「泥医」「ドロッポ医」とは何か?ドロップアウトした医師がなぜ見下される傾向にあるのか考察してみた
・「泥医」「ドロッポ医」とは何か?
・なぜ「泥医」「ドロッポ医」は見下される傾向にあるのか?
・組織で生きられない社会不適合者だと見なされる
・医師としての使命感を忘れている
・勤務医より労働負荷が少ないのに勤務医よりもお金を稼いでいる
目次
・「泥医」「ドロッポ医」とは何か?
フリーランスの医師としてインターネット上で調べ物をしているとSNSなどで頻繁に「泥医」という言葉を見かけるようになった。最初は「泥医」の意味が全くわからなかったが、数多くの「泥医」という言葉やそう名乗る人々を観察しているうちに段々とその意味がわかるようになった。
「泥医」とはすなわち「ドロップアウトした医師」の略称だ。ドロップアウト(drop out)とは組織・社会などから落ちこぼれること、脱落すること、抜け出すこと、反体制的な行動をとることを意味している。医師の働き方としては大学病院の医局に所属したり、市中病院で常勤勤務医をしたり、開業して医療行為を行うことが一般的だ。しかしそのいずれの病院にも組織にも属することなく、一般的だと世の中で信じられているそれらの医師の働き方の範疇から抜け出し(drop outし)て、非常勤勤務やスポットバイトのみで生計を立てている医師のことをインターネット上では「ドロップアウト医師」というらしい。
この「ドロップアウト医師」という言葉は長いので次第に「ドロッポ医」と変形し、それでも長いのでさらに短縮され「泥医」というネットスラングが誕生したと思われる。言うまでもなく「泥医」の「泥」とは「ドロップアウト」の「ドロ」であり、根本的に泥という物質とは何の関わりもない。「ドロッポ医」という言葉もインターネット上で度々見かけるが「泥医」=「ドロッポ医」=「ドロップアウト医師」であり意味は同一であると思われる。
・なぜ「泥医」「ドロッポ医」は見下される傾向にあるのか?
どこの病院にも組織にも属さずに非常勤バイトやスポットバイトだけで生計を立てているのならば「フリーランス医師」という言葉と同じではないかと思われるが、「フリーランス医師」がフリーで働く医師を広義的に指しているのに対し、「泥医」=「ドロッポ医」は比較的労力の少ない楽なスポットバイトのみを生業としている医師を指すという印象がある。また「フリーランス医師」という言葉がいい意味合いも悪い意味合いも持たずにニュートラルな感覚で使用されているのに対し、「泥医」=「ドロッポ医」は明らかに蔑称、見下しの言葉、卑下するための言葉として使われているという気配もある。
これは印象なのでどうにもこうにも証明しようがないのだが、SNS上の”雰囲気”からそう察している人も多いのではないだろうか。ではなぜ「泥医」=「ドロッポ医」は見下される運命にあるのだろうか。
・組織で生きられない社会不適合者だと見なされる
まず考えられるのは、「泥医」が病院や医局という組織では生きていくことができない所謂”社会不適合者”だと見なされる可能性だ。人間というのは社会的な動物であり、一人きりで生きていくというよりはむしろ群れの中でお互いに助け合いながら協力し合って生きていくべきだという風潮が強い。群れの中で何かしらの不都合があったとしても我慢したり、空気を読んだり、協調性を乱さないようにして生きることが人間としてふさわしい姿だと考えられる傾向がある。それゆえに集団の中でうまくふるまえない者、社会の中で生きるのが苦手な者、その結果としてそこから抜け出し(drop outし)てしまう「泥医」は、集団生活をすることができない”落ちこぼれ”として見下されてしまうだろう。人間は常識的な既存のレールから外れた者を噂し見下すことに快感を覚えてしまう動物だ。
しかしぼくの意見としては、群れの中でうまくふるまえなくたって別にいいのではないかと思う。人間には向き不向きや得意不得意があるので、大した努力もせずに集団の中でうまくやっていけるような人もいれば、逆にどんなに頑張っても集団に馴染めずに苦しい思いをしてしまう人もいるに違いない。またその集団が自分にとって合うか合わないかという問題もあるだろう。自分には合わない集団の中で苦しく生きづらい思いをしているのに、ドロップアウトなんてしてしまったら収入がなくなってしまったり他人から見下されてしまうかもしれないことを恐れて、無理して、我慢して、耐えているうちに抑鬱状態になって治療が必要になったり自殺をしてしまうくらいだったら、自分を最も大切にしてしっかり守ってやるという意味で、思い切って集団から抜け出した方が遥かに行動力があるし聡明な選択なのではないだろうか。
そもそも医師に”落ちこぼれ”なんて存在するのだろうか。誰もが知る通り医師という職業はかなり勉強を努力し、そして勉強が得意でなければ決してなることはできない。その結果として医師免許を取得し初期研修を修了すれば、専門医を持たなくてもスポットバイトだけで1日10万円以上稼げるようになるのだから、どう頑張っても”負け組”や”落ちこぼれ”になんてなれないのではないだろうか。医師免許を持っているだけでもかなりの成功者だと言っても過言ではない。今はインターネットを駆使して誰でも1日10万円以上のスポットバイトを見つけて簡単に申し込むことができる時代なのだから、古代の原始人や野生のお猿さんじゃあるまいし、特定の集団や群れの中でしか生きられないと怯えるのはかなり時代遅れな動物的発想ではないだろうか。群れの中で過ごすのが得意な人間は絆やしがらみの中で上手に生きていく、群れの中で過ごすのが苦手な人間はそこから抜け出して自由に気楽に生きていく、ただそれだけのことではないだろうか。それぞれに向き不向きやそれぞれにふさわしい生き方があり、そこに見下しやマウンティングを介入させる必要性はないだろう。
・医師としての使命感を忘れている
世間一般における医師の典型的なイメージといえば、病院で必死に患者の命を救っている姿が思い浮かぶだろう。医師の使命は身を粉にして働き、自分自身を犠牲にしてでも患者を病気から救い出すことだと信じている人も多いに違いない。そのような典型的な医師のイメージ像と比べると、「泥医」の働き方はかなりかけ離れているように感じる。「泥医」はそもそも病院や組織には属さないし、過酷な労働や救急当直とも無縁だし、外来バイトで病気を治すことも当然あるだろうが、健診バイトや寝当直やコロナワクチンバイトの問診など治療に関わらない業務も多い。医師の使命は病院で患者に寄り添いながら必死に患者の命を救うことだという立派なイメージがあるからこそ、それとは全く異なる「泥医」の働き方は異様な印象をもたらし、得体の知れない者として見下される傾向があることも否定できない。
しかしそもそも「医師の使命」や「医師の理想像」というものが、テレビドラマや漫画によって勝手に作られた妄想なのではないだろうか。確かに世間の理想像のままに病院で働いている医師もいれば、世間が勝手に作り上げた「医師の使命」など気にもせずに独自の生き方を模索している医師もいるだろう。ぼくは自分の生活や時間を犠牲にして患者のために尽くす病院の医師を当然立派だと尊敬の念を感じるが、それだけが素晴らしい医師としての生き方だとは決して思わない。逆に他者というよりもむしろ自分自身を大切にし、自分の生活や時間をほとんど犠牲にすることなく、それによってリラックスして生きながら無理なくスポットバイトで社会貢献することだって立派な生き方ではないだろうか。医師の数だけその人の感じる使命感や理想的な生き方はそれぞれ異なっており、それが世間が勝手に思い込んでいる理想の医師像と違うからといって責めるのはナンセンスだと言えるだろう。医師免許を取得して医師になれば、それぞれが自分なりの使命や理想像を独自に形成していけばいいだけであり、世の中の理想や常識や正しさにとらわれるべきではない。
・勤務医より労働負荷が少ないのに勤務医よりもお金を稼いでいる
病院で働く勤務医が激務であることで有名だ。一睡もできない夜間救急当直をしなければならないし、その翌日には仮眠も取れずに通常通り働かなければならないし、無料の残業はあって当たり前だし、入院患者がいるから土日も休まず出勤するし、家に帰ってからもピッチで呼び出されたら病院へ戻らなければならない。難しい症例や未経験の症例を担当する機会も多く日々の医学の勉強も欠かせないだろう。
それに比べて「泥医」の行うスポットバイトというのは、病菌勤務と比較すればまるで天国のような労働環境だ。定時に終わるし、万が一残業する場合は残業代が付くし、夜はぐっすり眠れるし、人間関係のトラブルはないし、そして何より病院よりも遥かに給料が高い。病院の方が激務なので病院の方が給料が高いというのなら納得がいくが、スポットバイトの方が楽なのにスポットバイトの方が給料が高いというのが医師の労働環境の摩訶不思議な点だ。
毎日肉体を酷使しヘトヘトになって働いている病院の勤務医が、自分よりも遥かに楽な労働環境で自分よりも遥かに高いお給料をもらっているのを見て違和感を感じないはずはない。勤務医が「泥医」を自分よりもレベルが低いと見下すのは、その不条理な状況に対する悔しさや嫉妬を受け入れるための苦し紛れの合理化なのかもしれない。
しかし楽でお給料が高い仕事に人々が流れていくのはごく自然な現象ではないだろうか。その働き方が自分自身に合っていればなおさらいい。誰だって負担が少なくそして効率的にお金を稼げる環境が望ましいに違いない。逆になぜ過酷で給料が低い労働環境にしがみつかなければならないのだろうか。病院で患者を治療する働き方が自分に合っている、医師として病院で人を救うという使命感に溢れている、安定した生活を望んでいる、家族を養っていたりローンがあるので常勤として働かざるを得ない、組織を抜け出す勇気が持てない、常識的ではない働き方をする度胸がないなど、勤務医には勤務医として働く理由があるのだろうが、多様化する労働スタイルの中でそれぞれが自分に合った働き方を選び取っているわけだから、重要なことは組織に属することこそ正義で「泥医」はまともではないという古い価値観を捨て去って、お互いがお互いを尊重し合うことではないだろうか。誰もが自分に合った生き方を必死に模索しており、それを見下すことは思いやりがないし人間としてのレベルが低い。
どんなに「泥医」の労働内容が勤務医に比べて楽とはいえども、当然命に関わる責任だって伴うし、お給料が支払われているということは他人の役に立ち社会貢献していることを意味する。医師にしかできない価値ある行為を行うという点においては、勤務医であろうと「泥医」であろうと何も変わりないのではないだろうか。
・「泥」という言葉から連想される「泥医」の悪いイメージ
また「泥」という漢字も「泥医」を卑下させる要因になっている可能性は否定できない。泥といえば地上の物質の中で最も下に位置しているような印象を受けるので、泥=底辺という概念が生まれ、「泥医」は医師の底辺だという連想が生まれてしまうのかもしれない。しかしそもそも「泥医」の「泥」とは「ドロップアウト」の「ドロ」であり泥という物質とは何の関係もないことから、泥の印象は偶然の産物以外の何物でもないだろう。
天理教の神話では世界の始まりは泥だったと伝えられている。また日本人の食を支えている米も、田んぼの泥によって生じる。泥とは世界の根源であり、生命の源だ。そのように意識すれば「泥医」という言葉すら、何か神秘的なものに感じられるかもしれない。
・中島みゆき「麦の唄」
泥に伏せる時にも
歌は聞こえ続ける「そこをこえておいで」
「くじけないでおいで」どんな時も届いてくる 未来の故郷から
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