ルワンダ虐殺は思っていたよりもずっと複雑だった!!!!!
ツチ族とフツ族はどう分けられた?キガリ虐殺記念館でルワンダ虐殺の複雑さを学んだ
・ぼくのアフリカ大陸縦断の旅
・アフリカにおけるルワンダのいい噂と実際の首都キガリの風景
・ルワンダ虐殺は思っていたよりも複雑で難解だった
・ルワンダ虐殺を簡単にまとめてみた
・同じ人種のツチ族とフツ族をベルギーはどのように分けたのか
・キガリ虐殺記念館の入場料は無料、内部撮影は禁止
目次
・ぼくのアフリカ大陸縦断の旅
ぼくは2024年5月8日から10月1日まで、約5ヶ月間かけてアフリカ大陸縦断の旅をした。訪れた国はエジプト、エチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニア、マラウイ、ザンビア、ジンバブエ、ボツワナ、ナミビア、レソト、南アフリカ共和国だった。
第5ヶ国目のルワンダは四国ほどの大きさだったので、首都のキガリに4泊しただけで次なる国タンザニアへと移動したが、キガリで過ごした5日間は濃厚で思い出深い経験となった。特にキガリのキミロンコマーケットで、自分の選んだ布とスタイルでオリジナルのアフリカ服を作ってもらったのは特別な思い出であり、この先のアフリカ縦断の旅路でも度々着用するほどのお気に入りとなった。
・アフリカにおけるルワンダのいい噂と実際の首都キガリの風景
アフリカ縦断の旅をしていると、ルワンダに来る前から「ルワンダは綺麗で清潔でとてもいい国だ」「犯罪も少ない」「ルワンダが大好きだ」と言って来るアフリカ人が多かったので、ぼくもルワンダに来るのが楽しみになっていた。
その噂通り、ウガンダからルワンダに入国するとガタガタ道がほとんどなくなりバス移動が快適になった。これまでのアフリカでは道がガタガタでバスに乗っていても左右上下に激しく揺られることが日常茶飯事になっていたので、道がきちんと舗装されていることは何て素晴らしいことなのだろうと再確認することができた。
その一方で首都のキガリはそんなに皆が言っているほど綺麗だろうかと疑問を抱いた。確かに全然汚くはないが特別綺麗ということもなく、普通の都会だなと感じた。むしろ首都なのに一部では舗装されていない土の道を歩いたりして、服が汚れがちになったりもした。
しかしローカルバスが最新でとても綺麗だったり、宿泊したホテルDAZZLET RWANDAが広くて快適だったりして周辺のアフリカ諸国とは確かに違うと驚くことも多かった。
またルワンダは「千の丘の国」と言われるだけあって首都キガリの中でも高低差があり、高い場所から眺めるキガリの風景はとても美しかった。
・ルワンダ虐殺は思っていたよりも複雑で難解だった
このようにルワンダは、アフリカではとてもいいイメージで語られていた。しかしぼくたち日本人がこのアフリカの小国について知っていることと言えば何だろうか。高校の地理の授業で唯一ルワンダについて習ったことと言えば、ルワンダ虐殺についてだ。それについてもさほど重要視されることはなく、ただツチ族という民族とフツ族という2つの民族がいて、ルワンダという国の中で残酷な大虐殺が起きたということをセンター試験のために暗記するというような形式的な項目だった印象だ。
ここルワンダの首都キガリには、そんなルワンダ虐殺について記録されているキガリ虐殺記念館という施設がある。ぼくは虐殺についてあまり興味がなかったが、キガリに来たなら観光地としてこの虐殺記念館を訪れないわけにはいかないだろうという空気感があったので行ってみることにした。結果として知ったのは、ルワンダ虐殺がツチ族とフツ族によるアフリカの一地方の単純な民族闘争というわけではなく、歴史的・地理的な観点から見ても世界を巻き込んだ壮大なスケールの出来事だったということだ。
ぼくはルワンダ虐殺がそんなに複雑なものだとは思っていなかったので、高校の授業の知識だけで十分だろうと何も事前に調べないでキガリ虐殺記念館を訪れたが、それはとんでもない間違いだった。キガリ虐殺記念館へ行く前には、せめてWikipediaだけでも読んでその全貌を何となく把握しておいた方がいいだろう。と言ってもWikipediaのルワンダ虐殺の記事は日本語で読んでもなかなか難しく、理解するのに時間がかかった。日本語ですら理解するのが難しい内容を、キガリ虐殺記念館では英語で把握しなければならなくなるのでますます困難を極めることになる。
・ルワンダ虐殺を簡単にまとめてみた
めちゃくちゃ簡単にまとめると、ルワンダには元々ツチ族とフツ族という人々が住んでいたが、人種的に違いはなく、その境界も甚だ曖昧だった。しかし第一次対戦後ベルギーがルワンダを植民地として支配し、ツチ族とフツ族をIDカードで完全に分けてしまった。その際は少数派のツチ族が様々な点で優遇された。
しかし第二次対戦後ルワンダでも独立運動の機運が高まってくると、ベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツ族を支持する流れになり、ツチ族とフツ族の立場が逆転した。1962年にはフツ族を大統領としてルワンダが独立、フツ族からの報復を恐れた多くのツチ族はルワンダ国外へと亡命した。
このうちルワンダの北に位置するウガンダへと逃げたツチ族がルワンダ愛国戦線(RPF)という組織を結成し、1990年にウガンダからルワンダに侵攻した(ルワンダ内戦)。ルワンダ内戦は1993年に一旦は停戦されたが、1994年にフツ族の大統領の乗った飛行機が撃墜され、ツチ族の仕業だと信じたフツ族によるツチ族への大虐殺が始まった。
虐殺はツチ族だけではなく、虐殺に反対するフツ族に対しても行われ、殺された人数は200万人に及ぶとも言われている。ルワンダ愛国戦線(RPF)がルワンダ政権を倒すまで、この虐殺は約100日間も続いた。
・同じ人種のツチ族とフツ族をベルギーはどのように分けたのか
興味深かったのは、同じ人種のツチ族とフツ族をベルギーはどのように分けたのかということだ。キガリ虐殺記念館によると、ツチ族の方が長身で、鼻がまっすぐで高い、肌の色が薄いなどの身体的特徴の他に、ツチ族は遊牧民でフツ族が農耕民であることなどが分類の基準になったという。そんな適当で曖昧な基準で人間を分類されて、さらに優遇されるかどうかが決まるなんてルワンダ人からしたらたまったものではないだろう。記念館内にはルワンダ人が、鼻の高さを測られてどちらの民族か分けられる映像が流れていた。
また記念館内の映像には、ツチ族が攻撃されて血を流し傷だらけになっている生々しく痛ましい映像や、多くの死体が道の上や車の上に積み重なって並べられている衝撃的な映像も流れていて暗い気持ちになった。信じられないのはこの虐殺が大昔に起きたことではなく、1994年というつい最近起きた出来事だということだ。1994年ということは当事者の多くはまだ生きているし、その記憶を鮮明に持っている人も多いだろう。人口のおよそ10%が虐殺されるという悲劇が引き起こされたたった30年後に、今となっては周囲のアフリカ諸国から「綺麗だ」「治安がいい」「好きな国だ」と賞賛されるのは、確かに奇跡的な回復と言えるのかもしれない。
しかしそれもこれもそもそもはベルギーがルワンダ人をツチ族とフツ族に分類し優遇政策を敷いたことが発端だと考えると、ベルギーの植民地支配というのはろくなことをしなかったのだなというのがぼくの感想だった。ディズニーの映画を見ていても感じるが、西洋というのは二元論として世の中を正義と悪に分類し、正義が悪を倒すことで解決しようという精神が見て取れる。しかし現実の世界はそう容易く正義と悪に分類などできない、正義と悪はひどく曖昧であるというのがアジア人としてのぼくの意見だ。ルワンダ虐殺は西洋的な二元論という悪癖が最悪の事態に結び付いてしまった結果なのではないかと感じられてならなかった。
現代社会のインターネット上でも、人間が2つに分断されヒステリックに争っている様子が度々目撃される。男と女が憎み合ったり、若者と老人が憎み合ったり、政治的に右翼と左翼が憎み合ったりしている。しかし本来協力して助け合い、生きていくべき人間たちがこのように敢えて2つに分断され、罵り合い攻撃し合うことでそれぞれが消耗し、結果的に2つを合わせた全体としての力が失われて本来の能力が発揮されにくくなってしまうのではないだろうか。
2つのグループに分かれてしまうのは人間の単純な習性であり、仕方のない現象なのかもしれないが、それも度を超えて過激になってくると内部から集団全体が破壊されかねない。ルワンダ虐殺は、どうしても2つに分かれてしまう人間の最悪の事例として捉えることもできるだろう。ルワンダ虐殺は全ての人類に起き得る悲劇として、教訓とすべき事例なのかもしれない。
・キガリ虐殺記念館の入場料は無料、内部撮影は禁止
キガリ虐殺記念館の入場料は何と無料だった。募金箱がスルーし難い場所に設置されたりはしているが、無料で入るのだという強い意志を持っていれば無料で入ることに成功するだろう。内部は撮影禁止となっている。繰り返しになるがルワンダ虐殺は複雑なものなので、せっかく行くなら理解を深めるために軽めに予習していくことをお勧めする(自分の体験からの教訓)。
外部は撮影可能だった。今年で虐殺からまだたったの30年だという。
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