泥医・ドロッポ医・バイト医は医師の中で底辺に位置するというのは本当か?
・泥医・バイト医は医師の中で底辺に位置するというのは本当か?
・他人によって作られた常識や正しさに自分の人生を支配されてはならない
・呪いの言葉で自分で自分を傷つけ、冒涜してはならない
・自分を卑下するのはコスパと頭が非常に悪い生き方
・泥医が底辺であると言われる理由を考察してみた
・他人と比較する相対的な迷妄の世界の中で自分の価値を判断してはならない
・中島みゆき「幸せになりなさい」
・この記事のまとめ
目次
・泥医・バイト医は医師の中で底辺に位置するというのは本当か?
ぼくは今どこの医局に病院にも所属しないフリーランスの医師として、コロナワクチンバイトのみで生計を立てている。毎日違った会場へコロナワクチンバイトに出かけると、当然のように様々な種類の医師に遭遇する。ぼくがある日出会ったのは、大学の医局をドロップアウトして今はバイトだけで暮らしているという先生だった。インターネット上ではこのようにドロップアウトした医師のことを「ドロッポ医」転じて「泥医」とも呼ぶという。
ぼくが印象に残ったのは彼の「専門医も取らずにバイトだけで暮らしている自分なんて、医師の中では底辺なんですよ」という自虐的な言葉だった。冗談ぽく言っているだけだったのでぼくも「そんなことないですよ〜」と笑って済ませただけだったが、この言葉にぼくは内心巨大な違和感を覚えていたので、なぜ自分が違和感を覚えたのかこの記事で考えをまとめようと思う。
・他人によって作られた常識や正しさに自分の人生を支配されてはならない
確かにインターネットの情報を見ていると”泥医=底辺”というのはある種の固定観念のようになっており、勤務医や開業医からだけではなく泥医自身も”泥医=底辺”であることを自虐的に語りながら自分自身を揶揄するという場面も多々見受けられる。そのような泥医の自虐的習慣がインターネット上だけではなくこの現実世界にも発露したのが、先述の「医師の中で自分は底辺」の発言ということなのだろうか。
”泥医=底辺”というインターネット上の固定観念は奥深く、これをそのまま鵜呑みにするのは危険だとぼくは感じる。例えば泥医というスポットバイトだけで自由に生きる労働スタイルは比較的新しい生き方なので数も少なく、保守的で多数派の勤務医や開業医がこれまでの自分の医師としての伝統的な生き方を肯定したいがために、革新的で少数派の泥医を攻撃している可能性は否定できない。また自分は重労働を押し付けられて夜も寝ずに病院で必死に働いているのに、コストパフォーマンスのいいスポットバイトで毎日定時に帰り良質なQOLを保ちながら遥かに高額な年収を稼いでいる泥医を見かけた際に生じる、勤務医からの嫉妬や羨望の気持ちも含まれているかもしれない。
逆に泥医は泥医で新規参入者が増えると限られたスポットバイトの良質案件が取りにくくなることから、なるべく新しいライバルを増やすまいとして”泥医=格が低い”という固定観念を世間に敢えて積極的に植え付けることによって、泥医になりたいと感じる医師の数を抑制している可能性もある。”泥医=底辺”という常識の裏には、様々な利害や思惑が複雑に絡み合っているのではないだろうか。そしてそのような怪しく疑わしい常識を、信じる価値はあるのだろうか。
ぼくが気になるのは彼が「医師の中で泥医は底辺」という世間やインターネット上の常識を、そのまま素直に自分の中に取り入れ、受け入れ、消化してしまっているという点だ。そして泥医であるという自分自身をまさに底辺だと思い込み、卑下し、見下している。自分は底辺だと自分自身に言い聞かせながら、果たして人は幸福に生きられるのだろうか。自分の心をしっかり護ってやることもせずに、自分で自分に積極的に呪いをかけるような人間に、果たして救いは訪れるのだろうか。
重要なのは世間一般に言われている常識や正しさをそのまま信じ込むことをせずに、一旦冷静に立ち止まり、本当にその常識や正しさが自分の中に取り入れるほどの価値がある真理なのかどうかを、自分自身の感性や知識や分析力を最大限に駆使して見抜くことなのではないだろうか。そしてその結果としてほとんどの常識や正しさが、取るに足らない偽物だと気付くだろう。自分自身を振り返ってもわかるように、人間というものはしばしば間違いや過ちを犯す生き物だ。当然それは自分だけではなく、他人もそうであると想像するのは容易いだろう。間違いだらけの人間という生き物が寄り集まった結果として作られた常識や正しさに、間違いの要素が混入されていないとはどう考えても言い切れない。他人や世界によって形成された常識を信仰するよりも重要なことは、何よりも自分の感性によって1から作り出された自分にとって納得のいく純粋な正しさを信じることだ。
世間で言われている常識や正しさが自分を傷付けるようなものであったとき、自分を苦しめるものであったとき、自分の心を破壊するものであったとき、軽やかに自分の中で意識改革を起こしながら、その常識や正しさを拒絶するような論理を展開し、潔く確実に適切に自分自身を護ってやることが聡明な生き方なのではないだろうか。自分を傷付ける常識や正しさを自分の中に受け入れるなんて、愚かしいにも程があるし、これまで必死に生きてきた自分自身が可哀想だ。自分の心を疑いも迷いもなく護ってやれるのは、他でもないあなたしかいないというのに。
・呪いの言葉で自分で自分を傷つけ、冒涜してはならない
彼が「医師の中で自分は底辺」と言うのを聞いた時、ぼくはなんて哀れな物の考え方をするのだろうと残念に感じられてならなかった。せっかく最難関の医学部受験に合格し、試験と実習だらけの医学部生活も乗り越え、膨大な量の暗記を必要とする医師国家試験もパスし、当直のキツい初期研修も修了したというのに、もっと自分を賞賛しながら生きてもいいじゃないかと思ってしまったからだ。逆にそこまで頑張ってやってきた己が身を誉めてやることができないなんてもはや人間として摩訶不思議の領域である。
医師になるためにどれほど努力したかを一番知っているのは他ならぬ自分自身だ。他人には決して見えやしない自分だけの隠された苦しみや悲しみを残り超えて何とか人生を歩んできたと知っているのも自分以外にはいないだろう。そのような自分自身に向かって「お前は底辺だ」という呪いの言葉を投げかけながら生き続けるなんて、神聖な自分というものに対する冒涜だし、これまで必死に生きてきた自分自身に対して失礼だと思わないのだろうか。自分で自分を護ってやらないで、自分で自分を匿ってやらないで、逆に他人や世間からの根も葉もない悪意と一緒になって自分を攻撃するなんて、人として最もやってはいけない悪行なのではないだろうか。ぼくには「自分は底辺」と言い放つ彼の奥底で、彼自身である小さな少年が泣いている姿が見えたような気がした。
世間の常識や正しさを容易く鵜呑みにしてしまったり、相対的な迷妄の世界から抜け出せずにいると、このように壮大な過ちを犯してしまうことになる。他者を悪意によって攻撃することはイジメであると世間で非難されるのに対し、自分自身を卑下したり見下したり悪く言ったりすることは謙譲的態度であると賞賛される気配がこの国にはある。しかし悪意を以て自分自身を踏み躙るということは、他人を攻撃するのと同様に、いやむしろそれ以上に実行してはならない罪のようなものではないだろうか。
・自分を卑下するのはコスパと頭が非常に悪い生き方
さらに言うと自分で自分を攻撃するような生き方は、自分自身から降り注ぐ否定をいちいち打ち消しながら進まなければならなくなるので無駄なエネルギーが必要となるし非常にコスパが悪い。どんなに「自分は底辺だ」という悪意ある意見が自分自身によって自分の中に導入されたとしても、それによって抑鬱傾向になったり自殺するわけにもいかないから、潜在意識の中でその悪意を消滅させたり無効化させることで自身の精神を健康に保つという作業が必要となる。
自分自身で自分を傷付ける悪意を敢えて導入し、その悪意を打ち消す作業を日々行なっているのだから無駄で効率の悪いことこの上ない。それならば最初から悪意なんて取り入れなければいいのにと思わないだろうか。その悪意を取り入れることさえなければ、日々繰り返される打ち消し作業も必要なくなり、打ち消し作業に使っていた膨大な精神的エネルギーを別のところに回せて豊かで幸福な人生を歩むことに使えるに違いない。世間の常識や正しさが自分にとっての毒になるとき、それを取り入れるというのは頭もコスパも極めて悪い非常に非合理的で無駄な生き方だと思えてならない。
・泥医が底辺であると言われる理由を考察してみた
そもそもの根本的な話として、泥医というのは医師の中で本当に底辺なのだろうか。給与という観点から言うと、勤務医よりも泥医の方が遥かに年収を高くすることが可能なのでもはやその時点で底辺ではないだろう。労働というのはお金を稼ぐために行うという側面も強いことから、この視点は非常に重要だと思われる。
また自分の好きな時に好きな場所で働け、好きな時に休め、好きな仕事だけを選び取れるという柔軟性も泥医の方が上だ。柔軟性や選択の自由は医師としての生活のQOLを高め、結果的に人生の豊かさへと繋がる可能性も高い。さらに医学的知識を駆使して社会の人々の役に立っているという観点から言えば、勤務医も泥医もさほど変わらないだろう。
確かに決まった仕事がないので生活が不安定である点や群れていない分医学的な情報が入りにくいという点はデメリットであるかもしれないが、デメリットはどの種類の医師にもあるので底辺だと言える理由にはならない。しっかりと考えてみても泥医の何が底辺なのか全くわからないのはぼくだけだろうか。
医局や病院で働くという医師として王道の働き方をしていないマイノリティーだから見下され易いということなのだろうか。しかしその職業の働き方なんて次第に移り変わっていくものだし、そのような古い固定観念に縛られていては時代に合わせた柔軟な生き方ができなくなるのではないだろうか。医師にも多種多様なスタイルの働き方があるということを認めるという気配が、保守的な医学的世界では生じにくいということなのだろうか。
・他人と比較する相対的な迷妄の世界の中で自分の価値を判断してはならない
ぼくたちは人生の中で様々な種類の競争に晒されていく。幼稚園ではかけっこで競わされ、小学校では通信簿で比べられ、中学校以降は成績という試験の点数(数字)で明白に自分と他人を比較される。そのような競争の世界で生き抜いてきたぼくたちは知らず知らずのうちに、他人と比べなければ自分自身の価値を見出せないという相対的な判断基準を植え付けられてしまったのではないだろうか。また東アジアに位置する日本では中国から渡来した儒教の考え方が民衆に広がり、目上や目下、先輩や後輩、年上や年下を無意味にやたらと意識する相対的な社会的価値観に支配されているのも気にかかる。
他人と比較しなければ自分の価値を確定できないという相対的な世界の中では、自分の価値が他人によって左右されるという不安定な状況に陥ってしまう。ぼくたちは他人という人間を思いのままに操ることはできない。他人が優れたり劣ったりすることも、他人が繁栄したり落ちぶれたりしていくことも、他人の学年や地位が上がったり下がったりすることも、自分とは関係のない次元で勝手に起きている言わば”現象”である。自分自身の価値という生きていく上で最も重要な羅針盤が、他人という自分にはコントロールできないものによって簡単に揺れ動いてしまうという点は、相対的な価値観の世界を生きる上での見逃すことのできない重大な欠点ではないだろうか。
自分自身の価値を建設するための土台は、確固たる絶対的な自分自身であるべきだ。その土台に他人という不純物を混入させてしまうと、土台は時間や場所や環境や状況によって簡単に揺れ動き、自分の価値という塔は崩壊の危機を招くだろう。もちろん自分自身でも自分というものを完全にコントロールできるわけではないものの、他人という見ず知らずのかけ離れた生き物と比べれば、体や心や精神を何とか整えようと努力したり調整したり修行したりできる分、自分自身の価値は遥かに護られ易い運命にあるはずだ。
医師という職業の中に、もしくは人間というものの中に、果たして本当に上や下があるのだろうか。そのような相対的で不安定な世界に魂を奪われながら生きているからこそ「医師の中で自分は底辺だ」などという虚しき世迷言が出てくるに違いない。「底辺」とはそれ自体が他人との比較を前提とした相対的な言葉であり、常に他人を意識し他人と自分を比べながら人生を歩んでいる者、絶対的な自分の価値観を自分自身の中に見出せずに相対的な迷妄の世界の中で心が彷徨っている者の脳裏にしか浮かばない言葉だ。他人など取るに足らないものだと振り返ることもなく、揺れ動くことのない絶対的な自分自身の感性や価値にだけ焦点を当て燃え盛るように夢中で人生を生き抜いた時、人間には「底辺」も「頂点」もなく、ただ自分自身の存在が宇宙の全てだということに気が付くだろう。
・中島みゆき「幸せになりなさい」
植え付けられたおそれに縛り付けられないで
ただ真っ直ぐに光の方へ行きなさい
間違ったおそれに縛り付けられないで
ただ真っ直ぐに光の方へ行きなさい
・この記事のまとめ
自分の感性を羅針盤として生きなければならない。
自分自身を見下し、卑下し、攻撃してはならない。
他人の悪意に巻き込まれず、自分を大切に護ってやらなければならない。
相対的な迷妄の世界を生きて自分を見失ってはならない。
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