燃え盛る火葬場!バラナシでぼくたち人間は必ず、絶対に死ぬということを思い出せ
・神秘的だったバラナシのアールティ・プージャの夜
・バラナシ観光に便利だった安宿ラム バワン レジデンシー
・象と牛と男根が織りなすバラナシのヒンドゥー教の世界
・ガンジス川で沐浴をしているインド人とパンツの謎
・バラナシの火葬場で人は必ず死ぬという事実を思い出す
目次
・神秘的だったバラナシのアールティ・プージャの夜
ぼくはインド一周の旅の中で首都のデリー、タージマハルのあるアーグラー、エッチな遺跡のあるカジュラーホー、聖人に出会ってテレビデビューまでしたサガール、インド最古の仏教遺跡のあるサーンチー、エローラ石窟群とアジャンター石窟群まで日帰り旅行できるアウランガーバード、5つ星タージマハル・ホテルに泊まった大都会のムンバイ、ピースフルな空気漂う南インドのゴア州、全裸の大仏が聳え立つジャイナ教の聖地シェラバナベラゴラ、南インドの伝統古典舞踊カタカリダンスを見られたケララ州のコーチン、東インドの大都会コルカタを経由して、ついにこの旅最大の目的である仏教巡礼の旅を開始した。
まずはブッダガヤを訪れ、ブッダが悟りを開いたと言われる菩提樹のあるマハーボディー寺院を参拝した。次にブッダが法華経などを説法し、ブッダが亡くなる最後の旅の出発点ともなったラージギルの霊鷲山(りょうじゅせん)にも赴いた。さらにはパトナ市を経由し、情報の少ない中ブッダが亡くなった聖地クシナガラへと何とか辿り着いた。この旅最大の目的地であるクシナガラに来ることができて感無量だ。まさにブッダ入滅のお姿を表現している涅槃像を、ブッダ入滅の聖地クシナガラで参拝することができ、魂は巡礼の喜びで満たされた。
クシナガラ巡礼後はローカルバスを乗り継いで、インド一周の旅の最終目的地バラナシへと向かった。バラナシの宿に着いたのはもう夕方で、その日は毎日夜にガンジス川のほとりで開催されているというヒンドゥー教の礼拝アールティ・プージャを見学し、その神秘的で壮大な様子に心を動かされた。
・バラナシ観光に便利だった安宿ラム バワン レジデンシー
翌朝、宿の屋上からバラナシの景色を一望すると、そこには雄大なガンジス川の流れがあった。昨日の夜は闇に紛れてガンジス川がはっきりとは見えなかったので、ようやくその姿を眺めることができ、本当にバラナシへやって来たんだという実感が湧いてきた。
宿泊していたのはバラナシ旧市街の「ラム バワン レジデンシー」という宿で朝食付き個室で2泊2000ルピーほどだった。内装はお洒落なインド風で、ガンジス川にもすぐ行けるしバラナシ観光にはとても便利だった。
ただし泊まるには宿泊施設が運営するNGOに加入する必要があるとされ、200ルピーを強制的に徴収されるので要注意!ぼくはBooking.comから予約したが、誰もそんな箇所見ないだろうというようなわかりにくいところにこの200ルピーの件が書かれていたので不満だった。
・象と牛と男根が織りなすバラナシのヒンドゥー教の世界
インドと言えばバラナシ、バラナシと言えばガンジス川だと、いつからぼくが思い込んでしまったのか定かではない。もちろんこれまでインドに行ったことがなかったので本とか動画の影響としか考えられないが、おそらく沢木耕太郎の深夜特急、遠藤周作の深い河、もしくは宇多田ヒカルのDEEP RIVERと言ったところだろうか。面白どころでいくと、さくらももこのさるのこしかけかもしれない。そのまさにインドのイメージを全て濃縮させたようなバラナシのガンジス川に、インド一周の旅路の果てでようやく辿り着くことができた。振り返ってみると大きな病気をすることもなかったし、お腹を壊したと言ってもかなり軽度だったし、インド人も別に全然ウザくなかったし、インドに対するイメージが覆る旅だった。しかしこのバラナシは、思い描いていたインドそのままの典型的な風景が目の前に広がっていた。
狭い小道がどこまでも迷路のように続いていくバラナシの旧市街を散策すると、インドの他のどの地域よりもヒンドゥー教的要素が濃厚で、やはりここがヒンドゥー教の一大聖地であることを実感させられる。
象の神様ガネーシャが破壊神シヴァの象徴であるリンガ(男根)を大切に扱っている絵をよく目にした。ガネーシャはシヴァの息子なので、シヴァの男根を慈しむ姿はまさに自分自身の生命の根源を大切に思っているようで納得感がある。
シヴァのリンガは絵だけではなく、石でできた最小様々な像としても街中に散見された。シヴァの乗り物は雄牛のナンディンなので、リンガ像のそばにはしばしば牛の像が佇んでいた。
男根としてのシヴァではなく、バラナシには神様の姿としてのシヴァの絵も描かれていた。この髪型こそ、ぼくがインド一周の旅の中でインド人から何度も似ていると言われたお団子ヘアだ。シヴァの髪はもつれるほどの長髪であり、その髪からはガンジス川は流れ出すのだという。シヴァの髪の毛をガンジス川の流れるバラナシで眺めるというのは、なかなか趣深いものがあった。
・ガンジス川で沐浴をしているインド人とパンツの謎
バラナシの川沿いを歩いていると、濁った水に入っている沢山のインド人たちの姿が見える。これがかの有名なガンジス川の沐浴!ぼくはこの光景を生まれて初めて見たにもかかわらず、何だかずっと昔から知っていたような、不思議な懐かしさを覚えたのだった。
バラナシではやたらとパンツが売っていて、他のインドの地域では見なかったのにどうしてここだけものすごく大量のパンツが売っているのだろう、バラナシで人はよくお漏らしをするのだろうかと疑問に思っていたが、沐浴するインド人たちを見ているとその謎が解けた。何とインドの男たちは水着とかではなく、なぜかパンツのままガンジス川へと入っていたのだった。沐浴の後、ガンジス川の水で濡れてしまったパンツの替えとして、バラナシでは沢山のパンツが売られていたのだった。
・バラナシの火葬場で人は必ず死ぬという事実を思い出す
バラナシと言えば沐浴という祈りの他にもうひとつ、火葬場としての重要な役割がある。そして何とその火葬場は、観光客でも自由に見学したり入り込んだりできるのだった。ぼくも全然火葬場を目指していたわけではなかったのに、知らず知らずのうちに火葬場に迷い込んでしまっていた。ガンジス川沿いを歩いていると、この街のことを知らない旅人は自然と火葬場に行き当たってしまうだろう。火葬場は人の肉体を燃やすための熱気で満たされ、ただでさえ暑い猛暑期のインドの気温をさらに上昇させていた。堆く積み上げられた木枝は、最初何のためのものがわからず不思議だったけれど、次第に肉体を燃やすための薪だと理解された。
普通の旅人ならば自分がいきなり死体を燃やすための場所に迷い込んだことに戸惑いを覚えたり驚愕したりするのかもしれないが、ぼくは医学生時代から解剖をしたり、医師として病院で働いていたこともあり死は決して遠い存在ではなかったので、心穏やかにインド人の死出の旅の様子を見守ることができた。インド人でも、日本人でも、いつか死ぬ。若い人でも、年寄りでも、いつか死ぬ。この世で”絶対”と言い切れることは多くはないが、人間が死ぬということは、その”絶対”をつけて断言することを許される数少ない事実だろう。ぼくたち人間は、必ず、絶対に死ぬ。そう考えればバラナシで行われている死出の旅の儀式は、決して珍しいことではなく、ぼくたちにとって当たり前の通過点だ。誰もが等しく通り過ぎる道ならば、それはおそろしくも、悲しくもない。
原始仏教の世界でも、人生は4つの苦しみに満たされているという。その4つとはすなわち生まれること、老いること、病気になること、死ぬことだ。人間は必ず老いて、病んで、そして死んでいく。人生はそのような苦しみの旅路であることを受け入れた上で、人生は苦しみであるという思想を出発点とした上で、いかにその苦しみと向き合いながら生きていくのかを原始仏教は説いている。若くて健康で生命力に満ち溢れているぼくたちは、しばしば自分が死ぬということを忘れてしまいそうになる。人間は必ず死ぬのだという当たり前の事実を、ヒンドゥー教の聖地バラナシのガンジス川、そしてブッダガヤ、霊鷲山、クシナガラなどのインド仏教巡礼の旅を通して、インドはぼくたちに思い出させてくれる。
ぼくは幼い頃、人間は絶対に死ぬものだし、ぼくも絶対に死ぬのだと、お母さんから教えられた時の衝撃を未だに覚えている。絶対に死ぬのなら、ぼくはなぜ生きていかなければならないのだろうと不思議で仕方がなかった。子孫を後世へ残すためだと言われるかもしれないが、NHKの科学的な宇宙の番組で、遠い未来に太陽は膨張を始め地球全体を飲み込み、やがて地球は破滅するという内容をやっていたので、いよいよわけがわからなくなった。ぼくは絶対に死ぬのだし、もしも必死に子孫を残してもどうせ地球がいつか滅びるのなら、子孫も地上の生命も全てが消滅するから無意味となるだろう。なぜ生きなければならないのだろうという生命にとって根源的な問いは、生きていく上で常にぼくの心に残存している。すなわち自分は何のために生きているのかを、幼い頃から常に問い続けながら生きてきたということだ。
なぜ自分は生きていくのか、その答えがわからないままで生きている人間はあまりにも多い。高学歴で優秀であることが確実である医師という職業の人々でさえ、本当は心から何がやりたいのかわからない、これから探そうとしていると口ごもることの多い有様だ。自分はなぜ生きるのか、自分は何がやりたいのか、他人が教えてくれるはずもない、答えのない問いかけを解き明かすための神秘的な鍵は、受験勉強の問題解決能力とは別の次元にあるのかもしれない。結局その答えを見つけられない者たちは、資本主義の世の中に流されてお金を稼ぐことに必死になったり、生殖器に支配されるがままにつがいとなり子孫を残すことに専念するのだろう。しかしそれは生命にとって本当に大切な問題を先延ばししているに過ぎない。ぼくたちは本来自らに備わったかけがえのない魂の使命を、どのようにして見出すことができるのだろうか。
人間は絶対に死ぬのだとガンジス川で目の当たりにする時、ぼくたちにはもう自分自身をごまかしながら生きている時間はないのだと思い知らされる。この一生は、一瞬で通り過ぎるだろう。他人の目を気にしながら生きること、空気を読みながら生きること、他人と比較しながら相対的に生きること、世の中に流されながら生きること、憎しみや妬みに支配されながら生きること、その全てが雑音や穢れとなり、本来持っていた自らの魂の使命を見抜く水晶体を濁らせてしまう。ガンジス川のほとりで炎が人間の肉体を燃やすように、まさにそのようにして、濁世に生きるぼくたちの生命にまとわりついた呪いを焼き尽くせ。
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