これまでの素朴な景色から一転!急に大都会の街並みに!
スペイン巡礼3日目!都会の迷妄とパンプローナでの激しい怒りの出現
・馬も犬も人も共に巡礼する
・都会の迷妄
・あらゆる者は巡礼の神の前で平等に
・馬も犬も人も共に巡礼する
スペイン巡礼2日目のズビリの町を8時に出発して、次の街パンプローナ(Pamplona)を目指して歩き出した。距離としては20km。パンプローナはこれまでの小さく素朴な街と違って都会らしく、宿もたくさんあるし、レストランで食事もできるだろう。
ズビリから歩き始めて最初の方は、これまでと同様に、山道、獣道、田舎の道だった。途中に大きな川があったので、そのほとりで休憩して昼ご飯を食べた。
川水に浸かって遊んでいると、突然2匹の馬が颯爽と現れた。なんとスペイン巡礼を馬に乗って巡っている人もいるらしい。馬は水を求めて、飼い主に川で休憩しようと促していた。そして飼い主にゆるされて、川の中へと入っていくと、なんと水を飲まずに、足をバタバタバタと激しく動かし水しぶきを上げていた。足を洗っているのだろうか。そのまま水を飲まずに去っていったのでな、なんだか夢見ているようで神聖な気持ちになった。川のほとりで休んでいると馬がやってくる、こんな非日常的なことが、スペイン巡礼では起こるのだ。
馬の次には犬がやって来た。犬も水を求めている。人間も、馬も、犬も、動物は皆川のみずを求めてしまうものなのだと、ぼくたちの間に境界線などない同類のものを感じた。犬は飼い主とはしゃぎながら、水を飲んだり、水しぶきを飛び散らしたり、水にすっかり浸かって涼んだ後に去っていった。
ぼくが衝撃的だったのは、その川水はとても冷たかったのだ。ぼくが入っても3秒も入っていられないほど酷く冷たい水だったのに、どうして、馬や犬はあんなに平然と、ずっと水の中にいることができるのろうか。犬に関しては、全身を水につけていたので本当に信じられなかった。犬は寒くないのだろうか?そして馬も全然寒そうではなかった。馬と犬に、寒くないの?と質問したい気持ちが膨張したが、さすがに理解されないだろうと思って諦めた。人間がひどく冷たいものを、どうして馬や犬は平気なのだろうか。もしかして、温痛覚の閾値が違っているのだろうか。謎は謎のまま、生命の神秘としてぼくの中に留めておこうと思う。
・都会の迷妄
実はぼくはこの日、3回も道を間違えて大変な目に遭った。この巡礼3日目は道を間違えやすいので注意が必要だと思う。そうは言っても、いつでも重要な道のポイントには、巡礼の貝殻のマークがきちんと掲げられているので、注意深くそれを辿っていけば間違いないのだが、そのマークが時々アルベルゲのマークとして使われていてややこしかったり、いきなり見つけにくいスポットが出現したりするので、注意するに越したことはないだろう。
これまでの素朴な道から、どのようにしてパンプローナの都会へと入っていくのだろうと興味深かったが、その都会圏への進入は突如橋を渡ったところから始まる。橋を渡っていくと、突如として大きな街へと入り込むのだ。と言っても、ここがパンプローナというわけではなくパンプローナを中心とした都会圏のひとつであるようだ。
この時は、歩きの魔物に取り憑かれてしまったてらちゃんとはぐれてしまい、ぼくひとりでパンプローナを目指していた。しかし、この都会圏に入ってからというもの、巡礼者の姿を見ることがまったくなくなり、ぼくは絶対に間違えた道を来てしまったのだと後悔した。一応巡礼の貝殻マークは都会の中に続いているものの、今までの素朴な道と明らかに違うし、きっとこれは自転車巡礼用の道で、歩行者の道はきっと別にあったのだろうと考えた。
グーグルマップで確認すると道はパンプローナに向かっているようだが、ぼくが最も心配したのは、先に行って逸れてしまったてらちゃんがどこかで待ってくれていても、間違った道を歩んでいると出会えないということだ。ぼくはWi-Fiがなければラインできないしどうしよう…。
これまでとは異なる都会的な街並みの中を、不安と心細さの中で進んで行った。これまでの素朴な巡礼の道では、すれ違う人すべてに「ブエンカミーノ!」と挨拶し合い、笑顔を交わしていたが、都会に入るとそれが一切なくなったことが印象的だった。
人間が多くなりすぎて群れを発生させると、他の人間に対する関心の密度が極端に低下することが感じられた。都会の正体はただの人間の群れであり、人間が多くなれば多くなるほど、それに比例するように、人間の心や慈しみというものも増加していくように思われるが、それは逆に反比例するように減少していくことが示唆された。人間というものの肉体と物質だけがあふれかえる都会に、精神が欠落していくことにどのような意味があるのだろうか。
しかしそのような都会の人々の中にも、巡礼者のぼくとすれ違うと十字架を切ってくれるような人もいた。ぼくはここで初めて自分が巡礼者であることの自覚を持ち、神聖なものに触れていく旅を続けているのだと思い知った。
素朴な巡礼の道は1本道なので迷いにくい。しかし都会の道はあらゆる方向に伸びており、迷いが生じるために多くの貝殻マークが設置されていた。このように素朴な大自然から人間の群れへと移ると、迷いや惑いが生じやすくなるために、人々にとって導かれるものが必要となっていくのだと感じた。近い時代に大きな宗教たちができあがったのには、人間が多く繁殖し、ひどく群れることを始めたことがきっかけであるようにも思われた。
結局その道は正解の道であったらしく、道の向こうではてらちゃんが待っていたので、自分が間違っていると信じていたことが間違いであったらしく愕然とした。自分が間違っていると信じ込んだ場合、それが正しくても自分が間違っているし、それが間違っていても自分が間違っていたことになるので、自分が間違っていると信じ込むことの危険性に気づいた。
世の中には自分が間違っているとか、自分が劣っているとか信じ込む種類の人々がいるが、そのような種類の感情はある種の意味のない呪いであり、それが正しくても間違っていても自分を傷つけるだけの思い込みを抱えながら生きることは、植えつけられた間違いだと自覚しなければならない。
・あらゆる者は巡礼の神の前で平等に
パンプローナは見るからに大都会だった上に、その日はマラソン大会が開催されているらしく大いに盛り上がっていた。ぼくがパンプローナに到着したのは15時20分ほど。それからパンプローナにたくさんあるらしいアルベルゲを探し求めて再度彷徨い歩いたが、どこも満員だったので閉口した。
仕方なくインフォメーションへ赴き、空きのあるアルベルゲを探してくれるように頼み、あるひとつのアルベルゲCasa Paderbornが空きのベッドが2つだけありそれをkeepしておいてくれるというのでぼくたちはそのアルベルゲへと歩き出した。
20kmの道を歩いた後でさらに10kgの荷物を背負ってやっとの思いでインフォメーションから予約してくれた宿へと到着すると、なんとあなたたちは泊まれないと言う。なんでもぼくたちがインフォメーションから予約した直後に2人の巡礼者が来て、その人たちとあなたたちとどちらにベッドをあてがうか迷ったが、その2人の方が長い距離を歩いてきてしかも年上なのでそちらを泊めることに決めたというのだった。宿のおばちゃんは、あなたたちは泊まれないし、どこか他の宿へ泊まれるように助けることしかできないという。
ぼくは疲れた脳内でその理屈を聞いていたが、普通に考えても宿の態度としてあまりにも正常からかけ離れたありえない論理だったので、激しく抗議した。インフォメーションからの予約は正式な約束であり、そのように軽はずみに破られる約束ならばいっそ最初からしないでいるべきだろう。逆に宿として約束を結んだのなら最後、どのような事態が起きても巡礼者との約束を果たすべきである。
ここは巡礼の道の巡礼の宿だ。人と人とのささやかな約束をきちんと果たせない者が、果たして神との約束を果たせるのだろうか。
しかもその直後に来た2人にベッドを譲るという理屈が根本からよくわからない。インフォメーションからぼくたち2人が予約したのだからそれでベッドは終わり、むしろそこで後から来た2人と迷うこと自体に話の筋がまったく通っていない。そして年齢や距離で換算して巡礼者を比較するという態度に、ぼくは最も激怒した。
どんな年齢でも巡礼して歩いてくればひどく肉体を疲弊するし、どんな距離を歩いて来ていても巡礼の神聖さは不変のはずである。そのような数字の観念にとらわれて、人と人との約束を破ってもいいというその思考回路自体が完全なる迷妄の世界である。巡礼の道においては、神の御前にして、どのような年齢であろうとも、どのような巡礼の距離であろうとも、男女、人種、宗教、民族すべてにおいて平等であるべきである。このような判断は、神聖な巡礼の道に穢れを残すことになるだろう。
ぼくは怒りの中で約束を果たしてくださるよう主張し、結局は約束は守られた。もうこれ以上は何も言うまい。約束は果たされたのだからそれでいい。ひとつだけ言いたいことは、宿のおばちゃんとおじちゃんは、とても心あたたかく慈悲深い人々だということだ。
・スペイン巡礼3日目記録
出発8時 到着15時20分
消費カロリー918kcal 歩数48904歩
移動距離30.5km
健康状態:足の筋肉痛は減少、潰した左足の小指にマメが再度発生