人はなぜ生きるのか?自らの「魂の使命」が見出せないのなら、孤独と絶望と喪失の中へと旅立て

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人はなぜ生きるのか?自らの「魂の使命」が見出せないのなら、孤独と絶望と喪失の中へと旅立て

・ぼくたちは何のために生きているのだろうか
・自分が何をしたいのかわからない、なぜ生きるのかわからずに心が彷徨う人々
・常識を打ち砕き孤独になること
・魂を引き裂かれるほどに絶望すること
・何もかもを手放して旅に出ること
・日本の伝統芸能「能」は何もかもを手放す神聖を指し示す
・純粋な直感と魂の使命への旅路は壮大な受難

・ぼくたちは何のために生きているのだろうか

ぼくたちは何のために生きているのだろうか。その答えを見出すことは簡単ではない。今は簡単に何でもグーグル検索できる時代なので、思考能力の低い浅はかな種類の人間であってもスマホを使えばあらゆる問題の答えが容易に手に入るかのように錯覚しているが、本当に大切なことは検索結果には決して出てこない。「自分は何のために生きているのか」という人間にとって最も重要で最も根源的な問いかけの回答を、電子的な検索が提示してくれるはずもないのだ。それはいつも、熱量を持って生きている人間の根底にしか立ち現れない秘密の暗号だった。

自分が何のために生きているのか、その答えが例えわからないとしても、生きている限り常に自分自身に向かって問い続けることが重要だ。問わない者は、人ではない。自分や他人や社会や世界に対して少年のように問いかけることを忘れてしまった人間は、やがて迷妄の荒野の中で立ち尽くすことになるだろう。しかし燃え盛るように問いかけ続けることを覚えているならば、たとえこの一生では辿り着けないとしても、巡り廻る魂の巡礼の旅の中で、やがてその感触を掴み取ることができるだろう。ぼくたちはまだ、旅の途上にいる。

 

 

・自分が何をしたいのかわからない、なぜ生きるのかわからずに心が彷徨う人々

「自分が何のために生きているのかわからない」「自分が何をしたいのかわからない」と心が彷徨っている人々に、この世を生きていると度々遭遇する。彼らは自らの根源から津波のように押し寄せてくる炎のような直感の声に、耳を澄ませることができないのだという。「自分は何がしたいのか」という問いかけはすなわち「自分とは何者なのか」という問いかけへと直結する。人間が心安らかに生きるための確固たる土台となる「自分とは何者なのか」という感覚を喪失しているということは、彼らの魂が浮遊し永遠に満たされることのない迷妄の世界を彷徨っていることを意味する。

彼らはぼくに、なぜ自らの直感を聞き取るための耳を持っているのかと質問する。しかしぼくは逆に、なぜ彼らには自らの心の声さえ聞こえないのだろうと不思議に思われてならない。自分のやりたいことを自分で知っている、自らの魂の使命を自分自身で把握している、それは人間にとって当たり前のことだろうと思い込んでいたからだ。しかしそれは当たり前ではないと知った今、自らの直感や心の声に耳を澄ますためには何が必要なのかを考察してみることにした。

 

 

・常識を打ち砕き孤独になること

人間が自らの直感を聞き取るために、最も妨げになるのは「人間社会」や「人間集団」だ。彼らはぼくたち人間の個人に様々な思い込みや洗脳や常識を植え付け、ぼくたちを身動きできなくさせる。その目的は彼らがぼくたちを都合のいい部品として支配すること、そして現代の資本社会の世の中においてより多くのお金をぼくたちから搾取することだ。画一化された教育も、お互いがお互いを見張るような相互監視社会も、理屈に合わない上下関係や礼儀やマナーも、全ては個人の幸福のためでばなく集団の利益へと導かれるように設計されている。やがて人間は自分のためではなく知らず知らずのうちに社会や集団のために生きるよう誘導され、それゆえに自らの直感や心の情熱の声を聞き取るための耳を喪失してしまう。

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ぼくたち自身も「人間社会」や「人間集団」を構成する一部であることから、彼らから完全に抜け出すことは困難だとしても、重要なことは思考停止して彼らに平伏することなく、常に注ぎ込まれる偽物の洗脳や常識に対して闘い続ける決意を持つことだ。ぼくは幼い頃から「それって本当なの?」と世の中のあらゆる常識や思い込みに疑問を持って生きてきたので、その反抗の炎が遂に表現として結実し、タイトルが全て「〜は本当か?」でまとめ上げられた「みずいろてすと」というブログとなった。ぼくはこの世で生きていて違和感を持った物事に対して随時「みずいろてすと」の中で燃え盛るような反抗と思考の文章を書き連ねているが、まだ全てを書き終えたわけではない。

世の中の常識や思い込みを信仰することなく、むしろ自らの頭で思考し闘いを挑んでいく論理的姿勢は、必ずや自らの純粋な直感の声を受け取るための受容体を取り戻すのに役立つだろう。ぼくも常識や思い込みではなく、常に自らの感性だけを信仰してきた。そしてそのような生き方は、人をやがて「孤独」の世界へと導くことになる。ほとんどの人間が常識や思い込みを信仰する中で、自分だけがオリジナルの思考の中で生きていくという経験は心の中に明白な孤独感を生み出すだろう。しかしこの孤独感が逆に「人間社会」や「人間集団」との適切な距離を取らせ、「人間社会」や「人間集団」から常に浴びせられる思い込みや洗脳や常識という穢れた雑音を取り除いてくれる。植え付けられるための雑音から解放された魂は、やがて純粋な直感の声を聞き取り始めるに違いない。

人間はお互いに協力し合わなければ生きられない集団的動物だ。それゆえに「孤独」は、人間社会の中で忌み嫌われることが多い。しかし集団というものから遠ざかり、孤独へと深く沈みゆくことでしか得られない悟りもある。無用な雑音を取り除き、ひとり坐して自らと対峙しなければ、見られない光がある。孤独とは静かで、清らかで、美しい感覚だ。しかし集団の中に隠れて怯えながら生きるしかない者にとっては、この孤独の尊い感覚を感受することは難しくなるだろう。

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・魂を引き裂かれるほどに絶望すること

魂を滅ぼされるほどに徹底的な絶望を受けることもまた、自らと深く対峙することに役立つ。「自分はなぜこの世に生きているのだろうか」「自分なんて生まれてこない方がよかったのではないか」そのような破滅的な問いかけが、やがて人を忘れかけていた根源と直感の世界へと引き戻し、やがては自らの魂の使命へと繋がる旅路へと導かれるだろう。

しかし徹底的な絶望と終わりなき悲しみを引き受けたくて生まれてきた者はこの世にない。徹底的な絶望を享受した者は誰でも、思いがけず避け難い運命と宿命によって、魂を引き裂かれるほどの苦悩を注ぎ込まれた挙句、それでも生き延びた代償として根源と直感の世界への鍵を与えられたに過ぎない。

徹底的な絶望を享受するかどうかはまさに運命と宿命の問題であり、人間の意思によって左右される要素ではない。根源と直感の世界への鍵を受け取ることは、人間ではない大いなる力によって選ばれた運命であり、それを受け取ることで導かれる世界を操れるほどの感性を持ち合わせていないのであれば、徹底的な絶望を受けない分選ばれない方が幸福だと言えるのかもしれない。

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・何もかもを手放して旅に出ること

ぼくたちはこの世に生まれ着いてから生きていくに従って、様々なものを獲得する。立ち上がるための筋力を蓄え、伝えるための言葉を覚え、聡明な知性を獲得し、やがては生きていくためのお金や安定した生活、生殖するための相手や子孫、賞賛や社会的地位なども次第に手に入れていくことだろう。獲得すればするほどに、ぼくたちは既に手に入れたそれらを持っていることが当たり前だと思い込むようになり、やがてそれらを手放すのが惜しくなり、もしも不意に失ってしまったならば大きな苦しみと喪失感を伴うだろう。ぼくたちは大人になるに従って手に入れることに執着するようになり、ぼくたちは手に入れるためにこの世に生まれてきたのだといつしか信じ込む。

しかしぼくたちが直感や心の声を聞き取り、自らの魂の使命を明らかにするためには、獲得するのではなくむしろ逆に何もかもを手放す必要があるのではないだろうか。獲得していくこと、蓄えること、多くを持ち富み栄えることは素晴らしいことだとぼくたちは教えられ、手に入れたものは何が何でも喪失したくないとしがみついてしまうけれど、果たして本当にそうなのだろうか。ぼくたちは多くを持つほどに雑念にとらわれ、執着心を生み出し、喪失感にもがき苦しむのが嫌で、むしろ純粋な直感や魂の使命へとたどり着くのを妨げられてしまっているのではないだろうか。本当に重要なことは、何もかもを手放す覚悟と勇気を持つことではないだろうか。

ぼくもあらゆるものを喪失すべきだという直感が働き、何もかもを手放して世界一周の旅に出たことがある。旅に出なければならないという純粋な直感の炎はそれ以前から感じていたが、旅に出るためにはお金が要るために医学部を卒業して医師免許を取得し病院で3年間労働していた。そのまま”普通に”働いていたならば、安定した”理想的な”未来が待っていたことだろう。病院で”普通に”勤務医として働いてキャリアを積んでいけば、そのまま医師として”普通の”高年収が約束され、多額の貯金や投資を安定的に行いながら家族を”普通に”養い、たくさんの人々を病気や死から救うことで感謝されつつ老後を迎え、金銭的にも心理的にもかなり余裕のある老後を過ごしながら、多くの家族に見守られながら死ぬことができたのかもしれない。

そのようなほぼ約束されたも同然な医師としての満たされた未来を捨て去り、収入源も人間関係も住む家さえも何もかもを手放し世界一周の旅に出るという行為は、一般常識的には理解されないことかもしれない。しかしぼくにとっては自らの根源から津波のように押し寄せる燃え盛る炎のような直感の声に従うことこそが、この生命にとって最も重要な使命であり、それに比べれば安定し満たされた医師としての輝かしい未来像は取るに足らない堕落のように感じられた。ぼくは安全な場所に留まりながら死なないために生まれてきたわけではないと感じた。それよりもむしろ死んでもいいから成し遂げたいと直感されるものへと突き進むことを望んでいた。死なないために生きていくとは、何と情熱も覚悟もない生き方だろうか。誰もが安定して死なないために生きている人間社会において、ぼくはその生き様を見下すわけでもなくただ純粋に臆病だと感じた。そして直感により何もかもを手放して世界一周の旅に出たぼくは、それによりより一層純粋な直感と魂の使命へと続く通路が広げられ、受容体が活性化されたという感覚を抱いている。

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・日本の伝統芸能「能」は何もかもを手放す神聖を指し示す

何もかもを手放して旅に出るということから思い出されるのは、古代より受け継がれてきた日本の伝統芸能「能」についてである。「能」の物語は、ワキとシテという2人の登場人物で成り立っている。ワキとは放浪の旅人、そしてシテとは異界の者だ。ワキはただの観光客としての旅人ではなく、何もかもを喪失してこの世では生きられなくなった者、もしくは運命的にこの人生では幸せになれないと決められた種類の人間が、世捨て人となって流浪の旅に出た存在であるという。そのようなワキが旅の途上でふとしたきっかけで異界へと迷い込み、異界の者であるシテと巡り会い、シテの抱え込んでいる問題を解決してやることを通して、また元の世界へと帰り着けるのだという。何とも不思議なこのような構成が、能の物語の典型パターンだという。

このような物語構成を内包している能という伝統芸能が、この日本という国において途切れることなく脈々と現代にまで受け継がれてきたということは興味深い。それはすなわち、この物語構成の中には日本人の心の機微に触れたり、もしくは日本人の精神を掴んで離さない何かしらの特別な感性が織り込まれていることを意味するのだろう。そしてその物語構成の中に「何もかもを失った旅人」が最も重要な登場人物として出現していることは何か意味のあることのように思われた。ぼくは医師としての安定した未来やこれまでのあらゆる関係性を打ち捨てて、自らの直感と情熱のままに旅に出る自分自身の魂が、遥か古代の日本から受け継がれてきたワキの魂と呼応しているのを感じていた。そしてワキという存在を古代から現在に至るまで支え続けてきた他でもない日本民族の精神こそが、”何もかもを手放す”ことの特別な重要性を感じ取っていたのではないだろうか。

ぼくたちはこの世に生まれてきた時、何も持っていなかった。そして様々なものを獲得していくが、結局は最期の瞬間には何も持たずにこの世を去っていく。無所有でこの世にたどり着き、そして無所有でこの世を去っていくというのなら、結局その間にどのような素晴らしい所有を築き上げたところで、そんなもの儚い無所有と同等ではないだろうか。ぼくたちは生きている限りずっと無所有であることを悟り、だからこそ無所有という真理に触れる行為すなわち何もかもを喪失して旅立つという行為は、純粋な直感と魂の使命へと繋がる入り口となり、生命として根源的で重要な境地へと達するための鍵であることを、古代からの日本人の精神は既に見抜いていたのかもしれない。そして紛れもなくその続きにいるぼくたちは、何もかもを手放して旅立つというその神聖を引き継いでいく。

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・純粋な直感と魂の使命への旅路は壮大な受難

こうして自らの純粋な直感と魂の使命に耳を澄ますための条件を主観的にまとめてみると、意外なことにぼくたちは孤独となり、絶望し、そして何もかもを喪失して旅立つべきだという結論に至った。つまり純粋な直感と魂の使命への旅路は壮大な受難であり、安らかに生きることができない過酷な魂の修行だった。誰だって受難など受けたくはない。しかし受けざるを得ない運命を背負った魂たちがこの世にはある。

純粋な直感と魂の使命のことなど、気にすることなく生きられたならそれほど幸せなことはないのだろう。しかし純粋な直感と魂の使命を受け取るべきだと生命に受難が注がれたなら、それは鍵を手に掴めと運命を仕組まれた合図だ。どうせ抗うことができない運命に巻き込まれ、勝つことができない戦で醜い火炎に焼かれたとしても、魂は滅することなく苦難を受け取るようにできている。それはきっと、鏡へとたどり着くためだった。

どのような魂に、受難は課せられるのだろうか。受難によって行き倒れる者もあるだろう。受難によって怯えて動けなくなる者もあるだろう。受難を受ける運命にあったなら、ぼくたちは受難によって試されている。どうしようもなく受難に打ちひしがれながらも、そのような孤独と絶望と喪失の中でしか果たせない飛翔を、成し遂げるだけの覚悟と情熱と怒りをぼくたちは燃え滾らせることができるだろうか。受難を通してでないとたどり着けない浄土がある。受難を打ち砕くほどの炎を身に纏わなければ見晴るかせない異郷がある。怠ることなく修行を完成させよう。魂は孤独と絶望と喪失があるからこそ、飛翔される天空の色彩を知っている。この世にはない天空の色彩を覚えている。

 

 

・ぼくが旅に出る理由の記事一覧

ぼくが旅に出る理由1:旅だけが時間の逆行を可能にする

ぼくが旅に出る理由2:旅は永遠へとたどり着く道

ぼくが旅に出る理由3:美しさでつながり合うもの

ぼくが旅に出る理由4:労働と消費を繰り返す輪廻からの解脱

ぼくが旅に出る理由5:旅で出会った美しい風景は、いつか悲しみに暮れた自分を癒してくれる

ぼくが旅に出る理由6:この世のあらゆる境界線の融解

医師として他人の病気や命を救う前に、自分自身の魂を救わなければ真実の救済は訪れない

 

 

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