これぞ”熊野古道”という風景が広がっていました。
現世を救う!熊野那智大社は古代の清らかな滝の水となって
・早朝の熊野那智大社へ
・熊野那智大社の特徴
・熊野那智大社無料駐車場情報
・忘れがたい熊野那智大社の美
・那智の滝の水のコーヒーとブラタモリ
・大門坂で過去と現代は繋がる
・清らかな水の祀り
目次
・早朝の熊野那智大社へ
熊野三山2つ目は、那智勝浦にある熊野那智大社!家族によると、ぼくは以前家族旅行で熊野那智大社へお参りしたことがあるらしいが、全く記憶にないので初めて参拝するような心持ちである。
那智勝浦へは夕方に到着し、夜ご飯として港町の街らしい贅沢なマグロ定食を食べ、温泉にも入り、人気のないところで車中泊をし、次の日の早朝から熊野那智大社へと早速出発した。
・熊野那智大社の特徴
熊野三山のうち、熊野那智大社は現世を救う。メインで祀られている神様は、イザナミ。熊野那智大社と言えばなんと言っても壮麗な那智の滝が有名である。一段の滝としては日本で最長の滝のようだ。神武天皇が東征の旅のさなかでこの滝を見つけ、古来より祀られているのだという。熊野本宮大社は本来大斎原に祀られていたが、熊野那智大社は本来那智の滝を祀ることから聖地として発足したものらしい。
熊野那智大社は海辺の港町である那智勝浦から山の方へと深く入り込み車で上っていった場所に位置する、まさに美しい天空の神社である。車で頂上まで行くこともできるが、途中から降車して「大門坂」という、これぞまさに熊野古道だとはっきり言い切れるような美しい古代の石段を登って行くと熊野那智大社にたどり着く。健康な足で徒歩で30分ほど。美しい古道を歩きながら、ちょうどいい運動にもなる。
・熊野那智大社無料駐車場情報
さて、この熊野那智大社、まず迷うのは駐車場である。頂上付近には有料駐車場ならばいくらでもあるのだが、ちゃんと見ていれば無料駐車場もあるので、どうせなら無料で駐車させるに越したことはないだろう。本当の本当に頂上まで行くと、道の通行料としてそもそも800円とられるので論外である。800円がかかる前の、那智の滝の入り口からお土産物屋さんが立ち並びエリアで無料駐車場を見つけたい。
まず、那智の滝の鳥居の前は無料だった。しかし数に限りがあり、早朝に訪れるかかなり運がよくなければここに駐車することは難しいのではないだろうか。
その他にお土産物やさんにも無料で使ってくださいというものが多数ある。「無料とは言うものの、店でなんでもいいからお土産を買ってくれたら嬉しいなぁ」というスタンスであるようだ。もちろん駐車するだけでお金をとられるよりは、何かを買ってそれを駐車料金とする方が満足度も高いだろう。ちょうどふるさと納税のようなものだ。混雑している場合には、お土産物やさんの駐車場がベストかもしれない。
ぼくはかなり早朝に参拝に訪れたので、トイレの横にある駐車場を利用した。ここは当然無料だった。那智の滝の入り口からお土産物屋さんが立ち並びエリアから熊野那智大社までは少し歩くものの、その間のお土産物屋さんやカフェを眺めるのは楽しい時間だ。登りなので、足の不自由な方は800円を支払って頂上まで行った方がいいだろう。
また、大門坂を登ってくるならば、そのふもとの駐車場は無料である。
・忘れがたい熊野那智大社の美
熊野那智大社は、本当に美しい神社だった。鮮やかな朱色の色彩が紀伊山脈の緑の木々によく映えている。ロケーションも山の頂上付近なので、空気も澄んでおり居心地がよい。ちょうどぼくの大好きな高野山のような感じだと思った。
なんて美しくて素敵な神社なのだろう…!感動の思いを胸に秘めながら参拝を続けた。神殿のすぐそばにある宝仏殿もかなり見応えがあった。古代の熊野詣でをする人々や熊野那智大社の構図が活き活きと伝わってくる熊野那智山宮の曼荼羅も興味深かったし、熊野那智大社にメインで祀られているイザナミの絵が光で反射されると映し出されるという魔法のような鏡も驚くべき不思議さだった。ここで案内してくださった女性がとても親切で、熊野那智大社の周辺のことや熊野三山の歴史のことなど、とても細やかに教えてくださってよい旅の思い出となった。
境内には神格化された長生きな樹木もあり、その根幹部の空洞を通り抜けることは「胎内くぐり」と名付けられ、人々は不思議そうに樹の中を通り抜けていた。ここにもまた、古事記の神様を信仰する前の日本人の原始的で素朴な自然に対する信仰の姿を見たような気がした。
そしてさらに驚くべきことには熊野那智大社のすぐ隣には荘厳な仏教寺院があり、素晴らしい神社と寺院をいっぺんにお参りすることができる。これが神仏習合というものだろうか。華やかで麗しい朱色の熊野那智大社とその隣の茶色い木造の青岸渡寺の素朴な色彩が、実に対照的で面白かった。
青岸渡寺を通り抜けて行くと、これぞ熊野那智大社と言わしめるような、麗しい朱色の五重の塔と那智の滝が隣り合った見事な景色が目に飛び込んでくる。何度も写真で見たことはあったものの、実際に見てみても心から感動できる素晴らしい眺めである。この五重の塔は入場料を支払えば中に入ることができる。塔は朱色であるものの仏教的なものであるらしく、その内壁には数々の仏画が展示されていて迫力がある。しかしここではなんと言っても那智の滝の迫力に勝るものはなかった。
五重の塔から下り道を通っていよいよ那智の滝へと向かう。途中で野生の鹿さんに出会ってとても癒された。鹿さんってなんであんなに可愛いのだろう。奈良公園の鹿もいいけれど、こうやってのびのびとしかし勇ましく野生の鹿に出会うのも思い出深いものがある。
そして那智の滝へ向かうまでの道のりも、まさに熊野古道と呼べるような苔むした階段を下って行くので風情があった。ぼくはもう熊野那智大社のとりこになっていた。こんなに素敵な場所が山の上にあるなんて!
そしてついにたどり着いた那智の滝も、それはそれは筆舌に尽くしがたいくらいに美しかった。滝ってこんなにも美しいものなのか!確かに滝の一段の距離が異様に長く、それゆえに落ちてくる水が風で波打っているように見える。目には見えなくとも空気の中にも”波打つ”という現象が密かに営まれているということを、この白く美しい那智の滝は教えてくれた。ぼくはいつまでもいつまでも美しい那智の滝を見ていた。そして必ずまた来たいと心に誓っていた。
・那智の滝の水のコーヒーとブラタモリ
駐車場への帰り道、昨日の夜にマグロ定食を食べた際に隣席してお話した東京から来たご夫婦と再会した。旅は道連れということで、一緒にカフェに行こうということになった。カフェの名前は「清涼亭」。ここでは那智の滝の水で淹れたコーヒーを飲めるということだったので、普段コーヒーを飲まないぼくでもコーヒーを頼んでしまった。美しい山頂の大自然に囲まれながら、清らかな水で淹れたコーヒーを飲みつつ楽しいお喋りをする時間はとても心地よく充実したものだった。
お二人はまさに熊野古道的な風景を楽しめる「大門坂」を登って来たらしく、とても楽しめたそうなのでうらやましくなり、ぼくも午後に「大門坂」を訪れることに決めた。素敵な時間を共有しつつ、カフェを後しようとしたその時、ブラタモリの広告が目に止まった。なんと偶然にも、ブラタモリが次の土曜日に熊野那智大社の回をやるらしい。これは見逃せない!と心の中で意気込んでいた。
・熊野牛のハンバーグと温泉
この日のお昼は那智勝浦の港町で、雑誌に載っていたランチで熊野牛のハンバーグを食べられるお店「ステーキハウス ひのき」に入った。これがまた本当に美味しくて、紀伊半島は美味しいものばかりではないかと疑い始めていた。海もあれば山もあり、多種多様で豊かな食材が育まれる土地柄なのだろうか。昨日のマグロといい今日の熊野牛といい、食事に関しても満足しっぱなしだった。やはり日本の食事は美味しい!
熊野牛のハンバーグを食べた後は、「道の駅 なち」で日帰り温泉に入った。平日の昼間なので誰一人おらず、貸切で入浴することができた。内風呂と露天風呂があり、露天風呂からは川の景色が眺められ、のんびりできて大満足だった。その後に「大門坂」へ向かった。
・大門坂で過去と現代は繋がる
無料駐車場に車を止めて大門坂へと向かう。もう日も暮れかかっていたので人もまばらであり、まさに熊野古道らしい写真を撮るのに絶好の機会だった。車なんかなかった時代、古代より人々がこの階段を祈りながら登って来たのだと思うと、自分自身の一歩一歩の歩みにさえ歴史の重さが感じられるような気がした。どんなに科学技術が発達したとしても、自動車で頂上まで簡単に登れるようになっても、このように変わらず祈りながら熊野古道を歩いて行く人々の絶えないのは不思議なことだ。きっと合理的であることよりも、速いということよりも、便利であることよりも、もっと大切な何かがあるということにこの国も民族たちは気づいているのではないだろうか。
木陰に埋もれている暗がりの熊野古道をひとつひとつ登って行くと、自分が現代を生きているのか過去を生きているのかわからなくなる。心がちょっと油断してしまえば、もはや目の前に平安衣装を身にまとった巡礼者たちの姿が現れてくるようだ。そして現代を生きる自分自身も、古代の祈りの人々も、なにひとつ異なるものなんてないのだと気がつく。たかが便利になっただけで、速度が速くなっただけで、人間は傲慢になってはならない。
ぼくたち人間は、どんなに発展したのだと思い込んでいても、昔の人々となにひとつ変わらずに、ただ生まれて老いて病んで死んでいくのみである。そこになんの違いもなければ、古の人々を見下せる由縁もない。ぼくたちはなんの進化もなく、なんの退化もなく、ただ人間として、昔もそしてこれからも、変わりなく生命を運んでいく。そんなに簡単に人は変われない。古代と現代の境界線が薄らいでしまうのは、ここが「坂」という「境」だからだろう。
・清らかな水の祀り
那智の滝をもう一度見たいという思いは、以外にもその日の夜に叶えられた。ぼくは知らず知らずのうちに、ひとり夜の那智の滝を訪れていた。どうしてそんな行動を取っていたのか自分でも説明がつかない。何かに突き動かされるように、ぼくは入り口の鳥居の前に立っていた。鳥居から那智の滝までの長い道のりには、なにひとつ明かりがない。暗闇がぼくの行く手を深く閉ざす。常識ならば進入していくはずもない暗黒の道を、ぼくの足は勝手に進んでいた。
視覚が頼りにならずにぼくは五感を精一杯に開かせて、那智の滝へとたどり着こうとした。感じられるのは”気配”。なにも見えない暗闇の中に、熊野の木々の気配を感じる。もしも暗闇の中に物の怪の類がいても、気配で感じ取る他はないだろう。こんなに暗闇の中で、那智の滝も見えないのではないか。そんな疑いも不思議と起こらないままで、ぼくは滝へと歩みを進めた。暗黒の中の階段をひとつひとつ下る。そして目の前に現れたのは、紛れもなく流れ落ちる一筋の白い水の眺めだった。
暗闇の中でも本当に大切なものはおのずから見えるのだと、那智の滝はぼくに教えてくれた。あなたがこの美しい山の中で、真実に祀られているものの化身。この聖地の祈りの根源は、あなたという清らかな水。