ぼくの旅のテーマは“その街に暮らすように旅する”ということである。
世界一周で「暮らすように旅する」ためには同じ場所に何泊するのが適切か?
・暮らすように旅するススメ
・暮らすように旅するには何泊が適切か?
・1泊
・2泊
・3泊
・4泊
・5泊
・異人(まれびと)のならい
・暮らすようにを旅するススメ
こちらの記事でも書いたが“周遊”というような、たくさんの街を急いでまわるせわしない形の旅はぼくには合わないと感じた。それよりもむしろ、何日間かその街に滞在し、その街にゆっくりと立ち止まり、その街の風景や人々の様子を静かに眺めたり時にはぼんやりとするのが好きなのだ。
そうすることで、急いで立ち去るだけではわからなかったその街の情景や深みを心の琴線に触れさせることができる。狭い路地に思うままに迷い込んだり、お気に入りの素敵な店を見つけたり、人々と心ゆくまで会話したりして、静かに密やかに異国の街並みへと溶け込んでゆく。このような感覚こそ、旅になくてはならぬものではないかあるまいか。
・暮らすように旅するには何泊が適切か?
ぼくはこのシベリア鉄道〜フェンランド〜バルト三国〜チェコ〜ポーランド〜ハンガリーの旅において「いったいひとつの街に何泊が適切か」をなんとなく検証してきた。もちろんそれは街の規模にもよるだろし、その時の気分にもよるだろうが、ぼくが旅するにおいてはこれが最適だなぁと感じたものがあるので、それをご紹介しようと思う。
・1泊
1泊ではあまりに短すぎる。さながら高速列車の走り去るごとく、その駅の音やにおいはもちろん風景ですら、人の心によく染み入る前に街を立ち去ることになるだろう。もしもそれが好きな街の感触を味わわせる街だったならばなおさら、ああもっとこの街にいられたら幸福なのにと後悔の念を残すだろう。1泊ということは、その街に丸1日留まっていられる日数は0日なのだ。0というのはないに等しいという意味の数字である。記憶の薄れ行くのも早く、ともすればあの街は訪れたけど何という名前だったっけと後につぶやかざるを得ない。旅のあはれを感じるとるにはあまりに短い期間である。
ぼくはドイツのクリスマスマーケットを周遊した際に、なるべく多くの街のクリスマスマーケットを見たい、なるべく多くの観光地を訪れたいという一心ですべての街を1泊にしたが、これは ぼくの性にまったく合わないとひしひしと感じた。まるで都会の中で広告が速やかに入れ替わるように、人々がたちまち交換されていくように、ネオンの光が移り変わるように、情緒のかけらを感じる暇もない旅に成り果ててしまうだろう。1秒ごとにかわりゆくインターネットの世界を凝視するのに必死で、見てはいたものの重要なことのなにひとつ覚えていないことに似ている。もしかしたら重要なものなんてなにひとつなかったのではないかと疑うほどに。
・2泊
1泊よりもだいぶマシだがこれもかなり少ない。一枚の麻の布を通りて部屋へと入り込む光のように、美しくはあるが夢見がちな日々が残るだろう。都会から少し離れた住宅地のような慌ただしさとせせこましさが押し迫る。2泊では、その街に丸一日いられる期間は1日間である。この“その街に丸一日いられる期間”というのが最も重要な概念だ。この期間の中で人は静かに確かに、その街の色彩を自分の色彩と符合させ自覚していく。この期間が0だと虚しい旅となり行くのは先に記述した通りである。
この期間が1日あれば十分ではないかと思われるが、人間にはふと未来を思い煩う癖がある。それは明日の旅立ちの準備を念頭に置かなければならない分仕方のない性質とも言える。その街に丸一日入られる期間が1日だと、次の日には慌ただしい出離の日が待ち構えている。「もう明日にはこの街を出なければならないのか」「準備をどうしよう今夜のうちにしておかなければ」「バスで食べる食べ物や飲み物もスーパーで調達しよう」などと考え、もはや意識はこの街に中にあらず、明日の出離の中にある。それではこの街をゆっくりと心から眺め、この街に溶け込むような旅ができるはずがない。なにせ心はこの街にないのだから仕方あるまい。しかし旅立ちの準備の意識は重要だ。
街にいながら心街におらず、まるで夢でも見ているような感覚で旅の日々は過ぎ去っていく。ぼくは今回の旅ではプラハで2泊を経験したが、もっと多くてもよかったと心から思った。何度も来ている街なので2泊で十分だと思ったのだ。しかしこれもこれからの欧州での旅路を見越していた上での選択でもあり、わずかな時間でもあの幻のような街に留まれたことを幸福に思う。
・3泊
ここまでくるとさらにマシになってくる。しかしほんのわずかに“暮らすように旅する”感覚にはたどり着き得ない印象だ。絹の布に反射した光が美しく翻るように、確かな光の中にまだ幻の夢の気配が漂っている。“その街に丸一日入られる期間”は2日であり、一般の旅行であれば十分な気配も漂う。休暇の旅行で欧州を慌ててまわる人々ならば、ひとつの街に3泊は十分すぎるほどかむしろ多い方だろう。この文章はぼくのように、一般的な社会的時間の観念を旅立ち、旅するために時間を無限に使えるいわゆる“旅人”にとっての感覚について書いていることをご容赦願いたい。
しかしこの“その街に丸一日入られる期間”が2日というのは、未来からの呪縛を解き放たれるのに十分な時間には届かない。その街に丸一日入られる期間2日のうち1日は、この街に心から留まれる時間である。そしてもう1日は先ほど書いたように明日の準備に精神を費やされもはや心はこの街にいない時間である。街へと心から溶け込める時間が1日しかないという事実が、3泊を「暮らすように旅する」ために適切であると証言することからぼくを遠ざける。もう少し、あと少しあったなら。
この旅の中ではポーランドのクラクフの中で3泊を経験した。慌ただしい師走の末の気配の中、心さえ少し流れが加速し、完全には落ち着くことはできなかった。
・4泊
4泊は最も適切だ。短すぎずそして長すぎずもしない。ちょうど洗練された幾何学模様の着心地のよい木綿のサマーニットを着ているような感覚である。この期間を旅にまとうのが最高に気分がよく、これまでもこれからも時を貫いてまといたいと願ってしまう布だ。“その街に丸一日入られる期間”は3日間、そのうち心が街に留まれる期間は2日間。その上ここまでくると街に心をなじませることにも慣れてきて、最後の3日目でさえ未来のことを案じながらも、この街に溶け込む感覚を忘れることなく十分に発揮できるため、実質3日目でさえ心が街にいられる日へと変換される。まさに的確、長すぎず短すぎず、寸分の狂いなく精神と街が調和する幻想的な時間であると言えよう。
ぼくは今現在ブダペストに4泊しているが、やはり4泊は丁度いいという感想だ。4泊あれば旅することだけではなく自分の時間を持つことができるのもいい。このようにブログを書いたり自分の用事を済ませたりできるのも4泊の長所だ。それ以下だとこの街にいられる時間が短いからもったいないという思いが発生し、無理矢理街に目を向けさせられるような圧迫感がある。しかし“その街に暮らす”というのはそのようなことではないはずだ。その街に住んでいればもちろん美しい街を眺め遠い日々に思いを馳せたりもするが、自分と向き合う自分だけの時間を作り、そして創造することも無理なく可能なはずである。それを実現させてくれるのは4泊であり、ぼくは4泊という期間をこよなく愛する。
・5泊
5泊も4泊と同様に“暮らすように旅する”ためには適切である。しかしここまでくると旅するというよりも暮らすということの方が先立ってしまい、ただなんとなくその街にいるという気配が高まってしまう危険性もある。暮らしの中に旅を取り入れるわけではなく、旅するという感覚の中に暮らすという感触を取り入れるためには、ある程度の新鮮な変化も必要だ。
ぼくはタリンの街に5泊したのだが、これはあまりにも多すぎたと感じてしまった。まるで首の部分の伸びきったTシャツを着ているような感触である。タリンはもちろん幻想的で不思議で魅力的な街だったが、あまりに長く留まりすぎるとその情景が薄れてしまう恐れもあったのだ。柔らかな感性を保ちつつ旅を継ぐためには、あまりに長い滞在は適さないどころか、この先訪れる素晴らしい自分に合った街並みでの時間を短縮することになりかねない。
・異人(まれびと)のならい
もちろん旅をすることは“今を生きる”ということなのでそのように未来を思い煩う必要もないが、ぼくは変化を重視する種類の人間だ。自分という核を保ちそれを日常の中で常に表現し続け「この人はこのような人なんだ」と人々に決めつけさせておいて、急に自分の色彩をガラリと変えて世に瞬きのような衝撃を与える。そんなまるで日本の民俗学でいう“異人(まれびと)”のような精神を生まれた時から担っているのだ。服に関しても性質に関しても旅に関してもそうだ。あるひとつの確かな不動の核の中で、万華鏡のように世界を変化させ続けることによって精神を保っているのだ。
そのような種類の人間においてあまりに久しく沈殿したような時の停滞はゆるされるものではない。この街でゆっくりとしてもはや暮らすのではないかとあたかも思われたそのときに、ふと街を去り自らの精神に衝撃を与える。そのように目まぐるしく変わり続ける人生の中で、それでも自らの根源に燃え盛り止むことのない確かな炎を灯火として、漂泊の旅を続けよう。