昨日の陰鬱なオホーツク海のimageを心の裏に残したまま、ウトロ温泉の宿で眠りについた。女満別というところは暗い。知床半島というところは寒い。天気予報によると明日も雨であるという。明日も灰白の世界は続くのだろうか。7月にさしかかるという季節に、毛布を深くかぶりながら朝を迎えた。そして目が覚めると、そこはまったくの別世界に変わっていた。
雄大な知床半島の自然に抱かれて
・美しい知床半島の大自然
・北海道といえば海鮮丼
・フェリーから見るクマと大瀑布
・ウトロ温泉の街並み
・宇多田ヒカルの初恋
・美しい知床半島の大自然
目がさめると、なんと昨日とはうってかわって心地よい晴れの日和である。気温も春のように暖かい。天気予報でも雨だったので、喜びもひとしおであった。自然と心が躍ってくる。晴れている間に知床半島を見て回ろうと、足早に宿を出発した。
宿のおじさんの情報によると、ウトロバスターミナルから知床五湖までは直行のバスが頻回に運行しているようだ。その途中に知床自然センターという停留所があり、その施設のわきには山道になっている小道がある。その小道を辿っていくと、フレペの滝を望める展望台にたどり着き、そこからの眺めが最高だと言うのだ。ぼくは宿のおじさんのおすすめのままに、言われた通りの行程を辿った。そしておじさんに大いに感謝する結果となる。
知床自然センターは内容が充実しており、フレペの滝展望台だけを見たいからといって素通りするのはあまりに惜しい施設である。北海道の植物の特徴やエゾシカ、ヒグマの生態などを無料で学ぶことができ、時間があれば是非立ち寄りたい。
フレペの滝展望台までの小道に入ったところから、北の大地・北海道の大自然が始まった。
知床半島の中であればどこでも、ヒグマの出現には気をなければならず、小道でのヒグマ目撃情報も提示されていた。それによるとたった3日前に目撃されたばかりである。そんな道を進んでも大丈夫なのだろうか…と一抹の不安がよぎったが、大勢の人々が共に小道を進んでいくので心強く、心配の気持ちは緩和された。クマが人間のそばに寄ってこないためには、わざと大きな物音を立てて道を行くのがよいらしく、“クマよけの鈴”を身につけてチャラチャラと鳴らしながら歩いている人の姿も散見され、微笑ましい。
まわりを見渡してまず気がつくのは、木々の様子がぼくの知っている日本のものとまったく異なっていると言う事実である。滑らかな白色の幹み満たされた白樺の道が、どこまでも続いている。斑点のようにまばらに存在する薄焦げの茶色が、幹の白さをより一層強調している。木々は光にかざされて、軽やかに淡い黄緑色を呈している。幻想的で繊細な緑色だ。南国の荒々しく大胆な原色の自然を思い返しては、北の自然のか弱さ、そしてそれが大地いっぱいに広がってる力強さを感じていた。
淡くてまぶしい草はらの裏から、なにかカサカサと音がする。と思うと、大きなふたつの丸い瞳が、時が止まったようにこちらを凝視している。エゾシカだ!初めて見た!かわいい!ぼくは鹿が好きなのだ。奈良を訪れる度に鹿を眺めては、その都度新しい気持ちで心の中に愛らしい気持ちを募らせる。日本では、鹿は神様の乗り物だという。なるほどだからぼくの中にはこんなにも鹿を慈しむ気持ちが無尽蔵に生まれ来るのだろうか。とにかく北の大自然の中に突如として現れ出た鹿に感動し、その出会いに感謝した。
それは客観的に見てまるで、さながら野生のポケモン出現の場面であった。ポケモンGOなら迷わずモンスターボールを投げつけるだろう。ゲームのポケモンなら自分のポケモンとバトルさせるだろう。しかしここは現実世界。モンスターボールも手持ちのポケモンもありはしないのだ。今ぼくができるすべてのことは、ただひたすらに心の中で目の前にいるエゾシカを愛でながら、シャッターを切ることだけである。しばらく写真を撮っていると、他の人々も寄ってきた。ここに鹿がいますよなどと交流しながら、ぼくはその場を立ち去った。
次に出現したのは、雄大な北の大地に脈々と続く山並みだった。雲が流れ去り、晴れ渡った青い空に突如として姿を表した大山脈は、知床連山と名付けられており、手前の晴れやかで青々とした平野部分とは対照的に、薄暗い群青の色彩を帯びていることが、手の届かないはるか遠くに位置することを予感させ、神々しさを際立たせている。ネパールでポカラからヒマラヤ山脈を眺めた時の感覚に似ているものがある。現実的ではなく、世俗的ではまったくないのだ。
あまりに雄大な知床連山を横目に、平らで穏やかな遊歩道を進んでいくと、ついにフレペの滝展望台へとたどり着いた。それまでも北の大地の大自然で十分に感動させられていたぼくは、いくら北海道でもこれ以上感動させられることはあるまいと高をくくっていた。しかし、その軽薄な予想は簡単に打ち砕かれることになる。とうとうフレペの滝が姿を現したのである。
圧巻!こんな景色がこの世にあったとは!決して誰も寄せ付けることのない、海から直角にのびた断崖絶壁を、地下から湧き出た知床連山からの清らかな湧き水が、海へ激しく駆け下りるようにして大瀑布を作り上げている。言葉を失い、息をのむ光景だ。地下水は、清流から一気に海水に変わる。山の水から海の水への急峻な一瞬の転換。わずかながらにその境界線の役割を担っているのが、この大瀑布なのだ。山の水でもなく、海の水でもない。そのちょうど真ん中としての中点の存在をゆるされる。フレペの滝は神聖な聖域だ。この世でも、あの世でもない異郷だ。そのような聖域なくして、この世は存在をまともに保てないだろう。
帰り道、またエゾシカに出会った。エゾシカは出会える確率が高いらしい。たくさんの人々がその姿を見つけ、癒されていた。エゾシカに出会った人々は、ただ優しく眺めるだけで満足しているのだ。それにひきかえ、野生のポケモンが出現したらいきなりモンスターボールを投げつけたり、自分のポケモンと対決させるポケモンの世界は、人の心がとても荒廃しているなあと、ぼくは無駄な悟りを得たのであった。
・北海道といえば海鮮丼
ぼくはこの後、知床五湖へ行くか、フェリーで海から知床半島を眺めるツアーに参加するかで迷っていた。知床五湖は、ぼくが行った6月後半には熊の出現率が高いということで、最初の一湖以外の残りの四湖は追加料金を払ってガイドを必ず雇わなければならないという決まりがあった。そこまでして五湖を見たいかどうか、ぼくにはわからなかった。対してフェリーのツアーは、その開催自体が危ぶまれていた。ぼくが行った日は高潮で波が荒れており、フェリーが出られなくなるかもしれないのだ。実際に午前のフェリーツアーはすべて中止となっていた。このように、知床半島にはフェリーツアーを目的に訪れる方々が多くいらっしゃるだろうが、天気がよくても波の影響でツアーが中止になるという可能性も十分にあるので、その分余裕を持った計画を立てるのがよいと思う。ぼくは旅行会社に電話をかけ、昼からのツアーの有無を確認した。すると、15時からのツアーは開催されるという。そして、その当日で参加可能だという。ぼくはフェリーのツアーに参加することに決めた。
フェリーのツアーは3種類あり、港から比較的近くまで行っで帰ってくる硫黄山コース、中くらいまでで引き返すルシャコース、知床半島の果てまで行ける知床岬コースの中から選ぶことができる。それぞれ所要時間は1時間、2時間、3時間である。遠くへ行けばいくほど、時間もかかるが、クマに出会える確率が上がるという。そして知床半島奥深くにあるより多くの滝も見られる。ぼくはクマに出会えることを祈りながら、適度な中間のコースにした。値段は5500円。
さて、ウトロ温泉の街に戻ろうとしたが、知床自然センターのバス停の時刻表を見ていると、たった今、街行きのバスが出発してしまったところのようだ。ぼくは知床自然センターからウトロの街まで歩いて帰ることにした。
途中の道には、見晴らしのよい架橋がある。行きのバスの中でここからの眺めを写真に撮りたいと思っていたが、バスの中からではうまく撮れずにあきらめていた。願いは叶い、この展望をゆっくりとカメラに収めることができた。冷めた青い海とウトロの街の両方を高くから見渡せる絶景ポイントだ。
途中で海鮮市場のような店があったので、立ち寄った。北海道のことをあまり知らないぼくの脳内でも、北海道=海鮮丼の公式は成り立ったので、早速海鮮丼を注文した。北海道の海鮮丼って高いんだな…とぼんやり思っていた。しかし、その値段相応には美味しい。特にぼくはウニをあまり美味しくない食べ物と見なしながら人生を生きたのだが、北海道のウニは違った。独特のくさみがなく、とても新鮮で綺麗な味がした。北海道の海鮮はやっぱり違うんだなと実感していた。気になったのは鮭である。なんと、鮭が凍りついていたのだ!ぼくは店の人が解凍し忘れただけだろうと思い、我慢しながら氷のような鮭を口に頬張った。
海鮮丼を食べたり写真を撮りならがノロノロと歩くと、知床自然センターからウトロの街までは、約2時間であった。知床自然センターから歩いているのだと海鮮市場のおばちゃんに言うと、おばちゃんは驚きおののいていた。あまりそういうことをする人はいないらしい。しかし下りで歩きやすく、景色もいいので、時間が余って余って仕方のない人にはおすすめの歩行コースである。
・フェリーから見るクマと大瀑布
フェリーツアーが始まる15時までまだかなり時間があったので、港で時間を潰した。港からも先ほど見えた知床連山を望むことができ、その頂に雲が覆いかぶさったり、またのそのそと退いたりするのを、ぼんやりと眺めながら時間が経つのを待っていた。
15時になりツアーが始まる。ぼくが利用したのは「ゴジラ岩観光」という会社である。ゴジラ岩とはまさにゴジラの形に見える大きな岩のことで、ウトロの港の近くで見ることができる。
ツアー客がぞろぞろとゴジラ岩観光の待合所まで集まってくる。参加人数は数えられないほど多いが、順番として先に船に乗り込み席を確保できるのは、予約の早い人々である。予約順に、船に乗り込めるのだ。ぼくは当日の午前に予約したので当然最後尾のあたりだった。知床半島側の良席を確保したいという方々は、早め早めに予約しておくことをおすすめする。船の往復のうち、ガイドの説明は主に行きの船路の際に行われ、また写真スポットで船が止まってくれるのも行きのことが多いので、行きの時に知床半島側の席を確保するのがよいかもしれない。
フェリーに乗って船の上から雄大な知床半島の自然を眺める。先ほど間近で見たフレペの滝も、遠くからだとその全貌が認められ、物事は近くで見るのと遠くから見るのと、その両方を成し遂げてはじめて理解できるかもしれないと考えた。フレペの滝は、別名乙女の涙というが、それと比較するように、男の涙という滝もある。男の涙は非常に奥まった海岸沿いにあり、フェリーでもたどり着くのに苦労する滝だ。「男は隠れて泣いている」ということを暗示し、アイヌの人々がそのように名付けたのだという。ああアイヌの人々も、男は人前で泣いてはいけない、隠れて泣くものだという固定観念を持っていたのかもしれないなと、ぼくは感動していた。それは男は泣いてはいけないということを意味しているのではない。男は泣く生き物だということを前提として、しかし隠れて泣く生き物なのだと定義しているのだ。それがなんとなく、男に対する優しさだなと感じた。
最も形として美しいと感じたのは、カムイワッカの滝である。カムイワッカとは、“神の水、魔の水”を意味する。遠くから見ると、ぼくには神様の手のように見えた。整っていて美しい手の形である。アイヌの言葉には、いつも神様が出てくる。アイヌ(人間)とアイヌの神様は、とても存在が近いように感じる。神様がそばにいることが前提であり、神様のことを思っている。それはまた、日本人の古えの精神の姿かもしれなかった。
そして、幸運にも多くのクマに出会うことができた。クマは人間たちが侵入しない海岸を、我が物顔で大らかに歩いていく。知床半島は、クマの楽園なのだ。クマがクマとして、大自然が大自然として当たり前のように存在し、そのふたつが当然のように溶け込み、育まれている姿を見ると、それをとても尊く思う。ぼくは単焦点レンズしか持ち合わせていなかったので、クマはゴマ粒のような姿にしか撮れなかった。どデカいレンズを用意してクマや滝を撮影していたおじさんたちが非常に羨ましかったが、ぼくはあんなに大きなレンズを携えて旅行ができないということもわかっていた。
・ウトロ温泉の街並み
ウトロの街自体も特徴的な地形が重なっていて面白い。港の近くには様々な大岩の姿があり、港からの澄んだ青い景色もまた格段に美しい。
港近くには、知床半島らしい民俗的な土産物屋もあり、ぼくはここで鹿の角のキーホルダーを買った。普段ならば土産物など滅多に買わないのだが、知床半島の大自然の中の雄の象徴としての白い角を、日常生活でこの身に持ち合わせたくなったのだ。青色のビーズも原始的で素敵だし、角自体に茶色い筋が少し入っているのも、大自然の粗野な部分を感じさせ気に入った。
街中にはロシアのような建物もあった。この海の向こうは、もうロシアなのだ。山の水が突如として海の水に化すわけではない。滝という聖域があった。それと同じように、国境という人工の勝手な線に分断され、日本がsuddenlyにロシアへと変わるというのは人間の幻想である。徐々に徐々に、静かに静かに、日本はロシアへ変わっていくのだ。その中間の聖域の名のひとつが、知床半島なのかもしれなかった。
宿では鹿の肉や、北海道の海鮮を食べることができた。その中に、またしても氷漬けの鮭が登場したのだ!2度も鮭の解凍を忘れるほど、知床半島の人々もおっちょこちょいではあるまい。これは知床半島のそういう風習なのだと感じたぼくは、今度は間違った存在としてではなく、文化の中の正しい食べ物として、氷漬けの鮭を味わった。そして、やっぱり氷漬けじゃない方が美味しいのではと思った。
・宇多田ヒカルの初恋
ゆっくりと温泉につかってぐっすり眠り朝目覚めると、宇多田ヒカルのニューアルバム「初恋」の発売日であることを思い出した。ウトロにCD屋さんがなくても、今ではダウンロードできるから便利である。やはり知床半島の朝はまだ肌寒い。毛布にくるまりながら、浅い眠りの中で、初めての初恋を聞いた。聞きながら、淡く美しい光の中で、エゾシカが顔を出していた場面を思い出していた。これからはアルバム初恋を聞くときには、いつも心の片隅に愛らしいエゾシカが淡い緑の中に姿を現わすだろうと予感した。宇多田ヒカルの作品にはそのような力があるのだ。ぼくはDEEP RIVERを聞くと、いつも6月の雨がしとしとと心の中に降ってくる。その雨は何年経った今もやむことを知らない。この一生が続く限りは降り続く永劫の雨だろう。「初恋」の景色が、知床半島の朝の光の中であることを、誇らしく思った。
巧みなアルバムだなと思った。まるで職人のようだ。彼女はライブやTV出演などで自分を解放するよりもむしろ、狭い部屋の片隅で一人、自分と向き合いながら精密に曲を推敲するのが適しているのかもしれない。ぜいやーぜいやーぜいやーぜいやーという歌詞が胸に染み込む。まるで冥界へと誘(いざな)わされているようだ。ぜいやーという歌詞がいちばん好きだと、この時思った。