大分県別府の秘湯「へびん湯」が大自然に囲まれた絶景温泉だったことと十牛図「返本還源」の予感

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大自然の中で動物に帰ったみたい!

大分県別府の秘湯「へびん湯」が大自然に囲まれた絶景温泉だったことと十牛図「返本還源」の予感

・新たなる秘湯「へびん湯」の情報
・とり天発祥の店「東洋軒」で昼食を
・グーグルマップでもたどり着ける「へびん湯」
・「へびん湯」のスリランカ人の団体
・秘湯は「返本還源」への帰り道

・新たなる秘湯「へびん湯」の情報

大分県別府の野ざらしの秘湯「鶴の湯」で教えてもらった別府のもう一つの秘湯「へびん湯」が、大自然に囲まれたものすごく景色のいい温泉だというので、「鶴の湯」の後に訪れてみることにした。

湯布院の温泉で秘湯「鶴の湯」を教えてもらい、「鶴の湯」では「へびん湯」を教えてもらい、このようにして秘湯をめぐる旅は連鎖していきもはや後戻りはできない心境だった。

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・とり天発祥の店「東洋軒」で昼食を

「へびん湯」を訪れる前に、別府名物とり天発祥の店「東洋軒」で昼食を取ることにした。その店に到着してみるとそこが本当に混んでいて、約1時間半くらい待つはめになってしまった。お盆だったからこんなにも混雑していたのだろうか。待っている間もお茶をくれたりして店側も気を使ってくれていたが、別府のお店でこんなに待つことになるとは思わなかった。

やっとの思いで「東洋軒」に入った時には待ちすぎてお腹が空きすぎていたので、とり天と麻婆豆腐のセットを頼んでしまった。とり天も麻婆豆腐もボリューム満点で美味しかったので満足して「へびん湯」へ向かった。

 

 

・グーグルマップでもたどり着ける「へびん湯」

「へびん湯」は「鶴の湯」とは違って、Googleマップに単純にしたがっていけばたどり着ける場所だった。ただしものすごく山奥にあり、行くまでの道が途中からとても狭い1本道で、対向の車が来たらどうしようと戸惑ってしまうほどの道だった。幸い対向車も来ず、無事に「へびん湯」にたどり着くことができた。しかし「へびん湯」では予想外の出来事が待っていた。

 

 

・「へびん湯」のスリランカ人の団体

「へびん湯」の温泉が見える前に目の前に広がってきたものは、日本的な美しい山々の緑と、清らかに流れゆる冷たく澄んだ川の流れだった。そしてその先に「へびん湯」があったが、そこがいやに騒がしかった。よく聞いてみると外国語が飛び交っている。こんな秘境に外国人が来るのかと思って見てみると、そこにはなんと10人くらいのアジア人の団体が入浴していた!しかもアジア人と言っても韓国人とか中国人とは明らかに違う。東南アジアでもないどちらかというと中央アジアのような雰囲気を醸し出す人々だった。ぼくは最初インド人かな?と思ったが、聞くとスリランカ人であるという。

彼らはみんな旅行で来たわけではなく福岡に住んでおり、日帰り旅行で別府まで来たというのだ。なんでも福岡でITの学生をしているらしく、もう2年間住んでいるようで最初は英語で話していたが彼らが日本語で話せることがわかったので日本語で会話した。日本に住んでいるからこんなマイナーな秘湯の情報まで持っているのだろうか。彼らは大自然の中でスリランカの楽器を叩いたり歌を歌ったりしてものすごく自由に温泉を楽しんでいた。

スリランカにも温泉はあるようだが、裸で入るという習慣はないらしく、彼らはみんなパンツのままで温泉に入っていた。日本に来て2年も経っているのだから裸で温泉に入ることにも慣れるのかと思ったが、どうしてもそれは恥ずかしいと感じるらしい。訪れた日本人たちはみんな裸で入っているのだが、スリランカ人は全員パンツを履いていて、なんだか裸であるこちらの方が原始的で非文明的な感じがしていたたまれない思いがした。ここは日本の温泉で、日本の習慣にしたがって入浴している日本人のこちらの方が正しいという理論はもっともなことだが、囲いも何もない大自然の中の秘湯で、裸になっている存在とパンツを履いている存在のどちらが正しいのかわからなくなり頭が混乱した。しかしそのような心の迷いも、スリランカ人の団体が去った後は全くなくなってしまい、静かに秘湯の雰囲気を楽しむことができた。

 

 

・秘湯は「返本還源」への帰り道

 

「へびん湯」は人里離れた静かな山奥の清流のすぐそばに存在する、4つの湯船を持つ本当に”秘湯”と感じられるような温泉だった。上から温かい温泉が流れ出しており、下の湯船に行くにしたがって少しずつぬるくなっている印象だった。ここは「鶴の湯」と同じように囲いもなければ料金を支払う必要もない。ただ開放された脱衣所があるだけの野生的な温泉だった。

それにしても美しい清流のそばで開放的に温泉に入れるという経験は尊いものがあった。ぼくは日本の根源には何か清流のようなものを感じる。日本人の奥底には神聖な森が今も存在し、そこに流れている清流が心の拠り所として機能しているのではないかと感じられるのだ。それは自分が清流の極めて美しい紀伊山脈に生まれ育ったことに起因しているのだろうか。しかし日本の山々の水はどこへ行っても美しいように感じられる。

 

奈良県の秘境十津川温泉にも、清流のそばで入れる露天風呂に入ってそこもお気に入りだったが、こちらの「へびん湯」は清流に直接そのまま触れられ、温泉の熱さに飽きてしまえばそのまま清流で遊ぶことができるので、大自然との密接さで言えばこちらの方が上になるだろう。

秘湯というものは素晴らしい。むしろ神聖ささえ感じてしまうほどだ。古代の日本人もこのような神聖さを温泉に感じたからこそ、こんなにも温泉が大好きな習性が身についたのだろうか。大自然の中で、まるで動物のように生まれたままの姿で戯れ、語り合うことができる。こんなことが他の国でも可能なのだろうか。

禅の教えを表現するものとして十牛図というものがある。そこには悟りへと至る境地が、10の牛の絵を用いて表現されている。自分と他者の区別すら忘れてしまう、悟りの境地のような「人牛倶忘」。しかし悟りとはまだまだその段階では終わらない。自分と他者の境界線を消し去った後にさえ立ち現れて来る世界がある。それが大自然へ帰って行くところの「返本還源」だ。ぼくたちは人間はその他の自然の生物とは違い、何か特別な生物だという誇りを持って生きている。人間は哺乳類なのに「人類」などと、自分たちだけは特段違った性質を持つものだと区別し、境界線を敷き、その他の自然と自分たちを区別している。しかし真実は、他の自然と何ら変わるところのない存在なのだ。

ぼくたちがどんなに知識を身につけようとも、どんなに賢く振舞っても、よく見てみれば結局は、自然の中で生まれて食べて寝て排泄して生殖して老いて病んで死ぬだけの他の動物と何の変わりもありはせぬ。ぼくたち人間は孤独な仲間はずれではなく他の自然と一体であり同様なのだということに、秘湯は気づかせてくれる。秘湯の中で他の自然との境目も柵も囲いもなく、大自然の中で衣も完全に脱ぎ捨てお湯に浸かっていれば、自分がただの単なる野生の動物だという事実が露わになってくる。そしてその事実の露わさを他の人々と共有し、それでいいのだと安心する。大自然の中の秘湯とは、十牛図の「返本還源」への道を指し示してくれるような、大いなる神聖さで満たされている。

 

 

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