ぼくが昔から好きで何度も何度も聞いた歌がある。木村弓さんの「銀のしずく」という歌である。
「アイヌ神謡集」の著者!知里幸恵銀のしずく記念館に行ってきた
・銀のしずく(歌)
・アイヌ神謡集 (本)
・知里幸恵銀のしずく記念館
・登別の地獄
・北海道の旅の終わり
・銀のしずく(歌)
“銀のしずくふるふるまわりに
金のしずくふるふるまわりに
銀と金とは金と銀とは
メビウスの輪となって果てしなく”
このような呪文にも似た言葉を、震えるように清らかな木村弓さんの歌声で聞くと、心が別の世界へと旅立てる思いがする。そしてこの言葉たちも素晴らしい。ぼくはこれを最初に聞いた時から、この言葉はこの世の真理をあらわしていると思いなし、それ以来自分の中で宝石のように大切な言葉である。この言葉がまさかアイヌの言葉であっただなんて、このときは知る由もなかった。木村弓さんが歌うために作られた、ただの歌詞だと思っていたのだ。ただの歌詞だと思っていたその言葉を、深く慈しんでいた。
・アイヌ神謡集 (本)
それがアイヌの言葉だと知ったのは、梅田のジュンク堂においてだった。ぼくは岩波文庫の本棚の前で立ちすくみ、目的の本をさがしていた。Amazonで見かけた「アイヌ神謡集 」という本のタイトルに惹かれ、翌日いそいそとジュンク堂へやってきたのだ。豊富に並べられた岩波文庫の、赤い背表紙を集合させた本棚から「アイヌ神謡集 」を発見し、引き出し、表紙の解説文を見て驚愕した。
“「銀の雫 降る降るまわりに 金の雫 降る降るまわりに」詩才を惜しまれながらわずか19歳で世を去った知里幸恵。このアイヌの一少女が、アイヌ民族のあいだで口伝えに歌い継がれてきたユーカラの中から神謡13篇をローマ字で音を起し、それに平易で洗練された日本語訳を付して編んだのが本書である。”
と書かれていたのだ。ぼくが自分の心の中で宝石のように大切に保ち続けていた言葉たちは、アイヌの言葉だったのだ。木村弓さんの歌と、アイヌ神謡集 の言葉が、ここ梅田のジュンク堂で偶然にも、いやおそらく必然的に、ぼくの意識の中へ結びついて流れ込んだ。
それにしても文字を持たないアイヌの貴重な神謡を文字として書き下ろし、しかもそれに日本語の翻訳まで付けたという、非常に重要な役割を果たした知里幸恵さんが、10代でその作業を終了し、そして19才の若さで亡くなったというのも衝撃的な事実である。この世へと生まれた役割がきちんとあり、そしてその使命を果たしたから、神様に連れていかれてしまったのではないかと疑いたくなるほど、ドラマチックな人生である。
・知里幸恵銀のしずく記念館
知里幸恵さんの記念館「知里幸恵銀のしずく記念館」が、千歳から割と近くにあるということがわかり、今しか行けないと思い行くことにした。彼女の成し遂げた功績や歴史を学ぶまたとない機会である。
知里幸恵銀のしずく記念館は、温泉地として有名な登別駅から徒歩でたどり着くことができる。時間はゆっくり歩いて20分ほどだろう。知里幸恵銀のしずく記念館は、不思議な銀色の水が流れる川のそばに建てられていた。
入場料は500円。2階建てのこじんまりとしたささやかな記念館である。木造で木の香りが芳しく漂っており、心安らぐ思いがする。知里幸恵さんの19年間の短くも濃厚な人生について、彼女にまつわる貴重な資料やわかりやすい掲示物を見ながら知ることができた。
彼女はアイヌの家系の中で育ちながらも、学校やキリスト教の教会で文字や学問をよく学び、またアイヌの口承叙事詩ユーカラの話し手である伯母の金成マツさんやアイヌ語しか話せないおばあさんモノアシノウクさんと同居した時期もあり、アイヌ語自体やアイヌ語の叙事詩をよく記憶していた。それらが運命のように繋がり合い結びつき、またアイヌの研究者金田一京助との出会いにより、彼女の大きな功績につながったのだという。
彼女は日本のアイヌ同化政策により、またアイヌが文字を持たないことにより、消滅しかけていたアイヌ民族の叙事詩ユーカラを、文字に書き留め、日本語にも翻訳し、後世に伝えることに貢献したのだった。彼女がいなければ、ぼくたちはアイヌ語で美しく紡ぎ出され、また口伝で引き継がれてきた神々しい詩の数々を、決して知ることができなかったかもしれないし、ぼくが銀のしずくという歌に巡り会うこともなかっただろう。
彼女はもともと体が弱かったにも関わらず「アイヌ神謡集 」を完成させるために、慣れた北海道の大地からアイヌの研究者金田一京助のいる東京へと移り住み、それを完成させた後に、心臓の僧帽弁の病気により、19歳の若さでこの世を去ったのである。まさに宿命的で、伝説的な一生だ。
ぼくはこれからも木村弓さんの銀のしずくを聞き続けるだろう。そしてあまりに深遠で美しい「アイヌ神謡集 」に親しみ続けるだろう。
“「あたりに降るふる銀の水 あたりに降る降る金の水」
といふ歌をうたひながら川に沿ふてアイヌ村の方へとまゐりました。さうしてアイヌ村に着きました。北の大きな村、廣々とした村を見ますと、昔の貧乏者が今は金持ちになってゐて、昔の金持ちが今は貧乏者になっているやうです。海ばたには子供たちがおもちゃの矢とおもちゃの弓をもって遊んで居ります。
あたりに降る降る銀の水が あたりに降る降る金の水
といふ歌をうたひながら村の上を通りますと、子供達は私を見つけて、一せいに申しますには
美しい鳥 神様の鳥
あれを射て一番先にあの神様の鳥をとった人は本当の勇者 本当の猛者だと・・・・”
・登別の地獄
せっかく登別駅までやってきたので、登別温泉にも行ってみた。こちらはどちらかというと知里幸恵銀のしずく記念館のついでだったのだが、なんとも不思議な光景を目の当たりにすることになる。
登別駅から登別温泉まではバスで行くことができる。登別温泉のバスターミナルから地獄谷までは歩いて20分もかからないくらいだろうか。途中までの道には閻魔大王や鬼たちが姿を現し、次第に地獄というムードが高まってくる。徐々に硫黄のにおいが立ち込めてきて、気づくと地獄谷は目の前だった。
見たこともない光景である。硫黄の煙が灰白色の地面からもくもくと立ち込めており、荒涼とした大地にほぼ植物の姿はない。まさに地獄といった雰囲気。このような地面の色彩があったのかと思われるほど、見知らぬ色彩の異様な世界である。灰白色、緑色、黄色などが混合し地獄谷を彩っている。自然の土の色でこのような色彩があるとは驚きだ。土といえば茶色ばかりだと思い込んでいた。硫黄という温泉成分が入り混じることにより、このような独特のにおいと色彩を呈しているのであろうか。
流れてくる水の色は、鉛色や乳白色の入り混じった緑色といった色彩である。決して生命が感じられるとか、健康そうな色彩ではない。地獄谷のわきには仏像を祀るための祠があり、地獄谷の風景と仏教が人々の間で結びついていたことが伺える。このような風景には、怒りを伴う不動明王が似合うだろうか。
不思議で幻想的な風景を最後に見られたことに感謝し、翌日には北海道を去った。
・北海道の旅の終わり
帰りの千歳空港で、北海道のお土産を買った。いろいろ買ったのだが一番美味しくて感動したのはまん丸の風船のような形をした牛乳プリンである。これが本当に滑らかな口どけで、濃厚なミルクの味が口いっぱいに広がる。適度に弾力性もあり、うどんでも固めの麺が好きなぼくの口に非常に合う。付属のカラメルソースをかけると、プリンの甘さとカラメルソースの苦さが、お互いを引き立て合い高め合って味覚へと迫ってくる。Boccaという牛乳プリンらしい。ほんとにおすすめ!
おもしろかったのは、北海道に行く前に銀座に立ち寄り、デパ地下好きのぼくは銀座限定の無駄に値の張る商品をいくつも買って帰ってきたのだが、この1000円以下の安価なBoccaの牛乳プリンが、その他のどの銀座の高級菓子よりも美味しかったという事実である。世の中所詮そんなものだったんだという悟りとともに、これからは限定品という言葉に騙されて無駄に高く大して美味しくもないものを買わないようにしようと心に誓った。素朴な北の大地北海道からの最後の教えであった。