所に豪華な装飾や荘厳な建築物が必要になったのは。日本の神社やお寺でも、やはり立派な装飾や建築で信仰の気持ちを駆り立ててくる。またそれらには人々を呼び寄せる効果もあるだろう。確かに祈りの場のそのような芸術を鑑賞することによってぼくたちは心から楽しむことができる。しかし生きる上で自発的に起こってくる自然で純粋な祈りの気持ちに、派手な装飾や荘厳な建築は本当に必要なのだろうか。

祈りとは本来沖縄の御嶽のようになにもない場所で、神様や天や精霊と繋がろうとする行為ではなかっただろうか。なにもない場所で、自分自身がなにもない状態になることにより、その自我の空白の部分に天からの啓示を流れ込ませる作業ではなかっただろうか。そのような純粋で澄明な本来の祈りにとって、過度な祈りの場での飾り付けは、逆に祈りを妨げてしまうような不純物になりはしないのだろうか。

 

 

・真実の祈り

Kamppi chapelは今もなおぼくたちに問いかけている。いったい教会とはなんだろうか?人々にとって祈るための場所とは?

Kamppi chapelや沖縄の御嶽のように、なにもない場所で祈ること。それはまるで祈りという行為はいかなる場所でも可能であるというささやきかもしれない。ぼくたちは祈るためには、神社やお寺や教会へと行かなければならないと思い込んでいる。しかし本来祈りの場所とは、なにもないような、どこにでもあるような場所がふさわしいのであり、純粋で澄明で美しい祈りであるならば、仕事場だろうが、自分の部屋だろうが、森の中だろうが、海の底だろうが、一向に構わないのではないだろうか。

人の祈りは美しい。そしてその美しい祈りを解き放つ場所は、本来ぼくたちにとってなんでもない場所、心における無の空間かもしれない。人はそれを、聖域と呼ぶのかもしれない。

 

 

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