縄文時代大好き!!!!!
縄文人の服装、生活、食べ物は?青森県「三内丸山遺跡」で縄文時代について学んだ
・ぼくの「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅
・ぼくは縄文時代が大好き!
・青森県「三内丸山遺跡」へ行ってみよう!
・三内丸山遺跡で見学できる遺跡一覧
・縄文時代の食べ物はどんな感じだった?
・縄文時代の服装、髪型、生活の様子もわかりやすく展示されている
・縄文時代の墓は、子供と大人で違っていた
・縄文人の驚くべき広域なネットワーク
・縄文土偶はすべて膨らんだ乳房を持つ女体
目次
・ぼくの「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅
こんにちは!世界一周+日本一周の旅を続けている水色です。
ぼくは今までの人生で日本海沿いの地域をほとんど旅したことがなかったので、新型コロナウイルス感染拡大の影響で外国にも行けず旅人としてはこのまま日本を深めるしかないという絶好の機会に、日本海沿いを北上する車中泊の旅を決行した!
岡山県、広島県、山口県、佐賀県、長崎県、福岡県、大分県、熊本県、島根県、鳥取県、兵庫県、京都府、福井県、石川県、富山県、新潟県、山形県、秋田県、青森県、フェリーに車ごと乗り込んで北海道函館まで渡り、そのまま北海道の最北の離島、礼文島の澄海岬を「日本海沿いを北上する旅」の最終目的地とした。
そのまま北海道をぐるっと一周し、再びフェリーに乗って青森県へ!青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、長野県、岐阜県、山梨県、静岡県と「太平洋沿いを南下する旅」を完遂した。
結果的にぼくは7月〜11月までの間ほぼ4ヶ月かけて「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅を達成したことになる。この旅ブログ「ミズイロノタビ」では、あまりに感動的で素晴らしすぎた日本一周の旅の一部始終を公開しようと思う。
・ぼくは縄文時代が大好き!
ぼくは縄文時代が好きだ。なぜだかわからないけれどすごく縄文時代に惹かれる。ウネウネと躍動的・立体的でメラメラと燃え盛るような形状の縄文土器も素敵だし、狩りは1週間行い3週間休む、週に2日半の労働時間、人口の4割は労働に従事しないという悠然たる生活スタイルも興味深い。文明が発達して便利な世の中になっているのに、どうして現代の人の方が長く働き労働にふり回されているのだろう。
また縄文人と弥生人の外見的特徴を比較して、顔が濃い、毛深い、背が低い自分自身がどちらかというと縄文的な人間であると感じられるのも、縄文時代に親近感を覚えている理由かもしれない。ぼくの大好きな芸術家の岡本太郎も縄文時代に陶酔しているし、その感性が作品にもよく現れている。ぼくは縄文時代が好きな人と感性が共鳴する傾向がある。やはり日本人というものを根源から見つめ直す機会を得るならば、ぼくたちは始まりとしての縄文時代に行き着くのだろか。
・青森県「三内丸山遺跡」へ行ってみよう!
日本一周の旅の目的のひとつは、もちろん日本というものの正体を根源的に見つめ直すということだった。しかしその手がかりは自分自身の感性で発見しなければならない。ぼくが日本を見つめ直す際の鍵となりそうだと直感したのは、男根崇拝、野生の温泉、そして縄文的感性だった。
「日本海沿いを北上する旅」の途中、青森県に縄文時代の暮らしを今に伝える「三内丸山遺跡」があるということで、ここは絶対に行かなければならないと決心し訪れてみることにした。入場料は410円で、駐車場は無料だった。
・三内丸山遺跡で見学できる遺跡一覧
三内丸山遺跡は非常に見応えのある施設だった。まず屋外で実際の遺跡を見学した後は、屋内の博物館を訪れることができて縄文時代への知識が深まる。縄文時代とは一体どのような時代だったのだろうか。
三内丸山遺跡は、約5900年前から4200年前の集落跡だと考えられている。縄文時代といえば原始人みたいな人々がウッホウッホと狩りをして移住しながら生きていたと一般的には考えられているが、この三内丸山遺跡を見るとしっかりとした家を作っていて、巨大な見張り台やお墓まであって、きちんとした文化的生活を営んでいたことがうかがえる。
大型竪穴建物
大型竪穴建物は、巨大な家そのもの!紀元前2800年、縄文時代中期後半のものを復元したものであり、長さ32m、幅9.8mで日本最大だ。住居の他に、集会場や共同作業場などの説があるという。
大型掘立柱建物
一際目を引く巨大な大型掘立柱建物は、直径約2mの6つの柱穴と、出土した木柱から大型の建物を想定して復元したもの。高さ15mで三内丸山遺跡を象徴する建物。なんとなくもののけ姫の冒頭に出てくる見張り台を彷彿とさせた。
大型掘立柱建物跡
大型掘立柱建物を作る元となった紀元前2600年、縄文時代中期後半の6つの柱穴。大きな穴が6つ整然と並んでいて、本当にあれほど巨大な建物があったのだろうと納得させてくれる力を持つ。
掘立柱建物
掘立柱建物は地面に柱穴を掘り柱を立てたもので、地面に炉や床などの跡が見つからないことから、高床建物であったと考えられている。柱は35cmの倍数で配置されている。
大人の墓
大人は地面に掘られた穴(土坑墓)に埋葬されていた。土坑墓は道路から両脇に向かい合うように列状に並んでいる。墓の中からは、副葬品として石器やヒスイ製のペンダントが出土した例もある。
子供の墓
子供の遺体は土器に入れて埋葬された。棺に使われたどきは、丸い穴が開けられたり、口やそこが壊されており、煮炊きに使用する土器とは区別されていた。中からはこぶし大の丸い石が出土した例もある。
北盛土、南盛土
盛土は竪穴建物や穴などを掘ったときの土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れ土器などが同じ場所に長時間継続して捨てられており、小山のように盛り上がっている。北盛土は紀元前3000年、縄文時代中期のもの。
南盛土では、約1000年かけて暑さ2mにまで積み上げられた小高い土の山を見ることができる。
・縄文時代の食べ物はどんな感じだった?
屋外の遺跡を探検した後は、屋内のミュージアムで縄文時代について学びを深めた。
縄文時代の食料は、栗やクルミなどの木の実、キノコやワラビ、ゼンマイなどの山菜、そして植物の根に含まれるデンプンなどの植物質の食料が大部分だった。さらに動物や魚、貝なども食べられたという。
三内丸山遺跡の縄文人は、陸奥湾の沿岸から沖合にかけての広い範囲で、時には津軽海峡へ出かけ、季節ごとにとる魚を変えながら年間を通して量を行ってきたという。これまでに50種類以上の魚骨やシジミ、タコ、イカ、シャコなどが出土している。
・縄文時代の服装、髪型、生活の様子もわかりやすく展示されている
縄文人の服装、髪型、生活の様子がこんな感じだっただろうと、人形の展示としてわかりやすく表現されていてイメージが湧きやすかった。縄文時代といえば野蛮で原始的だと見なす風潮があるが、実はとても穏やかで豊かないい時代だったのではないだろうか。縄文時代は10000年続いたという。平和で豊かだったからこそ10000年も続いたのではないだろうか。
・縄文時代の墓は、子供と大人で違っていた
乳幼児などの子供は土器に入れられた埋葬された。普段煮炊きに使った土器を転用し、底や横にわざと穴を開けたり、そこを抜いたりしているものもある。中からこぶし大の丸い石が出土することもある。
村の道路の脇に列に並んで大人の墓はある。楕円形の穴を掘り、壁際に板を立てたものや穴の周りに石を並べたものなどがある。中から矢じりや調理用の石、装身具などが見つかることがある。
お墓に死者が大切にしていたものを入れるなど、今の日本人と縄文時代の日本人は死者に対する感性が変わっていないようにも見える。
・縄文人の驚くべき広域なネットワーク
北海道や長野県の黒曜石、秋田のアスファルト、岩手県のコハク、新潟富山県境のヒスイなど遠く離れた地方のものが持ち込まれている。これらの多くは丸太舟で運ばれたという。縄文時代にこんな風に海を越えた広大なネットワークと交流が存在していたなんて驚きだ!やはり縄文時代は、一般的に思い描かれているような「原始時代」ではないことがよくわかる。
・縄文土偶はすべて膨らんだ乳房を持つ女体
やっぱり縄文土器は独特で面白い!土器もそうだが人型の土偶も素敵だ!よく写真で見かけるような大きな土偶ではなく、ここではとても小さくて可愛らしい土人形のような土偶も並んでいて心が躍った。どの土人形も乳房が膨らんでおり、女体であることがうかがえる。縄文時代の土偶は、すべて女性か妊婦だという。全ての土偶はわざと壊されており、破壊と再生の宗教的儀式に使われていたと考えられているという。
やはり生命と女体は強く結びついた概念なのだろう。日本一周の旅の旅をしていて驚いたことは、日本はものすごく男根崇拝の気配で満たされていることだった。祀られているのは女陰よりも男根が多く、やはり外見的に男根の方が存在感があるから祀られやすいのかと感じた。しかしいくら目立つ生命の根源は男根であっても、新しい生命をこの世に産み落とすのは女体の役目だ。新しい生命を生み出し、人間社会に反映をもたらす象徴として、縄文土偶には女体ばかり作られたのだろうか。
ぼくはオーストリアで出土された20000年以上前の土偶も、ふくよかな女体であったことを思い出していた。
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