日本昔ばなし「とうせん坊」の舞台!福井県東尋坊は死と隣り合わせの断崖絶壁の絶景スポットだった

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まじで落ちたら死ぬ恐怖の絶景スポット!!!!!

日本昔ばなし「とうせん坊」の舞台!福井県東尋坊は死と隣り合わせの断崖絶壁の絶景スポットだった

・日本昔ばなし「とうせん坊」のあらすじ
・日本昔ばなし「とうせん坊」は何をぼくたちに伝えているのか
・東尋坊の近くから見る海の朝日が美しかった
・東尋坊で「早起きは三文の徳」は本当だと感じた
・東尋坊は死と隣り合わせの断崖絶壁の絶景スポットだった!

・日本昔ばなし「とうせん坊」のあらすじ

「とうせん坊は心のねじれたひねくれ者だ。心の裏ではいつも人間たちを呪い続けていたのだろう。一枚刃の高足駄をカタカタと鳴らせながら村々を遅い、人々を襲った。馬や犬を殺し村中に火をつけて回った。」

このような恐怖のナレーションから始まる日本昔ばなしを見たことがあるだろうか。「とうせん坊」という福井県の昔話である。「とうせん坊」のあらすじは以下のようなものだ。

とうせん坊はかわいそうな男の子だった。生まれた時から父親も母親も知らず、ウスノロの大男であるとうせん坊は寺に預けられたが子供達に「大飯食らいの役立たず!」と囃し立てられ、いじめられ続けた。しかし意気地なしのとうせん坊は反抗もできずただただ泣くだけだった。こうして寺にいる間も一行のお経を覚えることもままならず、小僧や和尚に散々いじめられ、とうとうそのお寺からも追い出されてしまった。

その後とうせん坊は観音堂に100日間のおこもりをした。「観音様、どうかオラに100人力の力をください。天下一の力持ちになって世間の人をあっと言わせてやりたい。」と観音様にお願いした。その日の夜、夢の中で観音様が鞠をついており、その鞠を食べるととうせん坊は100人力の力を授かった。

秋になると神社の奉納相撲があった。とうせん坊は土俵に上がり、次々と相手をなぎ倒し、何人もの男たちが血を吐いて死んでしまった。殺すつもりはなかったのに「人殺し!」と人々に責め立てられ、とうせん坊は山の中へ逃げ込みひとりで暮らし始めた。二度と里へは帰ってこなかったが、村人たちはとうせん坊の住処を見つけ出し、鍋の中に糞を入れたりして嫌がらせを続けた。この時からとうせん坊は見境なく暴れ始めた。

村や町を駆け巡り、人や馬を殴り殺し、家に火を放った。とうせん坊は誰もが恐れる完全な悪人になった。何年かして、とうせん坊は越前三国の浦に住み着いた。ここには東尋坊という天下の奇勝があり、とうせん坊はこの景色がいたく気に入っていた。ふらりと東尋坊を歩いていると宴を催している人々に誘われて共に酒を酌み交わした。今までは自分を見ただけでみんな逃げてしまったので、優しくされたことが嬉しかった。酒を飲む眠りにつくと、夢の中で見たこともない母親に子守唄を歌ってもらっていた。

しかし目を覚ますととうせん坊は身体中を縄で縛られており、東尋坊から投げ落とされ、あえなく死んでしまった。とうせん坊の怨霊は今も北国の海にさまよっている。人々は春の荒れ狂う季節風を、「とうせん坊」と呼んで恐れたという。

 

 

・日本昔ばなし「とうせん坊」は何をぼくたちに伝えているのか

ぼくはこの日本昔ばなし「とうせん坊」の物語を見たとき、なんて救いようのない話だろうと思った。昔話や民話の中には、正しいことをしたからよいことが起こったり、悪いことをしたから災いが降り注ぐという単純な因縁の話ではない、現実的で冷たくて人の世の有様や複雑さを教えてくれるような物語がたまに存在する。この「とうせん坊」もまさにそのような部類に入るのではないだろうか。

とうせん坊は最初からかわいそうな運命を背負っていた。父親も母親もおらず、さらには気弱な性格もありいじめられっぱなしで悲しいことしか起きていない。かわいそうな運命を背負っている子供ならば、物語の結末では救われればいいのにと願ってしまうのが人情だが、そうはいかなかった。とうせん坊は人の世の冷たさと残酷さに打ちのめされ、やがて神通力で強力な力を手にするが、その力も人の役に立つためではなく、復讐としての暴力や人殺しへと導かれてしまう。そして人々から憎まれ、恨まれ、最後には東尋坊から落とされて殺されてしまうという、救いも何もない悲しい話だった。この民話は結局、ぼくたちに何を伝えたいのだろうか。

ぼくがこの物語から感じ取ったのは「人はきちんと愛されなければやがて我を失う」ということだった。人間というものはほとんどの場合、赤ちゃんの頃からお母さんやお父さんの愛情を受けて育つ。人間は人生の初期の段階で、この先の人生でこれほどはないだろうというくらい見つめられ、愛されるのではないだろうか。しかし赤ちゃんの頃のこの”愛される”という感触が、実は人生では最も重要になってくるのではないだろうか。この”愛される”という感触がきちんと心の中に残っていれば、どんなに大きくなって大人になって、悲しいことや否定されるようなことがあっても、この「自分はきちんと愛された」「自分は愛されるべき存在なんだ」という気持ちを拠り所として、自分自身を立て直すための大いなる助けになるのではないだろうか。

逆に言えば幼い頃から愛されることがなかったり、否定ばかりされたり、両親の仲が悪く安定した愛情を供給されなかった場合、その子は大人になって何か人生につまずいたとしても、自分を立て直すための支えが心の中に見つからずに、精神を崩壊させてしまう確率が高くなるのではないだろうか。

答えなんてないだろうが、ぼくはこの「とうせん坊」の物語から、人が愛されることの重要性、人が肯定されることの重要性が伝わってくるような気がする。この「とうせん坊」では愛されること、肯定されることがなかったから、どんなに力を授けられても自分を支える術も知らずに、自らを崩壊させていく道へと足を踏み外していったのではないだろうか。

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誰が悪いわけでもなく、どうしようもなく、避けがたく、とうせん坊は悪人にならざるを得ない運命を背負った人物だと感じられた。そして日本の仏教には「悪人正機(あくにんしょうき)」と呼ばれる伝統的な親鸞の教えがある。悪人こそがこの世で救われるのだという教えだ。日本の民話「とうせん坊」は、まさに日本が生み出した独自の仏教思想「悪人正機」によって魂を救われるのかもしれない。

 

・東尋坊の近くから見る海の朝日が美しかった

「日本海沿いを北上する旅」の途中、ぼくはこの日本昔ばなし「とうせん坊」の舞台である、福井県の東尋坊を訪れようと思い立った。東尋坊付近に到着したのは夜中だったので、周辺で車中泊してから早朝に東尋坊を訪れることにした。東尋坊の周辺は意外と住宅地のような栄えた町で車中泊もしにくかったが、ぼくは海の近くのちょうどいい駐車場を見つけだし、そこで眠った。

朝自然と目が覚めると、海に映し出された朝日がとても美しかった。まさに日本海沿いの旅をしている素晴らしさが凝縮されたような美しい朝だった。

 

・東尋坊で「早起きは三文の徳」は本当だと感じた

「早起きは三文の徳」というが、まさに東尋坊を早朝訪れた時にこれは本当だと感じられた。東尋坊の周辺は有料駐車場ばかりだったが、午前5時だと早朝すぎてどこも営業していなかったのでどこも無料で停められた。

 

 

・東尋坊は死と隣り合わせの断崖絶壁の絶景スポットだった!

 

午前5時というかなりの早朝だというのに、意外と東尋坊は人が多いという印象だった。きっと東尋坊から朝日を眺めたい人が多いのだろう。

 

 

人生で初めて訪れた東尋坊は、まさに「天下の奇勝」と呼ばれるにふさわしい大迫力の大絶景だった!こんなの大丈夫?落ちたら絶対死ぬよね?という断崖絶壁が連なって、しかもその上を自由に歩き回れるようになっている。柵があるのかなと思ったが、柵は一切なし!結構危険でスリリングな絶景スポットだった!

 

こんなん絶対間違って落ちる人とか自殺する人とか出るやろ!日本昔ばなしでここから落ちるという物語が作りたくなるという古代日本人の気持ちがとてもわかるような気がした。まさにここを訪れた誰もが「落ちたらどうしよう」と一瞬考えてしまうほどの、自分の命が死と隣り合わせだと感じてしまう絶景スポットだからだ。東尋坊の断崖絶壁を渡り歩いていると、自分が生死の境を彷徨っているような、死をとても身近に感じてしまうような不思議な感覚を覚えた。ぼくはこのスリルを楽しめたが、高所恐怖症の人は本当に動けなくなるような気がする。

 

 

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