他人を救う前にまず、自分自身の魂を救い出せ。
医師として他人の病気や命を救う前に、自分自身の魂を救わなければ真実の救済は訪れない
・自分を大切にするよりも他人を大切にする方が称賛されるべきだというのは本当か?
・労働とは他人の役に立ってお金をもらうこと
・自分自身を救い出す前に、医師として他人を救うことへの違和感
・他人を救うという行為が成立するためには、その土台として自分自身が救われていなければならない
・自分を究極的に愛することがなければ、本当の意味で他人を愛することはできない
目次
・自分を大切にするよりも他人を大切にする方が称賛されるべきだというのは本当か?
人間の世の中では、他人を助けるという行為が非常に重要視されている。他人を助けようとする者、他人の役に立とうとする者、他人を救おうとする者は無条件に称賛され、アニメや漫画や映画の物語の主人公なんかも基本的にこの”他人を助けたい”という気持ちを強く持ち合わせている。他人を助けたい、他人の役に立ちたい、他人を救いたいと願うことは立派な人間としてなくてはならない要素であると考えられ、またそのような気持ちを持たない者は人間として失格であるという気配すらこの世に蔓延している。
一方で自分の利益を考えること、自分を大切にするということ、自分を救い出すことは、自分のことしか考えていないような人間として見下されるような傾向が強い。「ぼくは他人を大切にして、他人の役に立ちたいんだ!」という人物が模範的な正義の味方の見本として物語の主人公になることはあっても、「ぼくは自分を大切にして、自分の役に立ちたいんだ!」と言い放つ人物が主人公になる物語はまずないだろう。むしろ後者は自分勝手な人間だと非難される対象となる可能性が高い。このように世間の空気というものは他人を大切にし他人の役に立つ者をやたらと称賛するのに対して、逆に自分を大切にし自分だけのことを考えている者は蔑まれる運命にある。
しかしよくよく考えてみればおかしなことだ。他人を大切にすることだって、自分を大切にすることだって、”ひとりの人間を大切にする”という観点からすれば何の違いもない全く同じ行為だ。ひとりの人間を大切にしながら生きることは、たとえそのひとりの人間というのが自分であろうが他人であろうが、どちらにしても素晴らしい人生ではないだろうか。それなのにそのひとりの人間というものが他人の場合はものすごく称賛されて、一方でそのひとりの人間というものが自分だった場合にだけ自分勝手だとむやみに否定されるというのは納得がいかない。自分であろうが他人であろうが、ひとりの人間を大切にしながら生きている人を差別することなく称賛すべきではないだろうか。自分を大切にしながら生きている人は、他人を大切にしながら生きているのと全く同じほどに素晴らしいのではないだろうか。
・労働とは他人の役に立ってお金をもらうこと
あらゆる労働は、他人の役に立つという性質を持っている。自分には他にやりたいことがあるのにそれを我慢して、敢えて労働として他人の役に立つことや他人の利益になる行為をするからこそ、その対価として給料を受け取り、そのお金を使って食物代や着物代や家賃を支払い、人間らしい生活を営んでいくというのがごく一般的な人間の生き様だ。
そしてぼくも医師という職業を通して、病気を治したり命を救ったりして他人の役に立つことを生業としている。病気の苦しみから解放されたい、痛みや苦痛を取り除いて健康な生活が送りたい、そして死にたくないというのは、人間が動物として持っている野生の本能から去来する最も根本的で最も切実な願いだ。死んだら人間は何もできない。全ての人間の行為は死なないことを基本としているからこそ、死なせない、死から救う、さらには病気すら取り払い健康な状態を取り戻すために労働する医師は、言うまでもなく最も重要な職業のひとつだと見なされており、それゆえに責任や労働負荷も大きい。
・自分自身を救い出す前に、医師として他人を救うことへの違和感
ぼくが医師として労働するにあたって違和感を覚えていたのは、他人を病気から守ったり他人の命を救ったりする前に、自分自身の魂が救われていないということだった。人間には他人には決して見えないような魂を滅ぼされるほどの痛みや経験や深い傷があり、そういうものがなく気楽に生きてきた人間ならばすぐにでも他人を助ければいいのかもしれないが、そうではなく魂が息もできずに救われていない状態であるのに、他人なんか救っている場合なのだろうかと常に感じていたのだった。
そもそもなぜ自分を救い出す前に、医師として他人を救い出さなければならなくなったのだろう。それは人間ならば労働すべきだと社会や世の中がぼくたちに教え込んできたからだ。高校を出て、大学の医学部に入って、卒業し、医師国家試験にも受かったならば医師としてすぐにでも労働すべきだという一連の流れが既に社会的に出来上がっていた。そのレールの上にぼんやりと乗っかって進んでしまうと、自分自身が救われてもいないのに他人を救う羽目になってしまうのだ。
資本主義社会ではお金を稼いで、お金をたくさん持っている人が一番偉い。油断しているとぼくたちの人生の目的はお金を稼ぐことだと思い込まされてしまうだろう。お金を稼ぐための唯一の方法は、多くの人々にとって労働だ。お金を稼ぐことが人生の目的だと潜在的に植え付けられたぼくたちは大人になったと同時に自然と労働に駆り出され、知らない間に他人の役に立つように誘導されているのかもしれない。
・他人を救うという行為が成立するためには、その土台として自分自身が救われていなければならない
自分自身を救い出す前に、他人を救っていてもいいのだろうか。自分自身のために生きる前に、他人のために生きてもいいのだろうか。社会的常識を植え付けられたままであるならば、その答えはYESとなるだろう。なぜなら社会の常識的には、自分を救うよりも他人を救うことの方が高尚で価値がある尊い行為とされているからだ。しかしぼくは社会的常識から解脱し、自らの思考によって、自分を救うことも他人を救うことも同等の価値がある素晴らしい行為だという結論を導き出した。自分を救うことにも尊い価値があり、他人を救うことにも尊い価値があり、そこに全く差など存在しないのだとしたら、ぼくは他人を救う前に、自分の魂を救い出してやるべきだと思う。世の中の常識に惑わされて思考停止したままで知らず知らずのうちに労働し他人の役に立つよりも前に、まずは自分自身のために精一杯生き抜くことの方が先だ。
自分を救うことにも他人を救うことにも同等の価値があるだろうが、立体的な立ち関係は等しくない。すなわち他人を救うという行為の下には、確固たる”土台”として自分を救うという行為が君臨しているのではないだろうか。つまり他人を救うという行為は自分を救うという行為を成し遂げてこそはじめて成り立つものであって、自分が救われてもいないのに他人を救おうとしても、土台としての自分を救うという部分が脆弱で不安定でグラつきを起こしてしまえば、他人を救うという行為も偽物として諸共に儚く崩れ去ってしまうということだ。自分のためではなく他人のために生きなければならないという常識に囚われ、人生の目的はお金を稼ぐことだという迷妄に惑わされ、早く労働し早く他人の役に立ち早くお金を稼がなければならないとけしかけられ、自分を救い出すという土台の準備すらままならないままで他人への救済を図ってしまうと、確固たる土台を持たない空中楼閣のような偽物の救済が出現してしまう。
・自分を究極的に愛することがなければ、本当の意味で他人を愛することはできない
真実の救済は、自らの魂を救い出した後にこそ訪れる。他人を救うということは、紛れもなく素晴らしいことだ。それ自体を否定する気は毛頭ない。しかし他人を救うということは、本当にただ単純に他人を救おうとして実現できる簡素なものだろうか。他人への真実の救済とは、自分のために徹底的に必死に生き抜いた先に立ち現れる異郷ではないだろうか。
自分自身と向き合い、自らの内面の宇宙を旅して、自分の運命や使命と対峙しなければ、自らの魂を救い出すことは難しい。自分のことだけを考え、自分だけの役に立ち、自分だけを大切にし、自分のために徹底的に生き抜いた先には、矛盾するように他人への究極的な慈悲が出現する。自分と他人とは深いところで繋がっており、自分というものの最果てには他人がいるのだ。自分というものを徹底的に追求した時、自分という存在を突き抜けて不意に他人という存在へと行き着き、自分と他人は円環を描くように連なるのだと気が付く。自分を究極的に大切にできる人は、実のところ、他人を究極的に大切にできる人なのだ。世の中には自分を犠牲にしてまで他人を大切にするという人々がやたらと称賛されているが、ぼくはそれを偽物だと思う。真実の慈悲を他人へと注ぐことができる人は、究極的な慈悲を自分自身にも常に注ぐことができている人だ。
人としても医師としても本当の意味で他人を救い出すために、まずぼくは自分自身の魂を救い出さなければならない。徹底的に自分自身のためだけに生きなければならない。他人や世の中のことなどふり返らずに、自分自身を追求しなければならない。自分のためだけにひたすらに生きている様子を見て、他人の役に立つための労働をせずに旅に出るぼくを見て、浮世の人間たちは非難を浴びせるだろう。自分のために生きることを我慢して他人のために生きる労働を選び取っている浮世の人々にとって、他人のことなど気にも留めずにただ一心不乱に自分自身を大切にし、自らの直感と魂の使命に向かって突き進むぼくの生き方は奇異に映るし妬ましくさえあるかもしれない。しかしぼくは確信している。最終的に真実の慈悲を他人へともたらすことができるのは、自分自身を大切にすることをおそれずに倦むことなく究極の慈悲を自分自身へ注ぎ続けた人間だけなのだと。なぜなら他人を大切にするという行為が成立するためには、自分自身を大切にするという確固たる土台が必要だということを知っているからだ。
自分を大切にすることがなければ、他人を真に大切にすることはできない。自分を愛さなければ、他人を本当の意味で愛することはできない。自分自身の魂を救うことがなければ、他人へと真実の救済をもたらすことはできない。
自らの魂を救済することは困難を極めるだろう。どんなに自分自身を大切にしたところで、この一生だけでは時間が足りないのかもしれない。どんなに世界中を旅して自分自身と向き合ったところで、この肉体と精神だけでは追いつかないかもしれない。隔絶された自分と他人、隔絶された今生と来生、それでも通底しつながり合うものを求めては、境界線のない旅路は続いていく。どんなに生と死を繰り返しながらでも、どんなに傷つきながらでも、あらゆる運命と宿命の波に飲み込まれつつ魂は巡礼と修行を繰り返し、やがて究極の慈悲の岸部へと、いつの日か必ずたどり着く。
・ぼくが旅に出る理由の記事一覧