どうして日本の滝には、不動明王がいるのだろう?
滝と不動明王はなぜ結びつく?日本における滝と不動明王の関係を徹底考察してみた
・日本における滝と不動明王の関係を考察してみよう
考察1.不動明王の激しい怒りが滝の激しい水の流れと合致する
考察2.激しい「水」と激しい「炎」をぶつけ合うことによる聖域の成立
考察3.滝修行が盛んな日本の山岳宗教、修験道の中で滝と不動明王は結びついた
・滝は不動明王がいなくとも、それ自体で御神体
目次
・日本における滝と不動明王の関係を考察してみよう
山深い日本という国を旅していると、数々の美しい滝の姿に出会うことができる。そして日本の滝というのは「不動滝」などと呼ばれ、不動明王が祀られていることが本当に多いと感じる。なぜ数々の種類の仏像がある中で、滝といえば不動明王なのだろうか。
疑問を持ったぼくはインターネットで「滝 不動明王 関係」とか「滝 不動明王 なぜ」とか検索してみた。そうすればきっとすぐにこの問題が解決されると思ったのだ。しかし意外なことに、滝と不動明王の関係性やつながりを考察もしくは解説しているページはかなり少なく、納得のいくような答えは得られなかった。みんな滝と不動明王の関係についてあまり疑問に思わないのだろうか。
インターネット上に確かな答えがないのなら自分で新しく創り出すしかないと考え、この記事ではぼくが「滝と不動明王がなぜ日本で結びついているのか」を思いつく限り考察して行こうと思う。しかしただの旅好きの日本人が考察しているだけであり、専門的な学者の意見ではないのでそこんとこご了承ください。
考察1.不動明王の激しい怒りが滝の激しい水の流れと合致する
不動明王といえば他と比べて珍しい仏像だ。普通仏像というのは悟りを開いた後のものすごく安らかで穏やかなお顔をしているが、不動明王は激しく怒り、迫力のある憤怒の表情をしている。背中には燃え盛る炎を身にまとい、不動明王の内なる怒りがさらにダイナミックに表現されている。
それに対して滝というものも、かなり激しい水の流れだ。穏やかな水面を湛える「泉」や「湖」や「池」なんかとは比べものにならないし、水が流れる現象を意味する「川」でも滝ほどまでには高速な水流を維持しない。「川」も「滝」も”高いところ”から”低いところ”へと水が流れくだる現象を意味するという観点では変わりないが、異なるのはその”高いところ”と”低いところ”の差が大きいか小さいかということだ。その差が大きくて水の激流が生まれれば「滝」と呼ばれるし、差が小さくて穏やかな流れの場合には「川」という日本語が当てはめられる。
滝の水の流れは激流であり、視覚的な迫力ばかりではなく、水が滝壺に落ちる激しい轟音、滝から飛び散る水しぶきが肌に当たる感触、激流によって大気中に生み出される風、水の冷たさや風から来る涼しげな空気感など、滝というのは人間の五感すべてを駆使して感受される大自然の芸術である。
そしてそんな水の激しさが、まさに不動明王の怒りの激しさと古代日本人の心の中で合致したのではないだろうか。滝の水の激しさと怒りの炎の激しさ。水と炎との違いはあれど、莫大なエネルギーを持つ大迫力の”激しさ”という点では一致している。滝と不動明王は、激しさにより繋がったのではないかというのは、誰もがまず思いつく推測ではないだろうか。
考察2.激しい「水」と激しい「炎」をぶつけ合うことによる聖域の成立
また日本の神様には、「荒魂(あらたま)」と「和魂(にぎたま)」の2つの状態が存在するという。同じひとつの神様であっても、神様というものは激しく荒ぶって人間に災いをもたらす側面(荒魂)と、優しく包み込むように人間の生活を助けたり恵みを与えてくれる側面(和魂)の2つが混在しているというのだ。その真逆に位置する2つの状態を併せ持ってこそ、神様は神聖なものとしてこの世に君臨できるのだと見なす日本人の感性は興味深い。
しかしこれは神様に限らず、人間だってそうではないだろうか。ひとりの人間だって激しく怒ることもあれば、ものすごく優しく慈悲深くなることだってあり、そのような対極にある2つの側面が同時に自らの中に存在しているという感覚は、誰だって持っているものだろう。これを日本の大自然や、大自然の化身としての神様に当てはめたのではないだろうか。
大自然にだって荒魂と和魂は存在する。例えばひとつの川にしたって穏やかな流れで水を提供してくれ人々の生活に欠かすことのできない水を絶え間なく運んで場合もあれば、荒々しい水の流れで洪水を引き起こし人々の家や村を根こそぎ破壊することだってあるだろう。恵みの深い存在というものは、時に徹底的な破壊をももたらすのだ。しかし恵みばかりだとか、破壊ばかりでは神聖な自然は成り立たない。恵みも破壊も、荒魂も和魂も、その両方が複雑に絡み合ってカオスのように内包されているからこそ、神聖なものは神聖なものとして成立している。
また不動明王は、密教における最高神の大日如来の化身であるとも言われる。宇宙の真理を担う穏やかなお顔をした大日如意の裏に、不動明王という激しい憤怒が燃えたぎっているからこそ、真逆のものが密かに対立し拮抗し合っているからこそ、密教というものは普遍的価値を保ちながら信仰され続けている。さらに密教には宇宙の真理を示す曼荼羅(まんだら)という仏教絵画があり、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の2つによって成り立っている。金剛界曼荼羅は精神的世界、胎蔵界曼荼羅は物質的世界を表現しており、対極に位置するものがお互いを補い合っていてこそ、この世界は成り立っていると説かれる。
対極のものがひとつの中に混在しているからこそ聖なるものは君臨するというこの感性は、滝と不動明王をも結びつけたのではないだろうか。滝と不動明王、すなわち激しい水と激しい炎、「水」と「炎」という対極に位置にあるかのような2つの要素を、滝に不動明王を祀ることによりぶつけ合うことで、激しい水は激しい炎に蒸発され、激しい炎は激しい水のかき消され、滝におけるすべての世界は中和され、そこには神聖な中間体としての空間が生み出され、世界は成立する。
考察3.滝修行が盛んな日本の山岳宗教、修験道の中で滝と不動明王は結びついた
さきほども書いたように不動明王は、密教における最高神の大日如来の化身である。密教というのは空海(弘法大師)によって唐から日本へともたらされた。空海が密教を日本に持ち込んだと同時に不動明王も日本へ入り込んだと言われる。
空海といえば、今でも空海が開いた天空の仏教都市・和歌山県高野山の奥で生きている(入定という状態)と言われている。高野山のある紀伊山脈は「山岳宗教」や「修験道」が盛んであり、アニメやドラマなどでよく見かける”滝修行”というものが、現在においてもあくまで真剣に行われている風景を、ぼくも紀伊山脈の山奥で目撃して衝撃を受けた。
この「山岳宗教」や「修験道」でも不動明王が厚く信仰されているということから、「空海」「密教」「紀伊山脈」「山岳宗教」「修験道」「滝修行」「不動明王」の概念が複雑に密接に絡まり合い、滝に不動明王が祀られるようになったというのはある程度納得がいく。
・滝は不動明王がいなくとも、それ自体で御神体
日本では本来、自然そのものが神様として祀られていた。巨大な石や古い木や清らかな水に祈りを捧げることは、日本の古代から続く信仰のあり方としてごく自然なありふれた風景である。巨大な石や古い木や清らかな水があるからこそ聖域だった場所に、「古事記」や「日本書紀」で出てくる天皇にまつわる神様が上書きされたり、仏教という異国の神が上書きされたりして、日本の聖域は複雑に絡まりながら維持され続けてきたのだろう。
けれどどんな聖域においても、本来は日本人がそこで何を祈っていたのかを見出すことは重要だ。上書きの神々というのは、大抵民衆を支配することや権力に関わっている。時代が進み人間が増えるに従って、聖域は権力者にとって都合のよい支配の道具としての役割も果たしてきたのだろう。しかし本来の聖域での祈りとは、祈りを捧げることで大自然の精霊と繋がろうとする、支配には関係ない純粋で清らかなものだったに違いない。ぼくたちは賢い人だと呼ばれるために上書きの歴史を勉強して記憶していい気になるよりも、聖域の根源から発せられる精霊の気配、それに対する本来日本人の誰もが持っていた純粋な祈りの姿を発見すべきではないだろうか。
滝も本来、それ自体が神様として祀られていた。和歌山県の那智の滝などその例は日本において無数に発見できるだろう。滝という清らかな御神体が、不動明王という異国の神と結びつき、滝は純粋な自然崇拝から複雑な体裁を押し付けられた。しかし日本人にとって本来、滝自体が神聖な神様であり、神様と不動明王の関係がどうであろうと知ったことではなく、本質的に古代から滝に祈りを捧げ滝を祀り続けている民族なのではないだろうか。滝と不動明王との関係が意外なほどインターネット上で考察されていなかった理由は、ここにあるのかもしれない。
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